第七章:白亜の殿堂で、君に会うために
ヴェリタス・ギャラリーの広大な敷地を前に、私の心は高鳴っていた。
早く蓮くんの特別展へ行きたい。
その衝動を抑え、私は美大生の矜持に従って、入り口から順に展示を見て回ることにした。
秩序だった展示室をゆっくりと歩く。
一つの作品を前に立ち止まり、感心したり、深く考え込んだり。
大学で学んだ美術史や技法が、目の前の作品と繋がり、知識が立体となって立ち上がってくる。
机上の学びが、こうして異国の地で息づいていることに、私は静かな感動を覚えていた。
隣を歩く律くんは、熱心に展示品を見つめている。
時折、長い前髪の隙間から私に視線を投げかけてくる。
彼の瞳は、もはや警戒の色はなく、何かを必死に吸収しようとする、真剣な光を宿していた。
「詩織さん……この絵は?」
律くんの口から、質問が次々と飛び出してきた。
彼の声は、これまで聞いた中で一番、感情が乗っているように感じられた。
「この画家は、何ていう人?」
私は、作品の背景にある物語や画家の生涯、描かれた時代の空気について、熱意を込めて語った。
「これは、マネっていう画家の作品だよ。印象派っていう流れの始まりの人で……」律くんは、私が語る言葉の一つひとつに真剣に耳を傾けてくれた。
その瞳には、純粋な好奇心と、かすかな信頼の光が宿っているように見えた。
彼は、すっかり私に心を開いてくれている。
そのことに、私は喜びを感じずにはいられなかった。
この美術館の白い回廊で、私たち二人の間に、小さな、しかし確かな繋がりが生まれているのを感じた。
そしてその繋がりは、ロサンゼルスへの旅の目的から、私の心を少しずつ解放していくようだった。
そして私たちは、ついにその場所に辿り着いた。
蓮くんの特別展ブース。
私の心臓は高鳴り、逸る気持ちを抑えきれずにいたが、無理に冷静を装い、飾られた作品に目を向けた。
その瞬間、息をのんだ。
一枚の絵が、壁一面を覆うようにして飾られている。
それは、深い夜空の青と、無数の星々が放つ金色の光が、圧倒的なコントラストを成す作品だった。
描かれているのは、どこか寂しげな表情を浮かべる一人の少年の横顔。
その瞳は、暗闇の中でなお、鮮やかな翡翠色に輝いていた。
絵画教室で先生が「天才だ」と畏敬にも似た賛辞を送っていた、あの頃の蓮くんの才能が、これほどまでに昇華されていたとは。
作品から放たれるのは、繊細でありながらも、見る者の心を揺さぶる力強いメッセージだった。
それは、かつて私が見ていた、泣き虫で寂しげな男の子の面影を残しながら、同時に、彼がどれほどの孤独と向き合い、葛藤してきたのかを物語っているようだった。
私は、作品の前から一歩も動けずに立ち尽くす。
言葉を失い、ただただその才能に圧倒される。
彼の作品は、幼い頃の記憶の中の蓮くんと、今や手の届かない天才画家となった月城蓮が、一本の線で結ばれたような気がした。
隣にいた律くんもまた、言葉を失っていた。
普段の物憂げな雰囲気は消え、彼の瞳はまるで作品に吸い込まれるように真剣に見入っている。
「すげぇ……」
ようやく絞り出したその声は、震えていた。
その表情には、尊敬と興奮が入り混じった、抑えきれない感情が溢れている。
「やっぱり……やっぱり、すげえよ、この人」
律くんは、そう呟きながら、目を輝かせて私に振り返った。
彼の熱い視線に、私は驚きと、少しの戸惑いを覚えた。
作品に圧倒された後も、私の心は蓮くんを探していた。
心臓は高鳴ったままで、落ち着かない私は、無意識のうちにキョロキョロと周囲を見回してしまう。
どこかに、彼がいるのではないか。
いや、いるはずがない。
もし有名画家である彼がこんな場所にいれば、たちまちパニックになっているはずだ。
そんなことをあれこれ考えながら、落ち着かない私に、律くんが心配そうに尋ねた。
「詩織さん、どうしたの?」
「なんでもないよ」と、私は精一杯の笑顔を作ったが、その笑顔はきっと、ひどく引きつっていたに違いない。
展示作品を見終わっても、そこから離れることができなかった。
まるで魂を抜き取られたように、同じ場所をうろうろと彷徨う。
きっと、律くんには変な人に見えているだろう。
いい加減、迷惑かな。
もう諦めよう。
そう思った矢先だった。
背後から、颯爽と歩いてくる人影がある。
見覚えのあるその人物は、水上 怜先輩だった。
彼女は現地の人と思われる数人の男女と、流暢な英語で何かを打ち合わせているようだった。
思わず、「やばい」と声が漏れそうになり、反射的に後ろを向く。
しかし、時すでに遅し。
水上先輩の視線が、私を捉えた。
「あら?あなた?」
その声に、私は仕方なく振り返る。
気まずさが、顔に貼り付くのが自分でもわかる。
「あなた、あの七夕まつりの時に蓮と一緒にいた子よね……?」その言葉に、私は観念したように答えた。
「はい、小暮詩織と申します。蓮くんとは、幼馴染で……」水上先輩は、探るような目で私を一瞥し、「そう……」とだけ呟いた。
その声には、どこか冷たい響きが混じっていた。
「それで、ここに何の用?」と問われ、私は言葉に詰まる。
「今、アメリカに語学留学中で、それで、えっと……」
「蓮くんに会えるかもと思って来ました」などとは、口が裂けても言えない。
私の言葉に詰まる様子を見た律くんが、小さく、しかしはっきりとした声で割って入った。
「俺が、ヴェリタス・ギャラリーに行きたいと詩織さんを誘ったんです」
水上先輩の眉が、わずかに上がる。
「あら、そうなの? デート中だったのね、それは失礼しました」その言葉に、私の頬が熱くなる。
だが、それよりも聞きたいことがある。
私が言いよどんでいると、律くんが静かに、しかし毅然とした声で、水上先輩に尋ねた。
「あの、月城蓮さんはどちらに?」
私の代わりに律くんが尋ねてくれたことに、私は驚きと、同時に安堵を覚えた。
水上先輩は、私たちを交互に見て、少し意外そうな表情を浮かべた後、あっさりと答えた。
「ああ、蓮なら、創作活動期に入っているから、今は、私の父の別荘で絵を描いているわよ。父はマリブに別荘を持っているから、そこで彼には絵を描いてもらっているわ」
マリブ。
ロサンゼルスでも指折りの、高級住宅地。
私は、いてもたってもいられない気持ちになり、勇気を振り絞って水上先輩に尋ねた。
「あの……会うことはできないでしょうか?」
私の声は、ひどく震えていた。
恥ずかしさや情けなさよりも、どうしても彼に会いたいという切実な想いが勝っていた。
水上先輩は、そんな私の様子を冷めた目で見て、きっぱりと言い放った。
「今は創作活動期だから無理ね。蓮は集中すると誰にも会わないから」
その言葉で、私の希望は音を立てて砕け散った。
会えない。
その現実は、あまりにも重く、悲しかった。
私は、これまでの努力が、全て無駄だったかのような気持ちに襲われた。
「ごめんなさいね、打ち合わせ中だから。デート中失礼しました」
水上先輩は、そう言って颯爽と去っていった。
その背中を見送りながら、私はしばらく、ただその場に立ち尽くしていた。
なぜか、どうしようもなく悔しくて、情けなかった。
「出ましょう」
その時、律くんがそっと私の手を取り、静かに外へと連れ出してくれた。
その温かい手に、私は救われたような気がした。