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南北疾風録  作者: 八月河
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双瞳の鬼神、新野の激突

南朝斉では、父の高帝・蕭道成の死を受けて、蕭賾が即位した。彼の治世は「永明の治」と称えられ、国力増強のために大規模な検地を実施した。厳しい政策ゆえに農民の反発を招くこともあったが、反乱は微弱なものに留まり、検地は成功裏に終わった。さらに、戸籍を整理し、貴族の利権を削減することで皇帝権力の強化に努めた。その手腕は、南朝における名君の一人として讃えられた。


しかし、襄陽の地でこの報せを聞いた慕容麒、その正体は百年以上を生きる現代人林暁であった。彼は、この「永明の治」の陰で、南朝斉の政権基盤が未だ不安定であることを感じ取っていた。


(蕭賾か。歴史の教科書でも名君として扱われる男だ。検地、戸籍整理、皇帝権力の強化……。手堅い。だが、その手堅さが、この国の根底にある宋以来の官僚と、蕭氏の新しい官僚との間の溝を埋めるには至っていない。いつ、この安定が崩れるとも限らぬ……。だが、南朝に名君が現れたことは、劉裕殿の遺志を継ぐ予にとっては、喜ばしいことだ。それにしても……『永明』とは。永く明らかなる治世か。良い響きだ)


その一方で、慕容麒は襄陽の守りを固め、この十年の間に劉裕が託した「安寧」という遺志を胸に、腹心となる五人の将を育て上げていた。豪快で義理堅い呂天青、思慮深く戦略に長けた上官論、沈着冷静な王民、弓馬に優れた李成、そして若くして武勇に秀でた寇深。彼ら五人は、慕容麒の右腕となり、燕恪軍の屋台骨を支えていた。


北の北魏では、孝文帝の急進的な漢化政策の嵐が吹き荒れる中、次代を担う将器を育てるため、貴族の子弟を集めた精鋭部隊の育成に勤しんでいた。


そんな中、偵察隊から上がってきた報告書に、慕容麒は眉をひそめた。


「上官論、この報告は確かか? 貴族子弟の訓練部隊が、衙禁兵を従えて南下しているというのか?」


「はい、将軍。間違いありません。その数、およそ四万。貴族子弟はまだ若輩者ですが、その周りを固めるのは南朝宋から投降した衙禁兵であり、その精強さは侮れません」


慕容麒は、北魏の意図を測りかねていた。単なる訓練であれば、これほどの大部隊を南下させる必要はない。これは、南朝斉の出方を試すための、北魏からの挑発に他ならない。


(このままでは、北魏の策に嵌ってしまう……。だが、蕭賾は南朝斉の安定を優先し、安易な戦を避けたいはず。ここは、予が先手を打たねばならぬ)


慕容麒は、直ちに諸将を集めて作戦会議を開いた。


「皆に告ぐ! 偵察の報告によれば、敵軍は北魏が誇る精鋭中の精鋭、左右龍武軍、神策軍、神武軍から構成される! その数、四万! 皆、心して聞け!」


慕容麒の言葉に、諸将の顔色が変わった。誰もが、その恐るべき兵力に緊張と恐怖の色を浮かべた。しかし、これは慕容麒がわざと流した偽の情報であった。彼の真意は、諸将に過剰な警戒心を抱かせ、慎重な行動を促すことにあった。


(ここで臆病風に吹かれてはならぬ。しかし、無駄に血を流すことも避けたい。彼らには、北魏の兵力の恐ろしさを知ってもらい、その上で、予の指揮を信じてもらわねばならぬ)


慕容麒の策は、功を奏した。諸将は、慕容麒の言葉を信じ、慎重な姿勢を崩さなかった。


建康では、武帝こと蕭賾のもとに慕容麒からの報告が届き、百官が集められて議論が交わされた。


「慕容麒将軍は、北魏の精鋭四万が南下していると報告している。諸君らの意見を聞きたい」


宋から官職を得た者たちは、慕容麒の報告に疑いの目を向け、安堵の表情を見せた。


「陛下。慕容麒将軍は、北魏の動きを過大に報告しているに過ぎません。北魏は、孝文帝の漢化政策によって国内が不安定であり、大規模な南征を行う余裕などありません。ここは、安易に戦を仕掛けるべきではありません」


しかし、蕭道成以来の重臣たちは、慕容麒の言葉を真摯に受け止め、緊張した面持ちで武帝を見つめた。


「陛下。慕容麒将軍は、北魏の脅威を最もよく知る男。彼の言葉に偽りがあるとは思えません。ここは、将軍の言葉を信じ、万全の態勢を整えるべきです」

武帝は、静かに皆の言葉を聞いていた。彼の心の中には、慕容麒への深い信頼があった。


「皆、落ち着け。慕容麒将軍は、宋の時代から一貫して北の脅威と戦ってきた男。彼の判断に間違いはない。この件については、慕容麒に一任する。彼を鎮北将軍、領荊北軍事都督に任じ、全権を与える」


さらに武帝は、猛将の周盤龍を襄陽に向かわせ、慕容麒を支援させた。


慕容麒は、この武帝の決断に安堵し、作戦を実行に移した。まず、腹心である上官論に兵五千を与え、新野の地に陣を敷かせ、敵を誘い込むように命じた。しかし、上官論は新野で一ヶ月近く待ち構えたものの、敵軍は全く動きを見せなかった。


(おかしい……。北魏の貴族子弟が、これほど慎重になるとは……。何か、別の意図があるのか?)


慕容麒は、上官論の報告に怪訝な思いを抱き、厳戒態勢を取りつつ、自ら少数の兵を率いて偵察に赴いた。

鬼神の襲来、歴史の邂逅


慕容麒は、北魏軍の動きを注意深く観察しながら、歴史の知識を巡らせていた。


(この時期の北魏の将で、警戒すべきは……。中山王元英、楊大眼、邢巒けいらん……。彼らがもし現れれば、甚だ迷惑だ。今のうちに、彼らが本領を発揮する前に、叩いておかなければならない。特に楊大眼は、武力は最強クラスだ。彼が本領を発揮すれば、この時代の戦術では、簡単に勝てぬ)


彼の予感が的中した。偵察から帰る途中、魏軍の進軍が、予想よりもはるかに早いことに気づいた。そして、新野城が、すでに魏軍に囲まれていることを知った。


「くそっ! やはり、上官論は囮だと見破られていたか!」


慕容麒は、新野城を救うため、単身、敵陣に斬り込んだ。彼は、腰に佩いた剣を抜き放ち、魏軍の兵士を数人斬り倒した。しかし、手応えもなく敵が倒れるのを見て、彼は再び怪訝な思いを抱いた。


(この兵は、訓練された者ではない。精鋭とは程遠い……。やはり、北魏は、我々を欺こうとしていたのか?)


敵から奪い取った槍を手に、慕容麒は更に奮戦した。彼の武芸は、慕容氏の血を引く者として、まさに天賦の才であった。彼は、現代の中華時代劇の曲芸まがいの武芸を披露し、敵は彼の圧倒的な強さに畏怖し始めた。その時、一人の男が、彼の前に立ちはだかった。


「そこを動くな! 我、楊大眼なり!」


その言葉に、慕容麒の体内に衝撃が走った。彼は、その男の顔を見つめ、思わず口元を緩めた。


(楊大眼……! やはり、歴史は繰り返すのか……。しかも、その双瞳……。間違いない、楊大眼だ!)


慕容恪を智勇双全と評するのであれば、この楊大眼は間違いなく剛勇無双の武将である。その手に持った大鉞は、見る者すべてに恐怖を与える、まさに鬼神の武器であった。


慕容麒は、楊大眼の強さを肌で感じ、機転を働かせ、何とか彼を撃退した。この一戦を見て、魏軍は一時は盛り返したが、城から斉軍が出てきた途端に、兵を引いていった。


襄陽に展開していた呂天青ら他の将軍たちは、新野の状況を知ると、慕容麒の救援に向かうのではなく、敵軍の退路を塞ぎに行った。彼らの心には、慕容麒への絶対的な信頼があった。


「上官論! 将軍は必ず無事に戻ってくる! 我々は、敵の退路を断ち、新野を完全に孤立させるぞ!」


呂天青の号令に、燕恪軍は一斉に動いた。慕容麒の武勇と、腹心たちの信頼、そして武帝からの全権委任。すべてが、北魏との新たな戦いを予感させていた。

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