第六章:白い丘で、君の影を探して
語学学校での日々も、着実に過ぎていった。
与えられた課題はきちんとこなし、英語を英語で学ぶ新鮮さに、私は密かな喜びを感じていた。
レベルも今の私にはちょうど良く、戸惑うことなく、確実に新しい知識が吸収されていく感覚があった。
学校には日本人がほとんどいなかった。
隣の席になった人とは、毎日、たどたどしいながらも英語で話すように心がけた。
できるだけ英語の世界に身を置こうと、躍起になっていた。
シェアハウスでも、クロエがいるときは、美咲さんも含め皆が英語で会話をする。
私も懸命にその輪に加わろうと努めた。
美咲さんと二人きりになると、つい安堵から日本語が飛び出してしまうけれど、それもご愛嬌だと、美咲さんは笑ってくれた。
そうして、胸の奥で温めてきた期待が、いよいよ現実となる週末がやってきた。
ついに、あのヴェリタス・ギャラリーへ向かう日が訪れたのだ。
私が蓮くんの作品と、もしかしたら彼自身と、再会するかもしれない日が。
シェアハウスにある美咲さんの仕事用PCを借りて、インターネットの検索窓に「月城蓮 作品」と打ち込むたびに、彼の名を冠した特別展のニュースが目に飛び込んできた。
ヴェリタス・ギャラリーの広大な敷地の一角、一つのブースを丸ごと使って彼の世界が展開されているという。
その情報が、私の胸に秘かな、しかし確かな期待を灯し続けた。
もしかしたら、そこで彼に会えるかもしれない。
たとえ会えなくても、何か手掛かりがつかめるかもしれない。
ヴェリタス・ギャラリーへ向かう朝、私は日本で大切にしていたワンピースを選んだ。
それは、淡い水色の地に、繊細な白い小花が散りばめられた、ふんわりとしたAラインのワンピース。
袖は肘丈で、控えめなフリルがあしらわれている。ウエストには、同色の細いリボンを結ぶデザインで、全体的に清楚で可憐な印象を与える。
アメリカではあまり見かけない、どこかノスタルジックでガーリーなそのデザインは、美咲さんとクロエの目を引いたようだ。
「まあ、おしゃれねえ! 詩織さんによく似合ってるわ」
「Cute dress, Shiori! I haven't seen this kind of style here.」
二人はそれぞれに感心してくれた。
そして、意外だったのは律くんの服装だった。
いつものダボっとした長めのTシャツにカーゴパンツといったラフなスタイルではなく、今日は黒のシンプルなカットソーに、濃いインディゴブルーのスリムジーンズを穿いている。
足元は、少し履き慣らした様子の、黒のレザーのスニーカー。
長めの前髪は、少しだけ横に流されており、いつもより顔がはっきりと見える。
普段の物憂げな雰囲気はそのままに、ほんの少しだけ、外出を意識したような装いだった。
美咲さんは、これぞアメリカといった感じの、明るいベージュのジャケットに、白のインナー、そして履き心地の良さそうなストレートのデニムを合わせた、カジュアルながらもきちんと感のあるスタイルで現れた。
運転席に颯爽と乗り込む姿は、絵になるようだった。
後部座席に、私と律くんが並んで座る。
すると、彼の手に、黒いカメラが握られているのが見えた。
車窓から流れる景色に、律くんはレンズを向けている。
シャッターを切る音はしない。
ただ、ファインダー越しに何かを見つめているようだった。
隣に座る彼に、今日は話しかけてもいいのだろうか。
迷いながらも、私は口を開いた。
「律くん、カメラが趣味なの?」
問いかけると、律くんは小さくこくりと頷いた。
返事はないけれど、拒絶する雰囲気もない。
少し間があって、今度は律くんの方から声が返ってきた。
「詩織さんは……美大に、行ってるの?」
その声は、相変わらず小さく、か細い。
でも、確かに私に向けられた言葉だった。
「うん。そうだよ」
私が答えると、律くんは少し考えたようで、低い声で「そうなんだ……」と呟いた。
そんな私たちの様子を、美咲さんは何も言わずにルームミラー越しに見守っていた。
車は、緩やかな坂道を登り、やがて視界が開けた先に、目指すヴェリタス・ギャラリーの壮麗な姿が現れた。
白亜の殿堂は、まるで現代の神殿のように、青い空の下、白い丘の上に鎮座している。
それは、建築と自然が完璧に調和した、息をのむような光景だった。
美咲さんが律くんに「律くん、カメラは館内持ち込み禁止だから、車に置いていきなさいね」と声をかけた。
律くんは一瞬、迷ったようにカメラを見つめたが、やがて小さく頷き、車に戻してくる。
その顔には、わずかな残念そうな色が浮かんでいた。
美咲さんは、私たちをエントランス近くで降ろすと、陽気に手を振った。
「じゃあね。帰りは、エントランスのこの場所で、日の入りが始まる頃にまた会いましょ。何かあったら公衆電話からでもいいから連絡してね。出られるようにしておくから!」
その言葉を残して、美咲さんの車は打ち合わせへと向かい、広大な駐車場へと消えていった。
私たちは二人、降り立った場所で言葉を失い、ただその場に佇んだ。
あたり一面に広がるのは、磨き抜かれたトラバーチンの石畳と、手入れの行き届いた緑豊かな庭園。
遠くには、ロサンゼルスの街並みが霞み、その向こうには紺碧の太平洋が微かに輝いている。
風が頬を撫で、都会の喧騒とは無縁の、清澄な空気が満ちていた。
まるで、俗世から隔絶された、別世界に迷い込んだかのようだった。
この光景に、私は圧倒された。
ここが、蓮くんの作品が展示されている場所。
高揚感と緊張が入り混じった感情が、胸を満たしていく。
この壮大な景色を、蓮くんもかつて見たのだろうか。
この場所で、彼の作品はどんな輝きを放っているのだろう。
彼の才能を象徴するこの白亜の殿堂に、私はようやく辿り着いた。
それは、私が描く未来への、確かな一歩だった。
隣を見ると、律くんもまた、長い髪の隙間から、まるで探求者のように、一点の曇りもない真剣な眼差しで、周囲を見回していた。
その瞳には、普段の物憂げな影は薄れ、微かな興奮の色が宿っているように見えた。
彼もまた、この壮大な空間に心を奪われているのだろうか。
「律くん、アメリカに来てから、どの辺に行ったの?」
私は、彼の緊張をほぐすように、そっと尋ねた。
すると、律くんは視線を私に戻し、少し躊躇いがちに答えた。
「パームスプリングスから……出てないよ」
その言葉は、彼のこれまでの日々が、美咲さんのシェアハウスの中だけの小さな世界に閉ざされていたことを物語っていた。
私は、彼の声の奥に潜む、誰にも見せてこなかった孤独に触れたような気がした。