第八章:涙と、問いかけ
律くんは、震える私の手を引いて、ヴェリタス・ギャラリーの庭園へと連れ出してくれた。
広大な敷地の片隅にあるベンチにそっと座らせてくれると、彼は何も言わずに飲み物を買いに行ってくれた。
戻ってきた律くんの手には、冷たいペットボトルが二本。
一つは鮮やかなイエローのレモネードだった。
翡翠色の瞳を持つ蓮くんを思い続けていた私の前に、今、律くんが差し出してくれたのは、太陽の光を閉じ込めたような黄色。
そのコントラストが、私の心をそっと揺さぶった。
「律くん、ありがとう」
私はレモネードを受け取りながら、小さく、しかし心を込めて言った。
律くんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして。ちょっと、落ち着こうか」
三歳も年下の男の子に、こんなに心配をかけて。
私ってそんなに頼りなく見えているだろうか。
そう自嘲する私の心を見透かしたかのように、律くんは静かに言った。
「もしかして….歳、とか、気にしてます? そんなの、どうでもいいんですけど」
その真っ直ぐな言葉に、「そっか。ありがとう」と、私は素直に頷いた。
少しの沈黙の後、律くんが躊躇いがちに口を開く。
「詩織さん。あの、聞いてもいい?」
私は、彼の視線から目を逸らさずに答えた。
「うん、何?」
「月城蓮って……詩織さんの幼馴染なの?」
彼の問いに、ああ、さっき水上先輩に自分で言ったんだった、と思い出した。
「そうだよ」
私が答えると、律くんの顔に、それまで見たことのない輝きが宿った。
「え! 俺、あの人の絵、大好きなんです。めちゃくちゃカッコイイですよね」
彼の声には、抑えきれない興奮が滲んでいた。
「そうなんだ」
私は、律くんの意外な一面に、少しだけ微笑んだ。
「どんな人? やっぱりすごいんだ」
律くんは、宝石を見つめるように瞳を輝かせ、前のめりになって尋ねてきた。
「うん。いつも絵を描いていたよ。子供の頃から、天才って言われてた」
私の言葉に、律くんは「月城蓮、やっぱりそうなんだ。すげえな」と、感嘆の息を漏らした。
その表情は、まるで尊敬する師を語る弟子のようだった。
そして、ふと、彼の表情が真剣なものに変わる。
「でも、詩織さん。月城蓮のことが、好きなの?」
その、あまりにも真っ直ぐな問いに、私の心臓は大きく跳ね上がった。
「え?」
律くんは、まっすぐに私の目を見つめている。
「だって……泣いてるじゃん」
その言葉で、初めて自分の頬が濡れていることに気づいた。
なぜ、涙が止まらないのだろう。
彼の作品を前に、蓮くんに会えなかった悔しさからか。
それとも、幼い頃の優しい思い出と、手の届かない今の彼とのギャップに、胸が締め付けられたからか。
「あー、なんでかな……」
私は、言葉を濁した。
「懐かしくなって?」
律くんは、それ以上何も言わなかった。
ただ、静かに隣に座り、私の涙が止まるのを待ってくれていた。
夕陽が傾き始め、オレンジ色の光が、広大な庭園と、私たち二人の影を長く伸ばしていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。
夕日が地平線に近づき、空が燃えるような色に染まり始めた頃、私は意を決して立ち上がった。
「そろそろ、美咲さんが来るかな」
律くんは、立ち上がり、私を促すように歩き出した。
気まずいまま、私たちは美咲さんの車が駐車場に到着すると後部座席にまた並んで座った。
美咲さんは、ルームミラー越しに私の顔を覗き込み、心配そうに尋ねた。
「それで? 詩織さん、会いたい人に会えたの?」
「あー……会えませんでした」
私の声は、まだ少し震えていた。
その時、隣に座って車窓からカメラで景色を見ていた律くんが、ふと私を見た。
彼の瞳には、言い知れない感情が揺れていたように見えた。
美咲さんは、そんな律くんの視線には気づかない様子で、優しく言った。
「そっか、残念だったね。でも、まだステイは始まったばかりだから、大丈夫よ。これからL.A.行く機会もまだあるし、その人に会うチャンスはまた巡ってくるわ。諦めないで!」
美咲さんの力強い言葉と、その温かい眼差しに、私はまた涙がこみ上げてくるのを感じた。
「ありがとうございます、美咲さん……」
その日、パームスプリングスへと戻るハイウェイを走る車の窓から、私は沈みゆく夕日を眺めていた。
会えなかった悔しさ、情けなさ、そして美咲さんの優しさ。
様々な感情が入り混じり、私の胸の奥で渦巻いていた。
しかし、律くんの静かな存在と、美咲さんの力強い励ましが、私の心を確かに支えてくれていた。
私は、この場所で、彼に会うという夢を諦めてはいけない。
そう、強く心に誓った。