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第四章:渇いた風と、見知らぬ街


西暦二千年の夏、ロサンゼルスの空の下へと降り立った私は、空港を出ると、美咲さんの運転する車で広大なハイウェイへと滑り出した。





窓の外を流れるロサンゼルスの街並みは、瞬く間に過去の残像と化す。





美咲さんは、ハンドルを握る手も軽やかに、陽気な声でパームスプリングスでの生活について語り続けた。





その声は、乾いた空気によく馴染んでいた。








「詩織さんの暮らすシェアハウスはね、ロサンゼルスから車を飛ばして二時間くらいの場所なのよ。国立公園も近いし、自然豊かで本当にいいところよ!」






二時間……。






その言葉が、私の胸に鉛のようにのしかかった。






せっかく蓮くんに会いに来たというのに、想像していたよりもずっと遠い。






ロサンゼルスから二時間。






運転免許もない私には、それが世界の果てのように感じられた。







目の前で広がっていた希望の光が、あっという間に蜃気楼のように遠ざかっていく。



彼のいる場所と私のいる場所を繋ぐのは、たった二時間のハイウェイだけなのに。



落胆の影が、じわりと心に広がる。

 








ロサンゼルスの街並みは、次第にミラーの中に小さくなり、風景は高層ビル群から、やがて広大な荒野へと変貌していく。





まるで、舞台装置が変わるように。





どこまでも続く平坦な土地に、背の低い潅木が点々と、孤独な魂のように生えている。





限りなく高く、深く見える空。









その雄大な景色を、まるで映画を観るように眺めているうちに、ああ、本当にアメリカに来たのだと、私の胸の奥で、確かな実感となって刻み込まれていく。





窓の外には、まるで西部劇のワンシーンを切り取ったような、砂漠が無限に広がっている。








美咲さんは迷いなく車の窓を開け放つと、熱を帯びた乾いた風が車内に吹き込んだ。




ラジオからは、軽快なカントリーミュージックが流れ、その音楽と共に、車は果てしなく続くハイウェイをひた走った。







美咲さんは、運転しながら自分の過去を語り始める。






「私ね、日本にいたときは旅行会社に勤めてたの。主に海外旅行の担当でね、世界中を旅してたのよ。その結果、ここアメリカを選んだんだけどね。フリーランスになった今でも、海外の素晴らしさを色々な形で伝えているの」





彼女の声には、人生の荒波を乗り越え、自らの選択を謳歌する大人の女性の、揺るぎない響きがあった。





「それに加えて、自分の住まいをシェアハウスにして、海外で羽ばたこうっていう留学生たちの支援もしてるわけ。家はね、私がお世話になってるアメリカ人の老夫婦が、もう使わないからって貸してくれてるのよ。おかげで、あなたたちみたいな若い子たちも、手が届く価格で住めるってわけ」





美咲さんの言葉に、私は心の奥底で深く頷いた。





彼女のシェアハウスが、私のような身一つで飛び出してきた人間にも手の届く金額だったからこそ、今の私がある。



それは、まさに美咲さんが言う「海外で羽ばたこうとする留学生たちの支援」そのものだった。







この温かい言葉に、張り詰めていた心が少し解ける。




私は少しだけ緊張しながら、自分の半端な状況を話し始めた。





「私、田舎から出てきて、今は東京の美大の二年生なんです。そろそろ就職のことも本気で考えなきゃいけない時期なんですけど、周りのみんなは夏休みもバイトしたり、資格の勉強したり、すごく頑張っていて……。私だけ、このままでいいのかなって、ちょっと焦りを感じてます」





そこまで言って、ふと口ごもった。





しかし、美咲さんの穏やかな、すべてを包み込むような視線に後押しされ、私は小さく付け加えた。





それは、この旅の一番奥にある真実だった。






「実は、ロサンゼルスにいる、とある人に会いたくて来たのも、理由の一つで……」







美咲さんはにこやかに頷いた。




その笑顔は、私の心に深く染み入る。






「L.A.にもよく行くから! 詩織さんが滞在中に行くときは、必ず誘うから大丈夫よ。それにね、海外での経験は、絶対にあなたの武器になる。就職の時だって、むしろ有利になるわ!」






美咲さんの言葉は、乾いた砂漠に突如現れたオアシスのように、私の心に潤いを、そして静かな希望を沁み渡らせた。




それは、私が抱えていた不安の膜を、ゆっくりと溶かしていくようだった。





この温かい言葉が、ただアメリカにいるというだけで、彼との接点が全くない現状を、いったん忘れさせてくれる。








美咲さんと話し込んでいるうちに、車はついに目的地へと滑り込んだ。




そこは、想像していた以上に「アメリカ」だった。







パームスプリングスの街並みは、ハイウェイ沿いの荒野とはまるで別世界のように、鮮やかな色彩を放っていた。






どこまでも続く青い空の下、ヤシの木が整然と立ち並び、真っ白な外壁の建物が陽光を反射して輝いている。






低層でゆったりとした造りの家々が並び、その間を抜ける道は広々としている。




通りには、カラフルなアートギャラリーや、プールサイドでくつろぐ人々が見え隠れするカフェが点在し、ゆったりとしたリゾートの空気が街全体を包み込んでいた。





乾いた風が、どこか甘い香りを運んでくるようだ。







美咲さんの案内で、車はゆったりとした住宅街の一角にあるシェアハウスに到着した。




それは、まるでアメリカ映画に出てくるような一軒家だった。






広々とした庭には、芝生が青々と茂り、白いフェンスが囲んでいる。




玄関を開けると、明るく開放的な空間が広がり、木の温もりを感じさせる内装に心が和む。







「詩織さんの部屋はここよ」






美咲さんに案内された部屋は、シンプルながらも清潔感があり、窓からはたっぷりの陽光が差し込んでいる。




そして、その部屋には、驚くことに専用のバスルームまで付いていた。





「さすがアメリカ……!」





思わず、心の声が漏れた。日本では考えられない贅沢だ。





「キッチンはここね。基本はみんな、好きなものを作って食べてる感じかな。たまに気が向いたら、みんなで一緒に食事することもあるけど、特に決まりはないの。適当にやってるのが、アメリカらしいでしょ?」





そう言って、美咲さんは広々としたキッチンを指し示す。




使い込まれているが手入れの行き届いたオーブンや大型冷蔵庫が備え付けられ、いかにも使いやすそうだ。





奥にはランドリールームもあり、真新しい洗濯機と乾燥機が並んでいた。





「さすがに洗濯機と乾燥機は古くなって、最近買い替えたばかりなのよ」と美咲さんが言う。





何から何まで、私の知る日本の生活とはかけ離れていて、その全てが新鮮で、少しばかり戸惑いを覚える。





だが、この自由で広大な空間が、私の新たな生活の始まりなのだと、改めて胸に刻んだ。






この場所で、私はもう一度、自分を見つめ直すことができるかもしれない。









「他のメンバーはね、一人を除いて、夏休み中、母国に帰っているのよ」




美咲さんがそう説明した後、少し言い淀むように言葉を継いだ。







「あと、もう一人いるの。日本人の男の子でね……日本だと高校二年生なのかな。ちょっとね、日本で学校に通えなくなってしまって、親御さんが留学させたの。ここに春から住んでてね。でも、やっぱりこっちの高校にも、今のところは行けてないんだけど」





美咲さんの声には、心配と、それでも彼を信じようとする温かさが滲んでいた。







「まあ、アメリカでの生活を通して、日本のちっぽけな価値観を吹き飛ばしてほしいと思っているのよ、私は」






その言葉に、美咲さんの人間としての大きさを感じた。






「詩織さんは来週の月曜日から語学学校よね。オリエンテーションとかもあるし。この週末は、いろいろと準備をしましょう」そう言って、美咲さんは温かい笑顔を向けてくれた。

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