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南北疾風録  作者: 八月河
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燕恪軍の麒麟、二朝の皇帝

南朝宋が再び血で血を洗う混迷の時代へと突入する中、襄陽の地には、劉裕から託された城を十年の歳月をかけて盤石なものにした一人の男がいた。その男の名は慕容麒。だが、その正体は、老いたる燕の将軍、慕容復であった。彼の指揮のもと、襄陽一帯の兵は十二万にまで膨れ上がり、将官は十八名を輩出。漢水と長江という地の利を活かし、精強な水師をも有するようになっていた。


日々の鍛錬の合間、慕容麒は城壁の上から遠い建康の空を見つめていた。そのまなざしは、悲しみと、そして揺るぎない決意に満ちていた。


(劉裕殿は、予を信じてくださった。この襄陽の地を、予に託してくださった。予は、その信頼に応えねばならぬ。この軍は、もはや宋の軍ではない。劉裕殿が遺した、予と劉裕殿の絆の証なのだ)


慕容麒は、劉裕が彼の軍を『燕恪軍』と名付けたことを思い出す。それは、慕容氏の故郷である燕に因んだ名であり、劉裕が慕容麒という存在を、異国の将軍としてではなく、真の同志として認めていた証だった。


(『燕恪軍』……。劉裕殿の、予への信頼と、予の故郷への敬意が込められた名……。この軍を、予は、決して北魏に踏み込ませはせぬ)


慕容麒は、燕恪軍の指揮官として、北魏の侵攻を幾度となく退け、その存在は北魏の将軍たちにとっても、檀道済亡き後の最大の脅威となっていた。


北魏の将軍たちは、慕容麒の存在に警戒を強めていた。平城の宮殿の一室で、北魏の将軍たちが地図を広げ、議論を交わしていた。


「慕容麒の燕恪軍か……。あの男は、劉裕の遺志を継ぐ、真の将星だ。襄陽の十二万の兵と、独自の水師……。簡単には手出しができぬ」


一人の将軍が、そう言って顔をしかめた。別の将軍が、それに反論する。


「しかし、いつまでもあの男を野放しにしておくわけにはいくまい。南朝宋が内乱に明け暮れている今こそ、好機だ。今こそ南下し、長江以北の地をすべて手に入れるべきではないか!」


その言葉に、老将軍が静かに首を振った。


「いや、待て。あの男は、決して軽んじてはならぬ。かつて我らが大軍を打ち破った檀道済の戦術を、すべて吸収しているのだ。下手に動けば、こちらが返り討ちにあうだろう。あの男の戦術は、もはや人間業ではない……。彼は、我ら北魏にとって、越えられぬ真の『万里の長城』なのだ」


北魏の将軍たちは、慕容麒という謎めいた存在に、手を出すことができずにいた。


一方、北の北魏では、文成帝の死後、新たな権力闘争の火種が燻り始めていた。文成帝により立太子され、四六五年に即位した拓跋弘は、幼少であったため、丞相の乙渾が実質的に国を統治していた。


しかし、文成帝の嫡母である馮太后は、乙渾の専横を許さなかった。彼女は、乙渾を殺害して自ら称制を行った。

(この国は、妾が、この手で動かさねばならぬ! 乙渾ごときに、太武帝様が築き上げたこの国を好き勝手にさせてはならぬ!


馮太后の胸には、北魏を盤石な強国へと導くという、強固な決意が宿っていた。彼女は、四六九年に長男の拓跋宏を立太子し、献文帝に親政を開始させた。献文帝は、三等九品の制を定め国内の統治を整備し、次の孝文帝の盛期の礎を築いた。


だが、献文帝は、四七一年に譲位し、太上皇帝を自称。その行動は、馮太后の胸に、新たな疑念を生み出した。

(拓跋弘よ……。お前は、文成帝の血を引く者として器量が足りぬ、この国の安寧を築き上げるべきだ……。)


馮太后は、献文帝の譲位を、彼が国を治める能力がない証拠だと判断した。そして、四七六年、馮太后は、献文帝を毒殺し、北魏の政権を完全に掌握した。


(妾の決断は、この国の未来のため。拓跋弘よ、安らかに眠れ。この北魏は、妾が、必ずや守り抜いてみせる)


馮太后の冷酷な決断は、北魏の宮廷に静かな恐怖をもたらしていた。


一方、南朝宋では、文帝の息子である劉彧が皇帝に即位し、泰始元年と改元した。しかし、彼の即位に反対する者たちが続出した。晋安王の劉子勛が尋陽で挙兵し、泰始二年、徐州刺史の薛安都をはじめとして、地方の有力者たちが次々と反乱を起こした。


(予は、劉裕殿の血を引く者として、この国の安寧を取り戻さねばならぬ! なぜ、皆、予に刃向かうのだ! 劉裕殿、なぜ、予は、このような苦境に立たされねばならぬのですか……!)


劉彧は、反乱の鎮圧に苦慮していた。さらに、薛安都が北魏の軍を引き入れたため、明帝側の張永、沈攸之らは敗北し、淮北四州と豫州の淮西を北魏に奪われた。


内政面でも、賄賂が横行し、軍事費や寺院の建設費などで財政難に陥っていた。さらに、劉彧は、孝武帝の二十八人の夭折を覗く男子を全員殺すという、冷酷な決断を下していた。それは、自らの地位を守るため、そして、新たな権力闘争の火種を摘み取るための、非情な決断であった。


慕容麒は、襄陽の城壁に立ち、遠く建康の混乱を静かに見つめていた。彼の胸には、南朝宋という、劉裕が築き上げた国が、その内側から崩壊していくことへの深い悲しみと、燕恪軍という、彼自身が築き上げた最後の砦を、何としてでも守り抜かなければならないという、強固な決意が宿っていた。

(陛下は、劉裕殿の血を引く者として、この国を導けるのか……。いや、もはや、宋という国は、内側から朽ち果てようとしている。予が守るべきは、劉裕殿の遺志……。そして、この燕恪軍なのだ)


慕容麒は、北魏の動向を注意深く見守りながら、劉裕が託した安寧という遺志を胸に、襄陽の城壁に立ち続けた。彼の存在こそが、南朝宋という、身内同士の争いに明け暮れる国を、辛うじて支えていたのだった。


泰始六年、南朝宋の淮北四州と豫州の淮西を奪った北魏は、さらに南下を企てた。彼らの狙いは、襄陽。襄陽を落とせば、南朝宋は長江以北の防衛線をすべて失い、北魏の騎馬軍が長江にまで到達することが可能になる。


しかし、彼らの前に立ちはだかったのが、慕容麒率いる燕恪軍だった。北魏の大軍が襄陽に迫る中、慕容麒は城壁の上から、その軍勢を見つめていた。


(来たか……。拓跋宏の代になって、ようやく本腰を入れてきたな。だが、この襄陽は、簡単には落とせぬ)


慕容麒は、事前に築き上げていた防衛網を巧みに利用し、北魏軍を翻弄した。漢水と長江を利用した水上戦、そして、八つの独立部隊による遊撃戦。北魏軍は、慕容麒の戦術に苦戦し、多くの兵を失った。


「くそっ! あの慕容麒め! どこから現れるか分からぬ、まるで幽霊のような軍だ!」


北魏の将軍たちは、慕容麒の戦術に恐怖を抱き、次第に士気を失っていった。


一方、南朝宋では、劉彧の死後、権力闘争はさらに激化していた。劉彧の息子である劉昱が皇帝に即位したが、彼の暴政は、南朝宋の官僚たちを深く失望させた。


そして、ついにその時が訪れる。蕭道成が、劉昱を殺害し、自ら皇帝に即位した。南朝宋は、劉裕が築き上げてから、わずか五十九年で滅亡した。


林全は、この報せを聞き、静かに、しかし深い悲しみに包まれた。

(劉裕殿……。あなたの築き上げた国は、滅びてしまった。あなたの遺志は、もう、誰も継ぐことはないのか……)


しかし、林全は、悲しみに浸っている暇はなかった。新たな王朝、斉が誕生した。林全は、蕭道成がどのような皇帝なのか、その動向を注意深く見守っていた。


林全は、襄陽の城壁に立ち、遠く北の空と、南の建康の空を見つめていた。彼の胸には、劉裕の遺志を継ぎ、この南北朝時代に真の安寧をもたらすという、新たな決意が静かに燃え上がっていた。


(劉裕殿……。あなたの夢は、終わってはいない。予が、この燕恪軍と共に、あなたの夢を、必ずや叶えてみせよう)


林全は、再び慕容復として、そして慕容麒として、この南北朝時代を生き抜くことを決意した。彼の心には、劉裕の遺志と、そして燕の復興という、二つの大きな使命が宿っていた。


彼の存在こそが、この混迷の時代を生き抜く、最後の希望だったのかもしれない。

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