第二章:再会は七夕の夜に
法事の間中、私の頭の中は蓮くんのことでいっぱいだった。
それは、喜びと後悔がないまぜになった、複雑な感情の渦だった。
あの無邪気で泣き虫だった幼馴染が、冷徹なほどに手の届かない天才画家、月城蓮だなんて。
しかし、彼は、私のことを覚えていてくれた。
その確信が、胸の奥で小さく、しかし確かな高鳴りを灯した。
法事が終わると、私は嵐のように慌ただしく着替え、七夕まつりへ向かう準備を始めた。
窓の外には、七夕飾りで華やいだ街並みが広がり、その賑わいとは裏腹に、私の心は落ち着かなかった。
母に蓮くんのトークショーの開始時刻を尋ねると、「夜七時くらいからみたいよ」という返事。
七時。
なぜ、こんなにも心がざわめくのだろう?
会って、何を話す?
言葉を探す間にも、時間は砂のように指の間をすり抜け、あっという間に過ぎ去っていった。
七夕まつりの熱気に包まれた町のメイン広場に到着すると、既にステージ前は熱狂的な群衆で埋め尽くされていた。
最前列には、目を輝かせた女子たちが、さながら偶像を崇めるようにひしめき合っている。
ああ、イケメン天才画家のファンがいても当然だ。
蓮くんは、もう手の届かない、遠い星になってしまったのだと、胸の奥がチクリと痛んだ。
それは、かつての喪失感にも似た、言いようのない苦しみだった。
ステージ裏に視線をやると、スタッフたちが蜂の巣をつついたように慌ただしく動き回り、何らかのトラブルが起こっているようだった。
予備校の夏期講習で蓮くんと親しげに話していたあの先輩女性、水上怜も、焦燥した面持ちでスタッフに混じっている。
やがて、スピーカーから、ざわめきを切り裂くようにアナウンスが響き渡る。
「トークショーの開始時間ですが、もう少しお待ちください」
私は、何事かと密かに、しかし吸い寄せられるようにステージ裏へと近づいた。
すると、水上怜先輩の焦った声が、喧騒を切り裂くように、はっきりと私の耳に届く。
「蓮が、どこかに行っちゃって……。開始時間になっても来ないの!」
その言葉が、私の心臓を鷲掴みにした。
蓮くんが、いない?
なぜ、この土壇場で姿を消したのか。
予備校で彼が見つめていた、あのどこか寂しげな翡翠の瞳が脳裏をよぎる。
彼は、一体どこへ──。
私は無我夢中で広場を飛び出し、思い当たる限りの場所を探し始めた。
賑やかな祭り会場の喧騒を背に、人通りの少ない裏道を急ぐ。
昔、蓮くんと遊んだ川べり。
二人だけで築き上げた秘密基地のある神社裏の森……。
どこにも彼の姿は見当たらない。
まるで、彼は最初からこの世に存在しない幻だったかのように。
焦燥感が、私の胸を焦がす。
そして、最後に辿り着いたのは、幼い頃に通っていた絵画教室の裏手に広がる、あの竹藪だった。
夏の夕暮れの残光は完全に消え、深い闇が竹藪を包み込む。
ひんやりとした空気が肌を撫で、風が吹くたび、笹の葉がざわめき、まるで何かを語りかけているかのようだった。
そこは、過去と現在が交錯する、境界線……。
その時、私の頭の中で、突然の雷鳴が轟いたかのように、あの日、あの光景が鮮明に蘇った。
あれは、まだ私たちが六歳だった、七夕の夜。
この竹藪で、蓮くんと私が短冊を書いていた。
川には蛍が幻想的に舞い、空には満天の星と、白い帯のように輝く天の川が広がっていた。
私は、あの日の空気、蓮くんの無邪気な笑顔、そして交わした言葉の全てを鮮明に思い出した。
それは、私の中に深く眠っていた、忘れ去られた宝物だった。
「ねえ、詩織、なんて書いたんだ?」
蓮くんの声が、まるで今、耳元で、風のように囁く。
「ひみつー! でもね、私、『フルーツぽんちっちになりたい』って書いたんだよ!」
幼い私が、未来への夢を語るように得意げに話す。
「詩織、本当に『フルーツぽんちっち』好きだよな! じゃあ、ぼくは、『ビターメロンになりたい』って書いてやるよ!」
無邪気に笑う私に、蓮くんは少し得意げに短冊を見せた。
英会話教室で習いたてだった英語を、自信満々に披露する彼に、私は首を傾げた。
「ビターメロンって何? おいしいの?」
蓮くんは「んー、よくわかんないけど、なんかカッコイイだろ!」と胸を張っていた。
子供だった私たちは、それがフルーツではなく、ゴーヤという野菜(しかも苦い!)だとは、その時は知る由もなかった。
純粋だった、あの頃の私たち。
あの七夕の夜から、私たちは毎年、願い事を書いた短冊を笹に結びつけていた。
あの時の蓮くんの言葉が、今思えば、どこか彼自身の宿命を示しているかのようにも思えて、私の心に深く残っている。
◇ ◇ ◇
日も完全に暮れ、あの幼い日のように川には蛍が幻想的に舞い、夜空には白い帯のような天の川が広がっていた。
竹藪の奥、闇の中に、私は、間違いなく蓮くんらしき人影を見つける。
彼の輪郭が、月明かりの中にぼんやりと浮かび上がる。
その背中が、もしかしたら、泣いているのかもと思った。
「蓮くん?」
思わず、声がかすれた。
それは、祈りにも似た問いかけだった。
すると、闇の中から、確かな声が、風に乗って返ってくる。
「詩織?」
その声に、私の心臓は大きく跳ねた。
予備校での再会時と同じ、あの低く、そして少しだけ懐かしさを覚える声。
彼はやっぱり、私を覚えていてくれたんだ!
一瞬、彼の悲しげな背中が、私の声に少しだけ強張ったように見えた。
顔は闇に隠されてはいたが、肩が細かく震え、その静かな佇まいから、張り詰めた孤独がひしひしと伝わってきた。
私は思わず、彼に駆け寄ろうと一歩踏み出した。
その時だった。
背後から、水上怜先輩とスタッフたちの、土を蹴る慌ただしい足音が迫る。
「蓮! 蓮、蓮がいるわ!」
水上先輩の声が竹藪に響き渡り、スタッフたちが一斉に蓮くんの元へと殺到する。
あっという間に、彼らは蓮くんを連れて行ってしまった。
捕らえられた幻のように。
去り際、蓮くんは確かに私を見た。
あの鮮やかな翡翠色の瞳は、ひどく悲しげに揺れているように見えた。
何かを語りかけるように私を見つめ返したが、何も言葉を発することなく、人波の中へと消えていった。
その蓮くんの背中を追う水上先輩と、私の視線が交錯する。
彼女の瞳は、一瞬、驚きと、そして何かわからない冷たさを宿していた。
残されたのは、笹の葉のざわめきと、蛍の儚い光だけだった。
私の手は、行き場のない熱を帯びていた。
結局、七夕まつりのトークショーは、月城蓮の体調不良という名目で中止になった。
広場に響く落胆の声が、私の耳には遠く、別世界の音のように聞こえる。
あの竹藪での再会は、幻だったのだろうか。
蓮くんは、何も告げずに去ってしまった。
その背中を見送りながら、私の胸には言いようのない焦燥感と、深淵のような寂寥感が募った。
どうにかして蓮くんと連絡を取りたい。そう画策するも、その方法は見つからない。
イベントスタッフや周囲の人々に尋ねても、ただの熱心なファンとしてしか認識されないようで、誰も取り次いでくれなかった。
美大の友人たちにそれとなく情報を尋ねたり、東都芸大の事務室に電話をかけたりもしたが、彼が海外で活動しているという事実ばかりが耳に入る。
彼の詳細な連絡先や、活動状況を知ることは叶わなかった。
手の届かない存在。
その現実に打ちのめされながらも、私の中に灯った微かな希望の炎は、決して消えることはなかった。
それは、私の心を燃やし続ける、唯一の光だった。