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序章:翡翠の瞳と、予感の片隅で


1997年、夏。





カツ、カツ、カツ。




薄暗い石膏デッサン室に響く鉛筆の音が、教室に澱んだ重い空気を鋭く引き裂く。東京郊外の美術予備校。




絵の具と汗の匂いが混じり合い、呼吸をするたびに肺の奥まで粘りつくような息苦しさがあった。





誰もが鬼気迫る視線で、目の前の石膏像や自分のキャンバスを見つめている。







「特別になりたい」







その熱気が部屋の空気を張り詰めさせ、今にも弾けそうだった。








私の名前は小暮詩織(こぐれ しおり)



ごく平凡な高校二年生だ。



肩にかかる程度の黒髪は、一度も染めたことがない。教室の隅でひっそりと息を潜めるタイプ。



昔は違ったけど…。







実家は東京から特急で三時間、星美町(ほしびまち)という小さな町にある。



空気が澄み、夜には美しい天の川が見える、七夕祭りで有名な町だ。



私はこの町から美大を目指し、夏期講習のためだけに都会に来ている。



高校一年から、長期休みのたびに親を説得し、親戚の家に身を寄せながら通い続けていた。







張り詰めた予備校の空気も、都会の喧騒も、すべてが私には眩しかった。





そんなざわめきから隔絶されたように、教室の片隅に氷のように佇む男の子がいた。








月城蓮(つきしろ れん)







私と同じ高校二年生だが、東都芸大付属高校に通っているらしい。




夏期講習の生徒のほとんどが私服の中、彼はいつも白シャツにネクタイの制服姿だった。






まるで、この場所にいる誰もを寄せ付けない孤高の存在。都会の喧騒から切り離された、別の次元にいるかのようだった。






彼はこの予備校でアルバイトをしている。画材を用意したり、教室の設営をしたり、裏方の仕事がメインだ。




そんな彼がふと鉛筆を握った瞬間、周囲の空気はさらにピンと張り詰める。








すらりと長い指が、信じられないほど正確に鉛筆を操り、紙の上に命を吹き込んでいく。その線には一切の迷いがなく、すでに完成された芸術のようだった。






みんなは一瞬だけ彼に目をやると、すぐさま自分の未熟な絵へと視線を戻す。彼の圧倒的な才能は、憧れであると同時に、深い絶望でもあった。






誰もが彼を遠巻きに眺め、噂し合う。






女子たちは、彫刻のような彼のルックスについて囁き合った。





背が高く、涼しげな顔立ち。前髪が目にかかるほど長く、その奥に隠すように静かな光を宿している、翡翠色の瞳。あまりに非現実的なその瞳の色に、私はただ息をのんだ。





男子たちは、彼の圧倒的な才能について、畏敬の念を込めて語り合う。







あまりにもかけ離れた存在だからか、彼は誰とも親しくしている様子はなかった。






ただ、この予備校出身の現役東都芸大一年生で、チューターを務める水上怜(みずかみ れい)という女性の先輩とは、時々親しげに言葉を交わしている姿が見られた。







その日も実技の授業が進んでいた。






月城蓮が画材の補充のために私の後ろを通った時だ。彼は独り言のようにぼそりと呟いた。






「……色づかいは変わってないな」






掠れたような、少し低い声。






まさか私に話しかけられたなんて思えず、空耳かと首を傾げる。





しかし、その言葉は妙に耳に残り、胸の奥が不思議にざわついた。





無意識のうちに彼の背中を目で追ってしまう自分がいる。





広い背中はいつもどこか寂しげに見えて、その孤独が私の心にひっそりと響いた。








昼休憩になり、みんながコンビニなどへ向かう。






私も、講習で仲良くなった東京の子、佐藤ゆいと一緒に予備校を出た。






コンビニの入り口で、私たちは蓮を見かける。彼はシャツの袖をまくり上げ、レジでメロンジュースを買っていた。






「月城くんって、いつもメロンジュース飲んでるよね」






ゆいが小声で呟いた。





そう言われてみれば、確かに。






予備校の休憩時間にも、ストローを刺した紙パックのメロンジュースをよく見かける。







彼のクールな雰囲気と、その可愛らしいジュースの組み合わせが、私には少し意外だった。なぜか、その光景が心に残る。







その後も、偶然トイレに行く途中の廊下で、窓の外を眺めている彼の姿を見かけた。その時も、彼はメロンジュースを手にしていた。







あの「色づかい」の呟きもあってか、彼を見かけるたびに、無意識に視線が吸い寄せられる。







整いすぎた顔。







なぜ、あんな絵が描けるのだろう。







私とは全く違う世界に生きる彼に、漠然とした憧れと、少しの戸惑いが頭を巡った。




彼の穏やかで落ち着いた佇まいは、周囲の喧騒とは別世界のようだった。









そんなある日のこと。







授業が終わり、ゆいと一緒に帰り支度を整えて校舎を出る。門の前でゆいと話していると、鞄の中が軽いことに気づいた。






ペンケースがない。






「ごめん、ゆい! ペンケース忘れちゃったみたい! 先に帰ってて!」





慌ててゆいにそう伝え、私は一人、予備校の教室へと引き返した。








教室のドアを開けると、窓枠に腰かけ、夕焼けに染まる空を見つめる月城蓮がいた。






その翡翠色の瞳には、黄昏の光が静かに宿っている。






たった一人でいる彼の姿は、まるで絵画のようだった。







急に心臓がドクンと音を立て、鼓動が速くなる。






「失礼します」







小声でそう言って、自分の席へと向かうと、彼が手にしていたペンケースを差し出してきた。







「これ、忘れ物」






どこか優しさを帯びた声だった。






「ありがとうございます」





私は小さく礼を言い、彼からペンケースを受け取った。





その瞬間、彼の指先が、私の指にそっと触れる。







まるで電流が走ったかのように、心臓が大きく跳ねた。





指先から伝わる彼の温もりに、頬まで熱が上がるのを感じる。





思わず目をそらしたが、彼が目の前にいるだけで、息をするのも苦しいほどだ。








近くで見る月城蓮は、やはり息をのむほど整った顔立ちだった。





その瞳はなんとも魅力的で、彼の静かな眼差しに吸い込まれそうになる。







ふと、彼の隣に置かれたメロンジュースに目が留まる。





彼にとって、どんな意味があるのだろう、このメロンジュースは。






「月城くん、メロン好きなんですね」






思わず、そんな言葉が口から出た。







すると、彼の翡翠色の瞳が、ゆっくりと私に向けられた。その視線に、胸がドキリと高鳴る。






「……フルーツぽんちっち。好き、なのか?」






彼は、私の手の中のペンケースを指さしながら、そう問いかけた。







「え? あ、このペンケース?」






私のペンケースには、幼稚園の時に大好きだったアニメ「フルーツぽんちっち」のキャラクターが描かれている。






少し気恥ずかしくなって、私は頬を掻いた。







「うん。ちょっと恥ずかしいんだけどね。昔から大好きで」







私の言葉に、月城蓮は再び、ふと窓の外へと視線を向けた。






その横顔は、やはり何を考えているのか読めない。







「七夕の短冊……願い事……何を書く?」






突然の問いかけに、私は戸惑った。





今は夏休みで、七夕はとっくに終わっている。なぜ突然そんなことを聞くのだろう?








彼が私を見つめ返し、何か答えを待っているような雰囲気がした。




その真剣な眼差しに、少しだけ緊張する。







「え? 何だろう。今は……美大に合格したい、かな?」






私の答えを聞いた月城蓮の瞳に、一瞬だけ、何か感情が動いたような、微かな揺らぎが見えたが、それが何なのかは分からなかった。






しかし、それはすぐに消え、再び窓の外の景色を見ながら、月城蓮は静かに言った。







「……何でもない。気にしないで」






そう言い残し、彼は窓枠から降り、無言で教室を出ていった。




彼の残した言葉が、夏の夕焼けのように、私の心に淡い残像を残した。








翌日から、講習の会場に月城蓮が来ることはなかった。





彼の姿を探してしまう自分がいることに気づき、小さく息を吐く。






 ◇  ◇  ◇






そして、夏休みが終わり、私はまた地元の高校に通う日常に戻った。





ゆいとは、時々手紙をやり取りするようになっていた。




ある日、ゆいから届いた便箋には、夏期講習の懐かしい思い出が綴られていた。






「ねえ、聞いて! すごい噂を聞いちゃったの! 月城蓮くん、優秀だから飛び級して、来年度から東都芸大に入学するんだって! びっくりだよね!」





私は、彼女の丸くて可愛らしい文字を指でなぞる。





あのクールで謎めいた男の子が、さらに遠い存在になった気がして、胸の奥が少しだけ、きゅうっと締め付けられた。

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