第三十九話:鋼の明細書
日付が変わる頃。
父である和雄は、事務所の隅にある色褪せた応接ソファで、いつの間にか眠りに落ちていた。
そのすぐ傍で、赤ペンだけが止まることなく走り続けている。
「……佐伯君、ここだ。第3項の『リフレッシュ制御回路』の定義。これではまだ、甘い」
山下は、無造作に赤ペンを走らせた。
その目は、先程の穏やかな老紳士のものではない。かつて大手メーカーで設計のエースだった男の、冷徹な技術者の目だ。
「甘い……ですか?」
「ええ」
山下は、紙面を睨んだまま言い切る。
「この書き方では、他社の設計屋がこう考える。
『メモリセルを二分割し、一方が動作中に、もう一方を裏でリフレッシュすれば、この特許の外に出られる』――とね」
紙を抉るように赤ペンを滑らせた。
「彼らは、少しでもライセンス料を削るために、死に物狂いで“逃げ道”を探す。……そして必ず見つける」
忠夫の背筋に、冷たいものが走った。
それは、90年代半ばに実際に採用された回避設計そのものだったからだ。
(……恐ろしい人だ。未来の技術の変遷を知らずに、経験だけでそこまで先回りするのか)
「……分かりました。では、山下さん。定義をこう広げましょう。『メモリ空間の物理的な分割の有無を問わず、外部サイクルに対して透過的な制御信号を生成する手段』。これなら、セルをどう切り分けようが、外部から見てSRAMとして振る舞う以上、逃げられません」
「……ほう」
山下の手が止まった。眼鏡の奥の目が、忠夫を射抜く。
「『分割の有無を問わず』……。なるほど」
山下は、わずかに頷いた。
「では、さらに毒を盛りましょう。実施例の隅に、あえて『リフレッシュの完了を待機する時間はゼロであってもよい』という一文を忍ばせる。……分かりますか、この意味が?」
「……! 内部でリフレッシュとアクセスが衝突した際、ハードウェアが自動で優先順位を制御するから、外部からは待機時間が存在しないように見える……。それを『待機時間ゼロ』と言い切るんですね」
「そうです。そうすれば、将来メモリが極限まで高速化し、誰もが『待機時間など最初から存在しない』と思い込み始めた時代になっても、この特許は彼らの喉元に突き刺さったままになる」
深夜二時。
山下は、淹れ直した苦いコーヒーを忠夫の前に置いた。
湯気の向こうで、山下はかつて自分が組織に裏切られ、心血注いだ回路を「政治の道具」として捨てられた時の話を、静かに語り始めた。
「……組織は、技術の価値を正しく測りません。
……彼らが測っているのは、『技術の価値』ではなく『組織の都合』だけだ。だからこそ、佐伯君。我々が今作っているのは、単なる書類ではない。……巨大な組織が、一人の個人の知性に屈服せざるを得ない『法的な呪文』だ。一文字の妥協も、私には許せない」
忠夫は、書き込みで真っ赤になった原稿を見つめた。
山下の執念と、自分の現代の知識が混ざり合い、明細書はみるみるうちに完成度を帯びていく。それは、将来の半導体業界の地図を塗り替える、見えない檻だった。
二週間後。
冬の冷たい空気の中、山下は特許庁の門をくぐった。
窓口に提出された一通の書類。
発明者、佐伯忠夫。
受領印が押された瞬間、山下は静かに笑った。
「……これで準備は整いました、次は――メーカーへ挨拶に行くとしましょうか」




