第3話 稚内駅・最果ての境界線 同期率:68%(凍結する因果律)
手元には、使い道のない時間が残された。1月の午後、日本最北端・稚内。駅舎のガラス越しに差し込む陽光は、暖かさを持たず、ただ景色を白く飛ばしている。
指示:音階 1/7
「日本最北端の線路の終点、その車止めからちょうど10メートル手前で、3分間、静止したまま自身の『中心』を意識せよ」
改札の外、駅舎の中にまで伸びてきている線路の終端。黄色い車止めが、ここが世界の終わりであることを無機質に告げている。僕はその10メートル手前に立ち、足を止めた。
自動ドアが開くたびに、潮の香りが混じった冬の風が足元を抜けていく。動かずにいると、視界の端で観光客が記念撮影をしては去っていくのが、倍速再生の映像のように見えた。僕は自分の重心が、足の裏のどのあたりに乗っているかをゆっくりと探る。右の踵、左の土踏まず。止まっているのは僕だけで、世界は絶えず北風に削り取られている。その感覚に浸っていると、胃のあたりが少しだけ冷たくなったような気がした。
指示:音階 2/7
「道の駅『わっかない』のベンチに座り、15分間かけて1枚の観光パンフレットの『文字以外の余白』だけを指でなぞり続けよ」
駅に併設された道の駅。ストーブの熱気がこもった空間で、僕はラックから適当なパンフレットを一部抜き取った。椅子に深く腰掛け、人差し指を紙の上に乗せる。
文字を読んではいけない。風景写真も見てはいけない。ただ、印刷されていない白い部分、境界線の隙間だけを指先で辿っていく。10分が過ぎた頃、周囲の話し声が遠のき、紙を擦る「カサ……カサ……」という音だけが耳元で大きく響き始めた。パンフレットという情報体が、ただの「白い迷路」に変容していく。最後の一周をなぞり終えた時、指先に残ったのは、情報の不在という不思議な重みだった。
指示:音階 3/7
「北防波堤ドームの中へ移動せよ。柱の一本一本に『名前』を付けながら、70本の円柱が作る回廊を、一歩ずつ踏みしめて歩け」
駅から数分歩き、巨大な古代ローマ建築のような回廊へ向かう。吹き抜ける風が、ドームの中で低く唸っている。僕は端の柱にそっと手を触れた。冷たく、ざらついたコンクリートの感触。
「……起点」
心の中で呟き、次の一歩を踏み出す。「……累積」「……風待」。柱は等間隔に並んでいるはずなのに、一歩進むごとに景色が微妙に歪んで見える。半分を過ぎたあたりで、自分が何本目を歩いているのか、今付けた名前が何だったのかが曖昧になった。歩くほどに、僕の体温はドームの広大な空間に霧散し、僕自身もまた、この回廊を支える無数の柱の一本になったかのような錯覚に陥った。70本目を通り過ぎたとき、振り返ると、そこには名付けられた柱たちが沈黙したまま、冬の海を見つめていた。
指示:音階 4/7
「北防波堤ドームの端。海に向かって、ポケットの中にある『一番小さな硬貨』を一度だけ握りしめ、その冷たさが自身の体温で消えるまで立ち尽くせ」
ドームの端、コンクリートの縁に立つ。目の前には、冬の鉛色をした海が広がっている。僕はコートのポケットを探り、1円玉を一枚見つけた。指先でそれを強く握りしめる。
最初は、硬貨の縁が指に食い込むほど冷たかった。波の音が、規則的な呼吸のように繰り返される。数分が経つと、手のひらの中の冷たい異物は、ゆっくりと僕の体温と同化していった。存在感が消えていく。硬貨が自分の一部になったと感じた瞬間、僕はそれをポケットの奥深くへ戻した。手放すのではなく、自分の中に取り込んだまま、次の場所へ向かう。
指示:音階 5/7
「駅前の商店街。シャッターの閉まった店の前で、誰にも聞こえない声量で『明日の天気』を三度だけ唱えよ」
駅周辺の、人通りの途絶えた通り。冬の午後の光は弱く、建物の影が長く伸びている。僕は、古びた看板が掲げられたままの、閉ざされたシャッターの前に立った。
「明日は、晴れますか」
「明日は、晴れますか」
「明日は、晴れますか」
声は、自分の喉を震わせるだけで、空気中にはほとんど溶け出さない。ただ、冷たい金属の扉に向かって言葉を投げる。返事はもちろんない。ただ、自分の声が胸の奥で反響し、少しだけ「独りであること」の純度が上がったような気がした。
指示:音階 6/7
「稚内駅の待合室。大型テレビのニュース画面を眺めながら、画面の中の人物が『瞬き』をするたびに、自分の左足のつま先を1センチだけ動かせ」
暖かい待合室に戻る。テレビでは、どこか遠い街の出来事が、淡々と報じられている。僕はベンチに座り、画面の中のキャスターの瞳をじっと見つめた。
パチリ、と画面が動く。僕は、左足の靴の中で親指を少しだけ浮かせる。また一人、別の人物が映り、瞬きをする。つま先を下ろす。
その動作を繰り返していると、画面の中の世界と、僕の身体が目に見えない糸で繋がっているような奇妙な共感覚が芽生えてきた。10分ほど続けた頃、ニュースが終わりCMに切り替わった。僕は動かすのをやめた左足に、少しだけ痺れのような、心地よい重さを感じていた。
指示:音階 7/7
「駅舎の出口、風除室の二重扉の間に立ち、次の列車が到着する合図が鳴るまで、肺の中の空気をすべて吐き出し、限界まで細く長く呼吸を繋げ」
最後に、駅の二重扉の隙間に立った。外気と内気がぶつかり合い、気圧が揺らぐ境界線。
僕は深く息を吐き出した。肺が空っぽになり、肋骨の形が浮き出るような感覚。そこから、針の穴を通すような細さで、ゆっくりと北の空気を吸い込む。
呼吸の音だけが頭蓋骨の中で反響する。思考が透明になり、自分がこの最果ての地の「隙間」に挟まった一つの現象であるように感じられた。
やがて、遠くで改札が開く予鈴が鳴った。
僕は肺を大きく膨らませ、止めていた時間を動かす。二重扉を押し開け、僕はまた、名前のない人混みの中へと静かに合流した。




