第五章:砂漠のオアシスで
夕食時、美咲さんは私を歓迎するために、ささやかなパーティーを開いてくれた。
広々としたキッチンでは、美咲さんと、もう一人のシェアハウスの住人であるクロエ・ミラーが、手際よく料理をしている。
クロエはオーストラリアからカリフォルニア州立大学に留学中の女性だ。明るく気さくな人柄で、すぐに私も打ち解けた。
美咲さんとクロエが軽やかに英語を操り、笑い合う姿は、私にはとてつもなく「かっこいい」ものに見えた。
私も加わり、三人で料理をする時間は、驚くほど楽しかった。
食卓も整い、パーティーが始まる。
美咲さんが、例の高校生の男子を呼びに行った。
しばらくして、彼が姿を現す。
長めのアッシュブラウンの髪が、やわらかな光を帯びて顔の半分を隠し、その表情はうかがい知れない。
それでも、わずかに覗く鼻筋は通り、整っていることがわかる。
色素の薄い肌はどこか儚げで、ダボっとした長めのTシャツにカーゴパンツという、なんともラフな服装が、彼の線の細さを際立たせていた。
その佇まいは、どこかアーティストめいていて、インディーズバンドのボーカルにでもいそうな、独特の雰囲気を纏っている。
彼の名は、遠野 律。
美咲さんはにこやかに「詩織さんよ、よろしくね」と律くんに声をかけた。
しかし、彼はわずかに会釈しただけで、警戒する小動物のように、私から視線をそらした。
その行動は、人との関わりを拒絶しているようにも、深く傷ついた心を隠しているようにも見えた。
夕食中、美咲さんが律くんに優しく話しかけても、彼は小さく頷く程度で、ほとんど口を開かない。
それでも美咲さんは気にすることなく、私やクロエと楽しそうに話している。
その温かい雰囲気に、律くんも少しずつ警戒心を解いていくのがわかった。
彼は時折、私たちの会話に耳を傾けている様子も見えた。
私は直感的に、彼にあまり立ち入ってはいけないのだと感じていた。
だから、適度な距離感を保つように心がける。
その後、キッチンやランドリールームで顔を合わせても、挨拶を交わすだけ。
余計な詮索はしないように、細心の注意を払った。
律くんもまた、ぺこりと頭を下げるだけで、それ以上言葉を交わすことはなかった。
私はそのことを特に気にしないようにした。
それよりも、彼の抱える深い孤独に触れてはいけない気がしたのだ。
翌週から始まった語学学校には、バスで通った。
オリエンテーションも無事に終わり、初日のレベルテストでは一番下のクラスになってしまった。
「あはは、残念ながら一番下のクラスになっちゃいました」
私は笑って美咲さんに報告する。
「二ヶ月で結構話せるようになるかもよ?下からのスタートは伸びしろが大きいってことだから」
美咲さんはそう言って、私を励ましてくれた。
その言葉は、私の心を軽くした。
その日の夕食後、美咲さんが切り出した。
「詩織さん、そういえばあの会いたい人、L.A.にいるんでしょ? ちょうど週末に仕事で行くから、車に乗せてってあげるわよ」
私の胸が、小さく高鳴る。
「ロサンゼルスと言ってもけっこう広いのよ。どの辺に用事がある?私はサンタモニカに用事があるんだけど」
「サンタモニカですか? どこらへんですか?」
美咲さんが差し出した地図を覗き込むと、それは海岸沿いの、陽光降り注ぐ美しい場所だと分かった。
「そうですか……私は、美術館に行きたいんです」
私は地図上の、とある一点を指差した。
それは、山の上にある、白く輝く建物だった。
「ここです。ヴェリタス・ギャラリーに行きたくて」
美咲さんは私の指す場所を確認すると、にこやかに言った。
「分かったわ。じゃあ、私が詩織さんを美術館にドロップオフするから、私の仕事が終わったらピックアップする形でいい?」
「はい! もちろんです! よろしくお願いします!」
思いがけない申し出に、私の顔は喜びでほころんだ。
私はこのためにアメリカに来たのだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。
その時だった。
キッチンの方から、ボソッとした声が響いた。
「美術館ですか……俺も、行っても、いいですか?」
律くんだ。
彼の長髪の間から覗く瞳が、微かにこちらを向いていた。
「そっか、律くん、絵画も興味あった?」
美咲さんが尋ねると、律くんは小さくこくりと頷いた。
美咲さんは私を見て、にっこりと微笑む。
「詩織さん、律くんと二人で、そしたらヴェリタス・ギャラリーで見学して待っててくれる?仕事はそんなに長くならないはず、打ち合わせだから二、三時間だけど」
「はい、いいですよ! 律くん、じゃあ一緒に行こうか?」
私がそう言うと、律くんは深々と頭を下げ、「よろしくお願いします」と答えた。
律くんが自ら言葉を発したのは、シェアハウスに来てから初めてのことかもしれない。そのことが、なんだか嬉しかった。