第一章:あの日の面影、遠い記憶
1999年7月。
時が流れるのは、こんなにも早いものだろうか。
あの日の夢を掴み、私は東京の美大に現役合格した。
憧れと不安が入り混じった日々が始まり、課題に追われながらも、友人のゆいとキャンパスを駆け抜ける毎日が、とても充実していた。
そんなある日、実家から法事の連絡が入る。
週末に故郷へ帰ることになったのだが、法事の日がちょうど七月十日の土曜日になるという。七夕の週だ。
七夕といえば、私の田舎では町を挙げて盛大なお祭りが開かれるのが恒例だ。今年の七夕まつりは、法事と同じ七月十日に開催されるという。
金曜日の授業を早めに切り上げ、私は実家へ向かった。
特急電車の窓の外は、都会のビル群から次第に緑豊かな田園風景へと変わっていく。
三時間後、駅に降り立つと、ふわりと故郷特有の、土と草木が混じった懐かしい匂いが私を包み込んだ。
家族の温かい笑顔に迎えられ、久々の食卓を囲む時間は、都会の忙しさとは無縁の安らぎに満ちていた。
法事の話から、自然と明日の七夕まつりの話題になる。子供の頃、私もこのお祭りを心待ちにしていたものだ。
「そういえば、詩織。大沢蓮くんのこと、覚えてる?」
母が唐突に尋ねた。
その名前が、私の心の奥底に沈んでいた幼い頃の記憶を、鮮明に引き上げる。心臓が一瞬、大きく跳ねた。
「大沢蓮くん? もちろん覚えてるよ。蓮くんでしょ?」
大沢蓮。
彼は幼稚園の頃から私と同じ絵画教室に通っていた。
私より小柄で、どこか繊細な影をまとっていた。
父方の祖父がヨーロッパ人だとかで、彼の瞳の色は鮮やかな緑色をしていた。
それが原因か、周りの男子たちから「目つきが変だ」「都会ぶってる」とからかわれていたのを覚えている。
この田舎町で、その珍しい瞳の色と浮世離れした雰囲気を持つ蓮くんは、いつも周囲に馴染めないでいるように見えた。
そんな時、正義感だけは人一倍強かった私が、いつも彼を庇っていた。
すると、彼はひよこが親鳥に寄り添うように、私にぴたりとくっついてきた。
彼の小さな体温が隣にあるだけで、私はなぜか、蓮くんを守っているつもりが、いつのまにか守られているような気がしていた。
絵画教室の先生は、蓮くんの絵を見るたび、「将来が楽しみだ」と褒めていた。私も色使いを褒められてはいたけれど、蓮くんの才能は群を抜いていた。
しかし、私たちが小学校五年生に進級する頃、蓮くんは新年度になったらいなくなっていた。
何も言わずに消えた彼に、私はひどく打ちのめされた。
それは、初めて知る喪失の痛みだった。
そして、私の中に、あるひとつの確信が芽生えた。『本当は、蓮くんは私のことが嫌いだったのではないか、離れられてせいせいしているのでは』。
同じクラスの蓮くんのことをからかっていた男子からも、「蓮、お前に何も言わないなんて、嫌われてたんだよ」「詩織は、性格きついんだよ!」と言われたこともあり、その想いは私の心に深く突き刺さった。
その出来事から、私は人と深く関わることを恐れるようになり、いつしか目立たないように生きることを選ぶようになった。
それでも、時々、あの泣き虫で、どこか寂しげな目をしていた蓮くんのことを思い出してしまう。
彼の描く絵は、幼いながらもどこか影があった。
その緻密な筆致と洗練された色彩は、まるで、あのエメラルドの瞳の奥にいつも揺れていた悲しげな光を映し出しているようだった。
そのたびに、私の胸の奥は締め付けられた。
「蓮くんが、どうしたの?」
私が尋ねると、母はにこやかに答えた。
「蓮くんね、東都芸大に飛び級で入学したんだって。今は海外でも活躍してるらしいわよ。あの天才画家、月城蓮なんだって!」
母の言葉が、私の時間を一瞬にして止めた。世界がひっくり返ったような衝撃。
「えー!? 蓮くんが、あの月城蓮!?」
私の口から、驚きというよりは、もはや絶叫に近い声が漏れ出た。
大沢蓮と月城蓮。苗字が違うことに、すぐに気づく。
「でも、苗字、大沢じゃないよ?」
母は少し顔を曇らせ、言いにくそうに続けた。
「ああ、そうね。蓮くんのご両親、あなたたちが五年生に上がるとき、離婚されたそうよ。蓮くんが急にいなくなったって、詩織、相当落ち込んだじゃない?あの時よ。お母さんのご実家が東京だから、離婚を機にそっちに引っ越したらしいの。蓮くん、いろいろと苦労したんでしょうねぇ……」
蓮くんが、そんな辛い過去を抱えていたなんて……。
自分の無神経さに情けなくなる。
私の記憶の中の彼は、いつも私にくっついていた泣き虫な男の子だった。
私が守ってあげたかった小さな背中は、こんなにも大きな孤独を背負っていたのだろうか。
彼の家に遊びに行った時、優しくて穏やかなお母さんが、いつも冷たいメロンジュースを出してくれた。
あの甘い香りと鮮やかな緑色は、忘れられない特別な味として、深く心に刻まれている。
今、その香りが、予備校で彼がいつも飲んでいたメロンジュースと重なり、胸の奥に、懐かしい温かさが広がった。
母は、私の動揺に気付かないまま、嬉しそうに話を続けた。
「それでね、今年の七夕まつりのポスターとかなんだけど、蓮くんにデザインを頼んだんだって!」
母の言葉が、私の体の中を電流のように駆け抜ける。
そういえば、町中で見かけた今年の七夕まつりのポスター。
いつもより格段に洗練されていて、都会的な光を放っていた。
まさかそれが蓮くんのデザインだったなんて。信じられないけれど、納得してしまう自分がいる。
「明日の、お祭りでね、町のメイン広場で蓮くんと町長がトークショーするんだってさ」
追い打ちをかける、母のその言葉に、私は息をのんだ。
ドクン、ドクン。
耳元で聞こえるほど、鼓動が早まる。
どうしよう。会う。
会ってしまうの?
あの美術予備校での蓮くんの姿が、鮮明な残像として蘇る。
相変わらずメロンジュースを飲んでいたこと。
私に「色づかいは変わってないな」と囁くように呟いた低い声。
そして、「フルーツぽんちっち」が好きかと、あの吸い込まれそうなエメラルドの瞳で私の心を覗き込むように尋ねてきたこと。
「七夕の短冊に何を願う?」と、私に問いかけてきたこと──。
全部、全部、蓮くんは、私が幼馴染の小暮詩織だと知っていて、あんなことを言っていたの?
私を、覚えていてくれたの?
その事実に、胸の奥で、忘れていた記憶の断片が、カチリと音を立てて繋がっていく。
点と点が結ばれ、一本の線になった瞬間、私は彼が私を覚えていてくれたことに、純粋な嬉しさを覚えた。
同時に、なぜ私だけが彼の変化に気づかなかったのかと、顔から火が出るような恥ずかしさに襲われた。
思い返せば、予備校で彼を見かけたとき、何かが引っかかっていたはずなのに。
あの時、なぜもっと深く考えなかったのだろう。
自分の鈍感さが情けなくて、申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。
明日、彼に会ったら、私は一体どんな顔をすればいいのだろう。
この溢れそうな感情を、どうしたらいいのだろう。