第二六話:佐伯ペーパー
研究室の空気は、物理的な重圧を伴って凍りついていた。
リコーの技師達は、目の前の少年を凝視した。
「……君、今なんと言った? 第十二ラインのキャリー計算待ちによる『空読み』を……逆算して相殺するだと?」
さらに他の技師が裏返った声で続けた。
「馬鹿な……。それは6502というチップが、コストを削るために選んだ、十年来の『不治の病』だぞ。計算のたびに発生する1クロックの遅延を、ソフトウェア側で制御しようなんて‥‥」
技師達の動揺は当然だった。彼らにとって、その+1サイクルは「仕方のないロス」であり、予測不能な「不規則なノイズ」だったからだ。
忠夫は表情一つ変えず、淡々と、しかし断定的に言葉を重ねた。
「不規則なのは、プログラムの配置を運任せにしているからです。OSがメモリ上の全ての番地を管理し、命令がページを跨ぐ瞬間を完全に固定すれば、それは『ノイズ』ではなく、数学的な『確定要素』になります。……僕は、このチップの弱点を、OSの心拍の一部として組み込みます」
技師達は絶句した。
この少年は、ハードウェアの欠陥を「直そう」としているのではない。その欠陥を「仕様」として受け入れ、さらにその上を行く論理で包み込もうとしている。
「……君」
主任技師は、震える声で問いかけた。
「何故、それを……まさか。私は岡本一郎という、‥‥失礼だが名前を聞いてもいいかい?」
「佐伯忠夫です」
その瞬間、岡本の背筋に電流が走った。
「……佐伯? まさか……君が、あの最適化案を出した、あの『佐伯くん』なのか!?」
研究室に、二度目の衝撃が走る。
リコーの設計局で連日語られていた「佐伯ペーパー」。あの極限のチップ設計図。
「……そうか。そうだったのか」
岡本は、自嘲気味に、しかし清々しい表情で笑った。
「我々リコーの設計チームは、君が書いた図面を『佐伯ペーパー』と呼び、連日徹夜で検証したんだ。……検証すればするほど、その全ての配線に、一ナノ秒の狂いもない計算の意志が宿っていることに気づかされた」
岡本はゆっくりと、傍らに置いていた重厚なアタッシュケースを開いた。中にはリコー社外秘の「内部論理ゲート詳細図」が眠っていた。
「佐伯くん。……君が設計した器に、君自身が魂を吹き込もうとしているというなら、我々に拒む理由はない」
岡本は、門外不出の資料を忠夫の前に差し出した。
「……我々のチップのすべてをさらけ出す。君の理論で、こいつを世界一のチップに変えてくれ」
そこから、研究室は「不夜城」となった。




