第三十四話:剥き出しの心臓
晩秋の古都の景色を眺める余裕もなく、忠夫が到着した任天堂本社の開発実験室は、心地よい疲労と、それを上回る興奮に包まれていた。
「お久しぶりです、植松さん、佐藤さん」
「……来たか、佐伯くん」
責任者の植松邦夫が、充血した目で待ち構えていた。その傍らには、佐藤も立っている。
作業台の上には、ジャンパ線がのたうち回る剥き出しの基板が鎮座している。試作チップを載せた、ファミコンの「心臓部」だ。
「プロトタイプが出来てからこいつを回し続けてるよ。……佐伯くん。あのカーネル、本当に『弾ける』ように動く」
植松が、誇らしげに基板を指差した。
「植松さん、佐藤さん。そのカーネルですが……今川先生が正式な名称を決めたんです」
「ほう、名前か。なんて呼ぶんだ?」
「『TRON』。……『Time Real Operating system Next』の略です」
「トロン‥‥」
「トロン、か。いい響きだ」
植松と佐藤が、その名前を噛み締めるように呟いた。
「‥‥よし、まずはここに座ってくれ。そしてこいつの真価を見てくれ」
植松に促され、忠夫は検証用のジョイスティックを握った。
カチ、カチ、とレバーを叩く。
ジャンプのタイミング、樽の転がり、挙動。そのすべてがアーケード版と遜色ない。
「……凄い。アーケード版を再現できている」
感嘆の声を漏らすと、植松は満足げに頷いた。
忠夫はバッグから一本のカセットテープを取り出した。
「実は、僕の方でも移植が完了したんです。植松さんにも以前プレイしてもらった『テトリス』……さらにそれに新機能も実装してきました」
「新機能?」
植松が身を乗り出す。忠夫はデータレコーダを接続し、テープのロードを開始した。
ピー、ギャー……。
実験室に響く独特のデジタル音。ロードが完了し、忠夫がリセットボタンを叩くと、ブラウン管のモニターが鮮やかに発光した。
画面中央には、見慣れたタイトルロゴ。だが、その下には選択肢が並んでいた。
1 PLAYER
2 PLAYER (VERSUS)
「……『VERSUS』? 対戦だと?」
植松が目を剥く。
「植松さん。予備の入力端子に、もう一本スティックを繋げますか?」
「……二本同時に動かすというのか。だが、この処理速度で入力を二系統捌くのは……」
「大丈夫です。やらせてください」
植松が半信半疑で、実験用のサブコントローラーを基板のコネクタに差し込んだ。忠夫が手元のレバーで『2 PLAYER』を選択し、スタートボタンを押す。
直後、画面が中央で真っ二つに割れた。
「……ッ!」
植松が息を呑む。
左右それぞれのフィールドで、ブロックが独立して動き出す。忠夫が左のレバーを、植松が右のレバーを握った。
「……なんだ、この反応は。二人同時に動かしているのに、微塵も重くならない!」
植松が驚愕の声を上げた。入力した瞬間に、画面上のブロックが吸い付くように回転する。TRONカーネルが二つの入力を完全に並列で、一クロックの無駄もなく処理している。
そして、忠夫が四段消し(テトリス)を決めた瞬間。植松側の画面の下から、嫌がらせのようなブロックがせり上がった。
「なっ……僕の画面に干渉したのか!?」
「これが新機能、『対戦モード』です。」
忠夫が不敵に笑う。
「これは凄い、あとは……佐伯くん、一つ試させてくれ」
植松が真剣な面持ちで、作業台の電源を切った。
彼は手慣れた手つきで、プロトタイプ基板の心臓部に深く差し込まれていた、太いケーブルを引き抜いた。デバッグ用の補助装置(ICE)を外す作業だ。
代わりに、忠夫のプログラムを書き込んだばかりのEPROMを、カチリとソケットに差し込む。
「装置を通せば動くのは当たり前だ。だが、この『剥き出しの石』だけで、君のプログラムが動作するかどうか……」
実験室に緊張が走る。植松が再びスイッチを入れた。
一瞬の静寂の後、ブラウン管にタイトル画面が表示された。装置という「補助輪」なしで、基板上のチップたちが自らの足で走り始めたのだ。
「……一発か」
佐藤が感嘆の声を漏らした。
タイミングのズレも、画面の乱れもない。
「……よし。次は『熱』だ」
植松がストップウォッチを叩いた。
画面分割、高速なブロック移動、二人分の入力。この『対戦テトリス』は、アーケードゲームの数倍はハードを酷使する、過酷な耐久テストそのものだ。
対戦開始から気づいたら二時間。佐藤が思い出したように基板中央のチップに指を触れた。
「……少し熱い。ですが、これなら許容範囲です。暴走の気配はありません。この負荷で二時間やって一ドットも揺らがないのは異常ですよ」
本来なら、これほどの負荷をかければチップは悲鳴を上げ、画面は砂嵐に変わるかフリーズするはずだ。だが、忠夫のプログラムは、無駄な計算を一切排除し、機械の熱さえコントロールするかのような効率で処理を捌ききっていた。
「……参ったな、佐伯くん」
植松が、どこか嬉しそうに椅子に背を預けた。
「この『対戦モード』で二時間耐えたなら、他のどんなゲームもこの機械で余裕で動く。……佐藤、今夜はこのまま一晩中回しっぱなしにしておけ。明日の朝、こいつがまだ元気にブロックを落としていたら決まりだ。この仕様で問題ないだろう」
植松の言葉が、静かな実験室に重く響いた。
剥き出しの基板の上で、未来が現実にぴったりと重なり、新しい時代の鼓動を刻み始めていた。




