第四十話:代理人
特許庁の窓口で受領印が押されたその足で、山下は丸の内行きの地下鉄に乗った。
向かう先は、国内最大手の総合電機メーカー。かつて山下が設計のエースとして籍を置き、組織の不条理に絶望して去った古巣でもある。
三十分後。応接室の奥に座っていたのは、半導体事業本部長を兼任する石川常務だった。その傍らには知財部課長の野村と設計部門課長の安田が控えている。
「……山下君。弁理士になったと風の噂で聞いたが、わざわざアポを取ってまで持ってきた案件とは何だ? 我が社の開発リソースを割く価値があるものかね」
石川は、山下が差し出した技術概要説明書を一瞥し、鼻で笑った。
「擬似SRAM……。山下君、君も現場を離れて長すぎたようだ。我が社が今、次世代DRAMの高速化にどれだけの予算を投じているか知っているか? 数十億円規模だ。今さらコスト優先の『紛い物』のメモリに、割く時間はない」
「石川常務。これはただの擬似SRAMではありません。ユーザーが『リフレッシュ』という概念を一切意識せずに済む、完全な透過性を実現した互換メモリです。コストはDRAMのまま、使い勝手はSRAM。……この技術を組み込めば、貴社の次世代チップの設計工数は三割削減できる」
「口先だけなら何とでも言える」
石川は、苛立たしげに言葉を遮った。
「そんな魔法のようなロジック、我々の設計部隊が既に検討済みだ。結局はどこかでウェイト(待機時間)が発生し、パフォーマンスが落ちる。……野村、知財の見解は?」
振られた野村が、冷淡な声で告げた。
「……山下さん。概要を拝見しましたが、この『透過的制御』という表現、あまりに広範すぎて特許としての実効性に疑問がありますね。その“透過性”をどう実現するかが全てでしょう――そこを示さずに価値だけ語るのは、少々フェアではない、と思いますがね」
野村の狙いは明白だった。揺さぶりをかけ、技術の核心(回路図)を引き出そうとしていた。
(‥‥変わりませんねこの人は)
「野村さん。回路図をお見せするのは、ライセンス契約の基本合意を前提にした交渉に入ってからです…… 今日はその入り口に立つかどうか、それを伺いに来ただけですよ」
山下は、明細書の「特許請求の範囲」の草案を一枚だけテーブルに滑らせた。
「……『メモリ空間の、物理的な、分割の有無を、問わず』?」
野村がそこを読み上げた瞬間、隣で黙って聞いていた安田が、僅かに目を見開いた。
「物理的な分割の有無を問わない……だと? ‥‥それじゃあ、我々が検討している『バンク切り替え方式』も、すべてこの権利範囲に含まれるということか?」
安田が、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ええ。貴社がこれから数年かけて開発し、回避案だと思い込むであろうすべての設計思想を、この一行で封じ込めています」
応接室に、凍りついたような沈黙が流れた。
安田は、提示された言葉の「網」がどれほど広大で、どれほど逃げ場がないかを、技術者としての直感で察知してしまった。
しかし、石川常務は不快そうに顔を歪めた。
「……安田課長、言葉遊びに惑わされるな。実体のない権利など、我が社の法務部隊が数ヶ月で無効にしてみせる。」
「……山下君、話は終わりだ。その紙切れは、どこか物好きな会社にでも持っていきたまえ……行くぞ」
石川は、一度も技術の本質に触れることなく、部下を急かしドアへ向かった。
一人残された山下は、冷めたコーヒーを飲み干し、静かに立ち上がった。
その瞳には、怒りではなく、深い確信が宿っていた。
「……石川常務。あなたは今日、この会社が『未来』を手にするチャンスを捨てた。……それがどれほど高くつくか、いずれ骨身に染みるでしょう」
ビルを出た山下を、冬の乾いた風が迎えた。
彼はアタッシュケースを強く握り直し、足早に次の企業へと向かった。




