第5話 盛岡駅・開運橋・稜線の採寸 同期率:62%(指先の冷えと、遠い巨像)
1月の午後。東北新幹線を降り、盛岡駅の長いエスカレーターを下る。
自動ドアが開いた瞬間、マイナス3度の冷気がナイフのような鋭さで頬を撫でた。北上川を渡ってくる風は、湿り気を排した完全な乾燥体として、街全体を薄い氷の膜で覆っている。
「AIからの指示。――駅前広場の『滝の広場』の縁に立ち、流れる水の音を聴きながら、自分の呼吸の白さが消えるまで瞬きを禁止せよ」
僕は指示に従い、コンクリートの縁に立った。
厳冬期でも止まることのない人工の滝が、絶え間なく飛沫を上げている。冷え切った空気の中で、吐き出した息は濃密な白濁となり、視界を遮った。
僕は目を見開く。
白がゆっくりと透明に溶けていく過程を、網膜に焼き付ける。眼球の表面が外気にさらされ、急激に水分を奪われる痛み。その乾燥した痛みが、かえって周囲の景色――重厚な石造りの駅舎や、行き交う人々の厚いコートの質感を、異様に鮮明に浮かび上がらせた。
白が完全に消え、景色が静止したように感じられた瞬間、僕はゆっくりと一度だけ瞬きをした。視界が潤い、世界が再び動き出す。
指示を終え、駅地下へと続く階段を降りる。地上とは一転して、こもった空気と、多くの足音が交差する反響の世界。
「AIからの指示。――地下通路の柱にある掲示板の、もっとも古い日付のチラシを指先でなぞりながら、頭の中で『ド・レ・ミ・ファ』と音階を4セット刻め」
僕は黄ばんだ募集ポスターを見つけ、その角に指を触れた。
ザラついた紙の感触が、指先を通じて脳に電気信号を送る。
「ド」で指を止め、「レ」で右にずらす。
音階が上がるごとに、周囲の喧騒が自分を置き去りにして加速していくような感覚に陥る。4セット目を終えた時、自分の立ち位置だけが、時間の流れから数センチ浮き上がったような奇妙な遊離感を覚えた。
地上に戻り、開運橋へと向かう。
橋の真ん中で立ち止まり、岩手山を仰ぎ見る。真っ白に冠雪した山体は、巨大な結晶のように青い空に突き刺さっている。
川沿いの冷気は一段と厳しく、僕はポケットから、駅舎の地下で購入した「福田パン」を取り出した。
ずっしりと重いコッペパン。
袋を開けると、小麦の香りが冬の乾いた空気の中に小さく弾けた。
中には、黒々と光る「あん」と「バター」が塗り込められている。
一口、噛み締める。
パンのふかふかとした弾力が歯を押し戻し、直後に甘みの強いあんと、低温で固まったバターの塩気が口の中でゆっくりと分離しながら混ざり合う。
咀嚼の音だけが、耳の奥でゴリゴリと低く響く。
冷えた身体の中で、高カロリーな物質が熱へと変換されていく予兆。
10回、15回。飲み込むたびに、喉を通り抜ける固形物の質量が、自分の内側にある「重力」を再確認させた。
食べ終えた後の指先に残る微かな油分を、ハンカチで丁寧に拭う。
僕は岩手山の稜線から目を離し、冷え切ったアスファルトの上を、次の音階を探すように再び歩き出した。




