第十六話:証券口座の開設
支店を出た忠夫を待っていたのは、駅前の喫茶店で落ち着かない様子でメロンソーダを前にしていた佳子だった。
「……忠夫! どうだったの、門前払いとかされたんじゃないの?」
「ううん、母さん。流石にアポを取ったんだから門前払いはされないよ、それに‥‥手応えは完璧だよ。来週、京都の本社へ行くことになった。営業部長の黒井さんが、直接、本社に繋いでくれたんだ」
佳子は絶句した。
「き、京都……? 」
「母さん、驚くのはまだ早いよ。今、僕たちの会社の口座にある現金。……直接販売の利益、全部でいくらある?」
「……昨日、書留を全部入金したから、納税分を除いても150万はあるわ。……それがどうしたの?」
「明日、父さんに証券会社に行ってもらって。その150万、全部使って『任天堂』の株を買うんだ。」
佳子は、スプーンを落としそうになった。
「なっ……! 忠夫、何を言ってるの!? 150万っていったら、あんなに指を真っ黒にしてカセットを焼いて、ようやく貯まったお金なのよ! まだ契約が決まったわけでもないのに、そんな、全部使い切っちゃうなんて……」
「決まるよ。……だって、僕が作ったソフトなんだから。……母さん、きっと任天堂はこれから大躍進する。その時、この150万は、僕たちが想像もできないほどの価値に化ける。……僕を信じて、父さんを説得して」
その夜、佐伯家の食卓は重苦しい空気に包まれた。会社から帰宅し、忠夫から事の顛末との提案を聞いた和雄は、一時間以上、黙り込んでいた。
「……忠夫。俺は株なんて博打みたいなものだと思ってる。だがな……」
和雄は、昼間、息子が神田の任天堂支社から持ち帰った「東京支店 営業部長 黒井康雄」と書かれた名刺をじっと見つめていた。
「……お前が、あの任天堂の部長を動かした。その事実の方に、俺は賭けてみるよ」
翌日。和雄は昼休みに会社を抜け出し、神田の駅近くにある証券会社の支店へ走った。
一九八二年当時、証券口座の開設は窓口での対面が常識。背広を汗で湿らせながら、和雄は分厚い口座開設の書類に署名し、実印を突いた。
「……これで、すぐに買えるんですか?」
「いえ。まずは審査と登録に一週間ほどかかります。口座が開設されましたら通知しますので、それからご入金と注文になりますね」
窓口の担当者が、和雄に告げた。
一週間後。京都へ発つ前日、ようやく和雄の元に「口座開設完了」の通知が届いた。
和雄は会社の合間を縫って、震える手で百五十万円を証券口座へ振り込み、任天堂株一〇〇〇株の買い注文を出した。
数日後、和雄の手元には、重厚な装飾が施された「任天堂株式会社」の株券(一〇〇〇株)が届いた。
千葉の小さな一軒家の押し入れに、資本が形成された瞬間だった。




