科学の力、そして開き直り
天保十年十一月、晋陽郊外。北風が刃のように肌を切り裂く。夜明け前の闇が濃い中、霜が降りた原野は銀灰色に鈍く光っていた。その凍てつく大地の一画、家畜の糞尿が積もり、腐敗した有機物の甘ったるい悪臭の鋭い刺激が混じり合う泥土の上に、一人の男の影が長く伸びていた。北斉の重臣にして皇帝の信頼厚き技術官僚、慕容虎翼である。彼は分厚い毛皮の外套の裾を荒縄でたくし上げ、分銅のように重い鉄の鍬を握りしめ、黙々と凍りかけた土塊を掘り起こしていた。
「師匠!」
鋭い呼び声が冷気を切り裂いた。精悍な顔立ちの若者、慕容韶が、息を白く弾ませながら駆け寄ってきた。彼の眉は険しく寄せられ、目には理解と心配の色が渦巻いていた。数名の弟子たちも、遠巻きにしながら師の異様な行動を見守っている。
「このような汚れた作業は、兵卒か、あるいは罪を犯した者どもに任せておけばよろしい! 師匠の御身にふさわしくありません!」
虎翼は振り返らず、鍬の先で掘り起こした黒く湿った土塊を手に取った。それは寒気で冷たく、家畜の糞尿が分解した粘り気が指にまとわりつく。彼は微塵も躊躇せず、その土を鼻の前に掲げ、深く息を吸い込んだ。そして、ほんの少量を、指先から直接、舌の上に載せた。
「……」
彼は目を閉じ、口の中で土の味を確かめる。弟子たちは思わず息を呑み、顔をしかめた。
「……甘味と塩味が混じっているな」
虎翼は低く、しかし明瞭に呟いた。目を開けると、その深い瞳には静かな確信の光が宿っていた。
「これが『硝土』だ。我々が求めているものの根源だ」
彼は掌に載せた土塊を、呆然と立ち尽くす慕容韶の目の前に差し出した。
「取れ。確かめてみよ。」
韶は躊躇いながらも、師の命に従い、指で土をすくい取った。その感触に顔をしかめる。
「硝土…? しかし師匠、硝石は…」
韶の言葉が詰まった。彼の脳裏に浮かぶのは、虎翼が戦場で使用するあの強力な火薬の原料、純白で硬く、宝石のように輝く硝石の結晶だった。それは力と技術の象徴であり、高貴なものだった。
「そうだ、硝石は白く美しい結晶だ」
虎翼は頷き、遠くを見据えるような目をした。
「だが、その美しい結晶の源が、このように人や家畜の排泄物が積もり、腐敗し、悪臭を放つ土の中に眠っているという事実は、お前たちの知らぬことだったろう」
弟子たちは互いに顔を見合わせ、困惑と小さな嫌悪の表情を隠せない。彼らの常識は、まさにその瞬間、根底から揺さぶられた。
虎翼は再び鍬を握り、泥土を掘り返す。鍬先が凍った土を割る鈍い音だけが、重い沈黙の中に響く。
「戦場で兵士の命を守り、城壁を守る結晶は、こうした穢れた土からしか生まれぬ」
彼の声は、霜枯れの原野にこだまする鐘の音のように、低く、しかし芯が通っていた。
「治国もまた同じだ。朝廷で語られる高邁な理想、美しい律令、壮大な計画…それら全てが実を結ぶのは、民衆の流す汗と涙、彼らが日々踏みしめる泥濘の中に足を踏み入れ、その現実と向き合った時だけなのだ」
その言葉の余韻が冷たい空気に消えかけた時、轢音と共に一台の簡素な馬車が近づいてきた。簾が上げられ、気高くもどこか憂いを含んだ顔をした太原長公主が降り立った。彼女の腕には、痩せこけ、頬に酷い凍傷を負った十歳そこそこの少年が寄りかかっている。少年の服はボロボロで、足元は藁草鞋も履かず、凍りついた土の上に直接立っていた。
「虎翼、彼は河東から逃れてきた飢民の子だ」
長公主の声は、寒さで震えているのか、それとも哀れみか、微かに震えていた。
「硝石製造の仕事を乞うて、三日も工房の前で待ち続けていたという」
少年は長公主に支えられながらも、必死に踏ん張り、虎翼を見上げた。目は深く窪みながらも、その瞳には絶望の中にすがるような一筋の光があった。
「将、将軍様…!」
少年の声はかすれ、歯の根がカチカチと鳴る。
「わ、わし…働けます! なんでもします! 妹が…妹が熱を出して…薬も粟も…一粒もないんです…! どうか…どうか働かせてくだせぇ…!」
少年は無理やり長公主の支えを振りほどき、凍った地面にひざまずき、額を擦り付けた。
虎翼は無言で少年の前に歩み寄った。彼の長身が、みすぼらしい少年の上に影を落とす。虎翼は腰をかがめ、さきほど掘り起こした硝土を、自分の手から直接、少年のひび割れた、泥と霜で汚れた小さな掌に載せた。その土は冷たく、重かった。
「これを集めよ」
虎翼の声には、いつもの鋭さはなく、むしろ重々しい響きがあった。
「この土を、三日のうちに千斤集めよ。報酬は粟三斗だ」
少年は掌に載せられた穢れた土塊を、信じられないという目で見つめた。粟三斗それは妹と自分が数日は生き延びられる量だ。やがて、その深く窪んだ目に、かすかではあるが確かな炎が灯った。涙が、凍傷で爛れた頬を伝い落ちる。
「あ…ありがとう…ございます…!」
少年は再び深々と頭を下げ、掌の土を宝物のように握りしめた。
長公主が虎翼の傍らに静かに立った。彼女の目は、歓喜と同時に疲労と深い憂いを湛えていた。
「この仕事を、ただの汚れ仕事と蔑む者も宮中には多いでしょうね。『貴人たる者、穢れに近づくべからず』と…」
長公主は遠く、霞む貧民窟の輪郭を指さした。
虎翼は長公主の指す方向、貧困と絶望が渦巻く場所へと視線を向けた。悪臭は確かにそこから風に乗って流れてくる。
「公主よ」
虎翼の声は、深い谷底から響くように低かった。
「この悪臭こそが、真の希望の匂いなのだ。飢えと寒さと病に蝕まれながらも、それでも生き延びようとする民の、息づかいそのものだ。この匂いから目を背ける者は、決して国を再生させることはできぬ」
彼の言葉には、この穢れと絶望の大地に足を踏み入れ、そこから民の生活を一歩一歩立て直し、歪んだ国そのものを再生させようとする、鉄の意志が込められていた。それは、宮廷の綺麗事では決して到達できない、泥臭くも確かな未来への道標だった。
晋陽城の外れに位置する霜房内部は、外の凍てつく寒さとは対照的に、むせ返るような熱気と強烈な異臭に満ちていた。巨大な木製の発酵槽が幾つも並び、その中では人糞、馬糞、藁灰、そして集められた硝土が混ぜ合わされ、微生物による分解と硝化という目に見えぬ「再生」のプロセスが進行中だった。甘ったるい腐敗臭のツンとした刺激、さらに発酵熱による湯気が混ざり合い、新たに足を踏み入れた者はまず間違いなく吐き気を催すほどの環境だった。
その発酵槽の一つ、最も大きく古い槽の縁に、慕容虎翼が立っていた。分厚い革エプロンを付け、腕まくりをした姿は、もはや高官の面影はなく、一人の職人のそれだった。彼は長い柄杓を手に、槽内の混合物を慎重にかき混ぜていた。槽の底深くからは、時折、ガスが湧き上がるように「ブクッ、ブクッ」と不気味な泡が浮かび上がり、さらに濃厚な悪臭を放つ。
「人糞三割、馬糞五割、藁灰二割…水分は握って固まり、指を離せば崩れる程度…温度は温かい湯程度を保たねばならぬ…」
虎翼は独り言のように呟きながら、傍らに置かれた分厚い手帳に細かく記録を取っていた。その手帳は表紙が汚れ、高歓
の端は擦り切れ、汗やら何やらの染みが無数に付いていた。ここで得られた知見の全てが、この硝石製造所、いや北斉における硝石生産の礎となっていた。
「師匠…」
慕容韶が、鼻に布を当てながら近づいてきた。若い彼には、この環境はまだ耐え難いものだった。
「この臭気…この汚物…これが本当に、あの清らかな硝石を生むのですか?」
韶の目には、疑念と生理的な嫌悪が隠せない。
虎翼は柄杓を置き、槽の縁に手をかけた。槽の内壁には、白いカビのような硝化菌が薄く広がっているのが見える。
「見よ、韶」
虎翼は槽の底から湧き上がる一連の泡を指さした。
「これが『再生』の働きだ。目には見えぬ小さな生き物たちが、この穢れを貪り、分解し、形を変えていく。やがてそれは、水に溶け出し、結晶槽へと流れ込む…」
彼は言葉を続けた。
「…そして、あの白く硬い結晶へと生まれ変わるのだ。腐敗と死の堆積物が、新たな命を守る力へと転換される。これこそが天地の理だ」
その日の作業が終わり、夕闇が霜房を包み込んだ頃、虎翼は再び一人、結晶槽の部屋にいた。巨大な石造りの槽の前にひざまずき、柔らかい布と水を使って、槽の内壁を隅々まで丁寧に磨いていた。壁面に付着した微細な硝石の結晶が、わずかな灯火に照らされ、かすかにきらめいている。
「師匠…」
慕容韶が入ってきた。日中の疑問は消えていないようだ。
「なぜ、毎晩このようなことをなさるのですか? 掃除など、下働きの者に任せればよいでは…」
韶は虎翼の背中を見つめながら問いかけた。その背中は、分厚い外套を脱いだ今、意外なほど痩せて見えた。朝廷での激務と、この現場での労苦が彼の肉体を蝕んでいる証だった。
虎翼の手が、結晶槽の冷たい石肌を撫でる動きを、ほんの一瞬、止めた。
「…」
沈黙が流れた。その沈黙の中、虎翼の脳裏に鮮明に蘇る光景があった。病床に伏した先帝、文宣帝高洋の、死の淵にありながらも炯々と光る目。そして、痩せ細った手が虎翼の腕を掴んだ感触。
『虎翼よ…』
病み衰えた声が、今も耳朶にこびりつく。
『国も人間もな…腐敗したものをただ切り捨てるだけでは、いかん…再生させる術…穢れを清める術を知らねばならぬ…お前の手で…見せてくれ…』
その期待と絶望が入り混じった眼差し。その遺言とも言うべき言葉が、虎翼の背骨に重くのしかかっていた。
「韶よ…」
虎翼は再び布を動かし始めた。その動きは、祈りにも似ていた。
「この槽を磨くのは…この結晶を守るためではない。」彼は壁面に付着した、砂糖のように微細な白い結晶を指でそっと撫でた。
「この結晶は…穢れと希望が交わる、まさにその瞬間を形にしたものだ。腐敗物が、微生物の働きを経て、水に溶け、この槽に流れ込み、時間をかけて…こうして結晶となる。それは、まるで…」
彼の声がさらに深みを増した。
「…まるで、この乱れた世の中が、汗と涙と知恵によって、少しずつ、しかし確実に、清められ、形を変えていく過程そのものだ」
虎翼にとって、硝石は単なる火薬の原料ではなかった。それは、腐敗しきった社会と、彼と文宣帝が夢見た清らかで強靭な未来とを繋ぐ、生きた象徴だった。槽を磨く行為は、その再生のプロセスを見守り、支える儀式でもあったのだ。
「治国とは…毎日、毎日、泥臭く、時に汚れ仕事とも思えることを愚直に繰り返すことなのだ。一晩で変わるものなど、何一つない…」虎翼は振り返り、磨き上がった結晶槽の壁が微かにきらめくのを、韶と共に見つめた。
「…この結晶のように、時間をかけて育むものだ。」
皇建二年十一月、北斉の首都鄴の宮殿深く。玉座の間は重い空気に包まれていた。高湛は、玉座に深くもたれかかり、半眼で階下に立つ異母姉、太原長公主を見下ろしていた。彼の目には、退屈と軽蔑、そして底知れぬ猜疑心が渦巻いていた。長公主の手には、一枚の絹布に書かれた文書が握られていた。彼女の指先はわずかに震えているが、背筋は鋼のように伸びていた。
「陛下」
長公主の声は、静謐でありながら、玉座の間の重い空気を震わせる力を持っていた。
「この文書をご覧ください。一見、普通の詔書の草案に過ぎませんが…」
彼女は文書を少し掲げた。
「…その墨の中には、細かく砕いた硝石の粉末が混ぜてあります」
武成帝の口元が歪んだ。嘲笑とも、苛立ちとも取れる表情だ。
「朕の姉上ともあろう方が、何を寝ぼけたことを。硝石の粉? それがどうしたというのだ?」
彼の声には、虎翼に対する露骨な嫌悪がにじんでいた。慕容虎翼その男の桁外れの技術力、民衆や下級兵士からの絶大な支持、そして何より、先帝高洋が遺した「国を再生せよ」という遺志を忠実に引き継ごうとする姿勢は、高湛の独裁的な支配にとって常に目の上の瘤だった。虎翼を危険な戦場に送り込み、幾度となく刺客を放ち、その命を狙ってきたのは、まさにそのためだった。
長公主は武成帝の嘲笑を微塵も動じずに受け流した。
「それがどうしたか…」
長公主は一歩前に踏み出した。その動きに、左右に控える廷臣たちがわずかにざわめいた。
「陛下、この文書の端を…」
彼女は傍らに立つ侍従が捧げ持つ燭台の蝋燭の炎に、そっと文書の隅をかざした。
一瞬の静寂。
「パチッ…」
かすかな音と共に、文書の端から突然、鮮烈な青紫色の炎が、細く、しかし力強く燃え上がった! 炎は瞬く間に紙面を走り、異様な輝きを放ちながら燃え広がっていく。
「おおっ!?」
「な、なんだこれは!?」
廷臣たちの驚愕の声が一斉に上がった。
長公主は燃えさかる文書を地面に落とし、足で踏み消した。煙がもうもうと立ち上る中、彼女の目は玉座の高湛を真っ直ぐに見据えていた。その目は冷たく、氷の刃のように鋭かった。
「この硝石の炎こそが、嘘偽りを焼き尽くします! この青紫の炎こそが、陛下が寵妃の李氏を皇后に立てるために、今の李皇后を廃位しようと企て、その罪を捏造した詔書の草案である真実を、天下に告げているのです!」
長公主の声は玉座の間を劈いた。
「な、なにをっ!?」
武成帝が玉座の肘掛けを叩きつけて立ち上がった。顔は怒りで紅潮し、目は血走っている。
「姉上! この場で朕を誹謗するとは! 不敬千万なり!」
騒然とする廷臣たちを尻目に、長公主はさらに声を張り上げた。
「父高祖が夢見たのは何でしたか!? 鮮卑と漢が融和し、力強く立つ王朝ではなかったのですか!?」
彼女の声に熱がこもる。
「しかし今、高家はどうでしょう! 兄弟は疑心暗鬼に駆られ、血で血を洗い…まさに、その尊い血で溺れ死なんとしているではありませんか!」
長公主は踏み消した文書の灰燼を指さした。
「この結晶が穢れを清めるように! この硝石の炎が偽りを焼き尽くすように! 今こそ、この宮廷に蔓延る猜疑と憎悪という穢れを清める時ではございませんか!? 父が望んだ国を取り戻す時では!」
この報せが、遠く晋陽の硝石工房に届いたのは、数日後の夜だった。虎翼は、坑道で採掘されたばかりの粗悪な硝石の原石を、金剛砂を塗した革布で丹念に磨き、不純物を取り除く作業をしていた。油灯の灯りが、彼の無表情な横顔を揺らめかせていた。
「太原長公主、御前で硝石の炎を用い、武成帝の廃后謀略を暴く…」
使いの者の報告を聞き終え、虎翼の手がほんの一瞬止まった。原石の冷たい感触が掌に染みる。
「…そうか」
彼は低く呟いた。声には驚きはなかった。むしろ、来るべきものが来たという諦観に近い響きがあった。彼は磨きかけの原石をじっと見つめ、その中に微かにきらめく結晶の粒を見た。
「公主よ…」
虎翼は深いため息を一つ漏らした。その吐息は、油灯の炎をかすかに揺らした。
「…お前はついに、自らを宮廷という、最も危険で腐敗した発酵槽に投じたのか。そして、自らを犠牲にして、『再生の結晶』となろうとしているのか…」
彼の呟きには、長公主の勇気への称賛よりも、彼女が決して戻れぬ危険な道を歩み始めたことへの、深い、深い憂慮と哀惜が込められていた。武成帝の怒りは、長公主自身の身に確実に降りかかり、それは同時に、虎翼自身の立場、そして彼が進める硝石を軸とした国作りそのものをも、決定的に危うくすることを、虎翼は鋭く予感していた。宮廷という暗黒の槽で、長公主という結晶が砕け散る前に――彼の脳裏に、文宣帝の最期の言葉が再び重く響いた。
河清二年春、南朝・陳との激戦地、淮北戦線。武成帝の命により、虎翼は最前線の指揮官兼技術責任者として送り込まれていた。目的は明白だ。危険な任務で虎翼を消耗させ、あるいは戦死させること。前線の湿気多い密林の中に設けられた秘密の火薬製造工房は、蒸し暑さと硫黄の刺激臭に満ちていた。
「畜生…!」
虎翼の怒声が、木造の壁を震わせた。彼は実験台に散らばった黒色火薬の焼け焦げた残骸を睨みつけていた。手には、爆発後の威力を記録した板が握られている。数値は期待値を大幅に下回っていた。
「この湿気…どうしようもない…空気中の水分が硝石を侵す!」
彼は拳を机に叩きつけた。雨期に入り、工房内は常にジメジメとしていた。いくら丹念に精製した硝石でも、時間と共に水分を吸い、威力が落ちていくのだ。
慕容韶が、汗だくで駆け寄ってきた。
「師匠! 新たに運び込んだ硝石も、輸送中に雨に濡れたようで…純度が落ちております!」
虎翼は黙って硝石の塊を手に取り、顕微鏡のような拡大鏡で丹念に観察した。結晶の表面が溶け、白濁しているのがわかる。
「…ならば、再精製だ」
虎翼は即座に決断した。疲労の色が濃い彼の目に、一筋の閃きが走った。
「今まで以上に、徹底的に洗浄を繰り返すのだ。水に溶かし、不純物を沈殿させ、上澄みを何度も濾過し、煮詰める…回数を増やすことで純度を極限まで高められるはずだ」
虎翼自らが指揮を取り、作業が始まった。巨大な釜で硝石溶液を煮立て、蒸気と熱気が工房をさらに過酷な環境に変えた。兵士たちは交代で鞴を踏み、火を強めた。虎翼は釜の縁に張り付き、溶液の濃度や泡の状態を凝視した。
「…よし、ここだ! 濾過せよ!」
虎翼の指示で、熱い溶液が何重もの目の異なる布で濾過されていく。濾過を繰り返すたびに、溶液は徐々に澄んでいった。
「この純度なら…」
虎翼は煮詰められ、再結晶した真っ白な硝石の結晶を掌に載せ、確かな手応えを感じた。
「威力は少なくとも三割は増すだろう」
彼の予言は的中した。改良された高純度火薬を詰めた「火鴉箭」は、南朝陳軍の陣地に対して放たれた時、これまでにない圧倒的な破壊力を見せつけた。轟音と共に赤黒い火焔が渦巻き、土煙と木片が舞い上がった。陳軍の悲鳴と混乱が風に乗って聞こえてくる。
「成功です! 師匠!」
副官が興奮して叫んだ。
しかし、その直後、連続発射を続けていた発射筒の一つから異音がした。金属製の筒が真っ赤に焼け、歪み始めている!
「将軍! 筒が過熱しています! このままでは破裂します!」副官の声が恐怖に裏打ちされた。
虎翼の目が、発射台の傍らに置かれた桶に走った。そこには、軍馬の尿が溜められていた。馬尿――それは硝石製造の初期段階で重要な原料の一つでもあった。ある閃きが脳裏を走る。
「筒に馬尿をかけろ! 今すぐに!」
虎翼の指示は雷のようだった。
「筒全体に、たっぷりと! 熱を冷ますのだ!」
「は、はっ!」
兵士たちは一瞬躊躇したが、虎翼の命令に疑いはなかった。桶の馬尿が、真っ赤に焼けた発射筒に勢いよく浴びせかけられた。
「ジュウウウッ―――!」
白い蒸気がもうもうと立ち上り、異様な臭気が漂った。筒は激しく軋んだが、赤みは急速に引き、破裂寸前の危機は回避された。
戦いの後、虎翼は自ら爆心地へと足を踏み入れた。一面に広がる穴。焼け焦げた土。倒された木々。しかし、虎翼の目は、破壊の跡そのものよりも、その周辺に釘付けになっていた。爆風で吹き飛ばされた表土の下から、驚くほど豊かな黒土が露出している場所があった。
「師匠! 奇妙なことが!」
慕容韶が土壌サンプルを採取しながら叫んだ。
「爆心地に近いこの土…爆風でひっくり返された下の層ですが…作物の育ちが、周囲よりも明らかに良いのです! 草の生え方も、色も違う!」
虎翼はその土の前に蹲み、指で土をすくい取った。それを掌に広げ、目で確かめ、そして、またもや舌の上に載せた。弟子たちはもはや驚かなかった。
「…当然だ」
虎翼は顔を上げ、遠くの焼け野原を見渡した。
「火薬に含まれる硝酸塩…それは硝石の主成分だが、これが土壌に溶け出したのだ。硝石は…立派な肥料となる。特にこの痩せた土地ではな」
彼の口元に、戦場では久しく見られなかった笑みが浮かんだ。彼はすぐに配下の者を呼び、袋を取り寄せさせた。
「この土を集めよ。爆心地周辺の、この色の濃い土を丹念に」
虎翼は袋に土を詰め、近くで呆然と戦禍の跡を見つめる農民たちに手渡した。
「この土を畑に混ぜよ。よく耕せ」
虎翼の声には確信があった。
「来年の収穫は、少なくとも三割は増えるだろう」
農民たちは、手渡された袋を信じられないという目で見つめ、中身の土を確かめた。それは確かに、彼らが知るどの土よりも黒く、豊かな匂いがした。
「将…将軍様…!」
一人の年老いた農夫が、声を詰まらせながらひざまずいた。
「この…この戦場が…沃野に変わるとは…! ありがとうございます! ありがとうございます!」
他の農民たちも次々にひざまずき、涙を流して感謝の言葉を繰り返した。
虎翼は彼らを見下ろしながら、心の中で強く呟いた。
(文宣帝よ…見たか? この瞬間を! 破壊が創造に変わる瞬間を! 死が生を育む瞬間を!)
硝石がもたらすのは破壊だけではない。戦争の道具が、民衆の生活を豊かにするための手段へと転換できる可能性が、彼の胸に熱く広がっていった。それは、戦乱の世にあって、一筋の確かな希望の光だった。
河清三年秋、北周の名将・宇文憲率いる精鋭部隊に包囲された古都・洛陽。攻城戦は膠着状態に陥っていた。武成帝はまたもや虎翼に「決定的打開策」を命じた敵陣の真下まで坑道を掘り進め、大量の火薬を仕掛けて一気に爆破せよという、まさに九死に一生の危険極まりない任務だった。虎翼と慕容韶ら選抜された技術兵たちは、暗く湿った地下深くで、必死に坑道の掘削を進めていた。
「はあ…はあ…」
兵士たちの荒い息遣いと、ツルハシが岩を砕く鈍い音だけが、松明の灯りに揺れる坑道に響いていた。空気は澱み、汗と土の匂いが充満している。
突然、先頭で作業していた兵士がよろめき、ツルハシを落とした。
「うっ…」
「どうした!?」
慕容韶が駆け寄った。
「…あ、頭が…」
兵士は額に手を当て、苦悶の表情を浮かべた。
「…変な匂いが…する…」
その言葉を合図にするように、周囲の兵士たちも次々に異変を訴え始めた。
「…息が…苦しい…」
「目が…チカチカする…」
「胸が…締め付けられる…」
悲鳴とも呻きともつかない声が坑道内にこだました。数人がその場に崩れ落ち、痙攣を始めた。
「毒気だ!」
虎翼の鋭い叫びが響いた。彼は松明を掲げ、坑道の壁を丹念に見た。湿った岩肌に、薄い黄色い苔のようなものがべっとりと付着しているのを見つけた。虎翼は短剣でその苔を掻き取り、松明の炎を近づけた。
「フッ…」
炎が突然、普段とは異なる、青白く不気味な色に大きく揺らめいた!
「坑内に有毒な気が充満している! これは…炭坑で時に発生する『炭坑毒気』に似ている…!」
虎翼の顔色が一気に蒼ざめた。
「全員、直ちに退却! 急げ!!」
地上に辛くも脱出した者たちは、酸欠状態の重病人を除き、何とか息を吹き返した。しかし、事態は絶望的だった。坑道は有毒ガスに満ちており、もはや作業は不可能。加えて、北周軍が坑道の入口を発見し、巨大な岩石と土砂で完全に封鎖しようとしているという報告が入った。
「もはや作戦続行は不可能です!」
慕容韶が悔しさをにじませて虎翼に報告した。彼の顔にも疲労の色が濃く、坑道の毒気の影響か、少し青ざめていた。
「坑道は封鎖され、中は毒気で満ちている…兵士を投入することすらできません!」
しかし、虎翼は地面に蹲み、坑道から持ち帰った岩の模本を粉々に砕きながら、突然、静かに笑い出した。
「…ふふふ…」
それは、追い詰められた者からは思えない、ある閃きを得た者の笑いだった。
「韶よ、逆転の発想だ」
虎翼は顔を上げ、目を輝かせて言った。
「この忌々しい毒の気を…利用しよう」
「…利用?」
韶は完全に理解できなかった。
虎翼はすぐに地面に膝をつき、尖った石で設計図を描き始めた。
「坑道内に、大量の硝石粉を散布する。細かく砕き、できるだけ広く拡散させるのだ」
虎翼の手が早い。
「そして、その硝石粉が有毒ガスと十分に混合したところで…導火線で誘爆させる」
慕容韶の目が大きく見開かれた。
「そ、それは…! 硝石自体は爆発しないものの…有毒ガス…例えば毒気は、空気と混ざると爆発性を持つ! そこに大量の硝石粉が混ざれば…!」
韶は即座に計算を始めた。
「…酸素供給源として爆発を促進する…爆発力は通常火薬の五倍…否、それ以上になるかもしれません! しかし師匠!」
韶の声が詰まった。
「問題はそこです! その爆発を起こすために、誰が坑道に入って導火線に点火するというのですか!? 毒気の中で、それも敵に気づかれずに…不可能です!」
虎翼は、腰に下げていた頑丈な竹筒を取り出した。それは彼がここ数ヶ月、密かに開発を進めていたものだった。
「それを行うのは、この筒だ」
虎翼は竹筒の一端に付けられた導火線を指さした。
「中には、特殊な速度で燃えるように配合した硝石と硫黄の混合粉末が仕込んである。この導火線に火を点ければ…」
虎翼が火打石で竹筒の導火線に点火した。導火線は、通常よりもはるかにゆっくりとした速度で、しかし確実に燃え進んでいく。
「…この筒が燃え尽きるまで、約三刻」
虎翼は燃え進む導火線を見つめながら言った。
「そして、筒の底に仕込んだ火打石と火薬の仕掛けが作動し、ここから延びるもう一本の長い導火線に…自動的に点火する仕組みだ」
それは、虎翼が考案した『遠隔点火装置』だった。人が近づかずとも、時間差で確実に点火を行うことができる。
慕容韶は息を呑んだ。
「…つまり、今、この装置を坑道入口付近に設置し、点火して逃げれば…三刻後、自動的に坑道内部の導火線に火がつき…」
「…大爆発が起きる。」
虎翼が頷いた。目は冷静だった。
「敵が封鎖を完了する前に、急げ」
計画は見事に成功した。三刻後、地下から鈍く重い地響きが起こり、封鎖された坑道入口が突如として巨大な火柱と共に吹き飛んだ! その爆発力は凄まじく、坑道の真上にいた北周軍の陣地ごと陥没させ、宇文憲軍に甚大な被害と混乱を与えたのだった。
爆風が収まった後、虎翼は黙って崩れた坑道の入口を見つめていた。多くの兵士の命が救われた安堵と、自らの知恵が現実の力となった達成感が入り混じっていた。慕容韶が、感嘆と畏敬の念を込めて近づいてきた。
「師匠…あの装置が…」
「韶よ」
虎翼は振り返り、深い眼差しで愛弟子を見た。
「知恵とは、力そのものだ。剣や矛よりも、時に遥かに多くの命を救う力を持つことを、決して忘れるな」
彼の言葉には、技術者として、そして指揮官としての揺るぎない誇りが込められていた。この地底での勝利は、武力ではなく、知恵と科学の勝利だった。
河清四年春、晋陽城中央広場。冬の名残の冷たい風が吹く中、広場は人、人、人で埋め尽くされていた。その数、五万ともいわれる民衆農民、職人、商人、兵士、元飢民、子供から老人まで。広場の中央には、虎翼の工房で精製された、人間の背丈ほどもある巨大な硝石結晶が、陽光を受けて神秘的な白い輝きを放ちながら展示されていた。これは『硝石記念祭』。慕容虎翼が、民衆と共に、硝石がもたらした変革を祝い、未来を誓う日だった。
やがて、虎翼が木造の演壇に登った。ざわめいていた広場が、潮が引くように静まり返った。数万人の視線が、一人の男に集中する。
「見よ!」
虎翼の声は、よく通る太鼓の音のように広場に響き渡った。彼は巨大な硝石結晶を力強く指さした。
「この白く清らかな結晶を!」
そして、その指を、広場の外れにある貧民窟や、公衆便所の方向へと大きく振った。
「この結晶は…汝らの糞尿から生まれたのだ!!」
「…………」
一瞬の沈黙の後、
「おおっ?」「は?」「な、なんだと?」
広場のあちこちから失笑が漏れ、やがて大きく波打つ笑いの渦に変わった。それは嘲笑というより、あまりに意外な事実への驚きと、照れくささが入り混じった笑いだった。
虎翼は民衆の笑いを遮るように、さらに声を張り上げた。
「笑うがよい! 存分に笑え!」
笑い声は次第に収まり、再び静寂が訪れた。
「だが知っておけ…!」
虎翼の声が雷鳴のように轟いた。
「この結晶こそが…南陳の十万の大軍を、淮水の畔で火の海に沈めたことを!」
「この結晶こそが…洛陽の地下に潜む北周の精兵を、地の底から吹き飛ばしたことを!」
「この結晶こそが…お前たちの穢れと蔑まれし排泄物が、この国を守る『力』へと生まれ変わった証なのだ!!」
広場は水を打ったように静かだった。しかし、その沈黙は、先ほどのものとは全く異質だった。驚きと、理解と、そして深い感動が、数万人の民衆を貫いていた。彼らは、自分たちの最も卑近で、忌み嫌われる営みが、国家の存亡に関わる力の源泉となり、自らを守る盾となった事実に、心の底から揺さぶられていた。貧しい農民、汚れ仕事をする者、街の掃除をする者…そうした「下々」の者たちの目に、初めて誇りのような光が灯り始めた。
その時、演壇に太原長公主が姿を現した。彼女の両手には、三人の幼い子供たちの手が握られていた。子供たちは上質な服を着ているが、その目には市井の子供らしい活発さと、どこか不安げな色も見えた。
「皆様」
長公主の澄んだ声が響く。
「この子たちは、文宣帝の御代に、先帝自らがお引き取りになった養子たちです」
場内がどよめく。文宣帝の養子――それは皇族の血筋を引く者たちだ。
「しかし、彼らは宮廷の奥深くで育ったのではありません」
長公主は三人の子供たちを優しく前に出す。
「彼らは、この晋陽の街で、民衆の中に交じり、硝石工房で働く人々の汗と労苦を見て、学んで育ちました。皇族の血と、庶民の汗…その両方に支えられて、今日ここに立っています」
民衆のざわめきが、感嘆と共感に変わっていった。
慕容韶が演壇の前に躍り出た。
「我々は、この場を借りて新法を発布する!」韶の若々しい声に力が込もっていた。
「第一! 各戸より出る糞尿は、今後、全て有償で回収する! その対価は粟、あるいは銭で支払われる!」
「おおっ!」「そ、それは!」
民衆から大きな歓声が上がった。糞尿は厄介者だった。それが収入源になるとは!
「第二! 硝石工房への雇用の門戸を広く開放する! 年齢、出身を問わず、働く意思ある者を拒まない!」
「それだけではない!」
虎翼が続いた。彼は大きな巻物を広げた。そこには、詳細な硝石工房の設計図が描かれている。
「硝石工房を、晋陽だけではなく、北斉十州に拡張する! これにより、新たに五千もの職が創出されるであろう!」
さらなる歓声と拍手が広場を包んだ。雇用と生計、民衆にとって最も切実な希望が示されたのだ。
虎翼はさらに、演壇の上に小さな陶器の薬瓶を掲げた。
「そして、この硝石から生み出されたものは、武器だけではない!」
彼は瓶の蓋を開け、中から白い粉末を取り出して見せた。
「これが『硝安散』! 硝石の成分を精製、配合した新たなる薬だ!」
場内が静まり返る。
「高熱にうなされる熱病…特に子供たちを苦しめる病に、驚くべき効果を発揮する!」
医師を志す弟子が、臨床試験の結果を大声で読み上げる。生存率の向上、熱の下がり方…その報告に、子供を病で亡くした親たちのすすり泣く声があちこちから聞こえた。
「将軍様!!」
突然、演壇の下からか細い声がした。見ると、霜房で最初に働き始めた、あの凍傷の少年だった。今ではたくましく成長し、工房の若き担い手となっている。彼の手を引くのは、かつうなずき、今はすっかり元気になった妹だ。
「将軍様! わしの妹です! 薬、ありがとうございます!」
妹は恥ずかしそうにうつむきながらも、力強く手を振った。
その瞬間、群衆の中から、歯の抜けた老農夫が、よろよろと演壇を駆け上がってきた。衛兵が止めようとしたが、虎翼が制した。
「将軍! 慕容虎翼将軍!」
老農夫は虎翼の手を、枯れた木のような自分の両手で力いっぱい握りしめた。その手は、長年の農作業で硬く、ひび割れていた。老農夫の目には涙が光っている。
「この手が…! この手が、わしら百姓の糞尿を…厄介者を…救いに変えてくれた! 戦いを止め、田畑を肥やし、病を癒す力に変えてくれたんだ! ありがとう…ありがとうございます…!」
老人は嗚咽し、虎翼の手に額を押し当てた。その涙が、虎翼の手の甲に落ちた。
虎翼はその老農夫の頭を見下ろし、深く息を吸った。彼の目尻が、わずかに、しかし確かに潤んだ。それは、戦場でも、宮廷の陰謀の中でも見せたことのない光景だった。
「…違う」
虎翼の声は、深い感動で詰まりながらも、強く響いた。
「違うのだ、老人よ」
彼は老農夫の肩をしっかりと握り返し、群衆全体を見渡した。
「変えたのは、お前たち一人一人の『生きようとする力』だ。飢えても、凍えても、病に倒れそうになっても、それでも明日を信じて、汚れ仕事と蔑まれる仕事に汗を流し続ける…その力こそが、穢れを清め、硝土を結晶に変える真の原動力なのだ!」
「お前たちのその力なくして、この結晶も、この薬も、この未来も…何一つ生まれはしなかった!」
虎翼の声は広場にこだまし、多くの民衆の目にも涙が浮かんだ。彼らは初めて、自分たちの日々の営みが、国を変える力そのものだと実感したのだ。
祭りの熱気が最高潮に達し、やがて夕闇が迫り始めた頃、虎翼は一人、黄河の岸辺に立っていた。赤く染まる大河の流れを、彼はじっと見つめていた。波音と風の音だけが響く静かな時間。
「何を見ておられるのですか?」
優しい声が背後からした。振り返ると、太原長公主が立っていた。彼女の顔には、宮廷での苦闘の影は薄れ、穏やかな安堵の色があった。
「未来だ」
虎翼は答えた。手には、懐から取り出した拳大の硝石結晶が握られていた。
「この大河が流れるように、時代は確実に動いている。乱世は続くかもしれぬ。血は流れ続けるかもしれぬ」
彼は硝石結晶を大きく振りかぶると、力いっぱい黄河の流れの中へと投げ込んだ。
結晶が水面に落ちた瞬間、
「ボッ!」
小さな破裂音と共に、鮮烈な青紫色の炎が、水面を一瞬、走った! それは、長公主が宮廷で見せた炎と同じ色だった。夕闇に映えて、幻想的な輝きを放つ。
「だが、この炎のように…」
虎翼は青い炎が消えた水面を見つめながら、確信に満ちた声で言った。
「…民衆が自らの力に目覚め、知恵と汗で未来を切り拓こうとする意志は、いずれこの乱世という荒れ野を焼き尽くし、新たな時代を創り出すだろう。硝石の炎は、その道筋を照らす灯火だ」
虎翼の背後、少し離れた祭壇の跡では、三本の導火線が、ゆっくりと、しかし確実に火花を散らしながら燃え進んでいた。
一本目は、慕容韶が中心となって練り上げた、糞尿の有償回収と硝石工房拡大を基盤とする税制・雇用改革案の巻物。
二本目は、虎翼自らが描いた、北斉十州に建設予定の最新式硝石工房の詳細な設計図。
三本目は、硝安散の処方箋と、その普及計画を記した医師たちの書冊。
それぞれが異なる炎を上げながら、しかし一つの未来へと向かって燃え広がっていた。その炎は、硝石が放つ青紫の炎のように清らかで力強く、新しい時代の夜明けを告げるかのようだった。
穢れた土から始まり、戦火をくぐり、宮廷の陰謀を超えて。硝石という結晶は、一人の男の不屈の信念と、民衆の生きる力によって、単なる鉱物を超え、北斉再生の礎となり、そして、混沌とした時代を超えた先にある「結晶の世紀」知恵と科学が民衆の手で平和と繁栄を紡ぐ時代への、確かな希望の象徴となったのだ。黄河の水音が、その約束を永遠に奏で続けていた。




