北周の暗闘、独裁の夜明け
西魏の都長安は、大統二十二年の冬、例年になく深い雪に覆われていた。灰色の空から無数の雪片が、丞相府の重厚な屋根、武具を凍らせた衛兵の甲冑、そして静寂に包まれた中庭の枯れ蓮池を、執拗に埋め尽くしていく。丞相府最深部、重厚な香木の寝台に、西魏の実質的な支配者・宇文泰が横たわっていた。かつて華北を席巻した巨躯は、二十余年に及ぶ激闘と政務の重圧に蝕まれ、今や油紙を張った骨組みのように見える。しかし、窪んだ眼窩の奥で燃える双眸だけは、なおも鋭い輝きを失っていなかった。それは、燃え尽きようとする炭火の最後の熾きのようだ。
「…護よ」
宇文泰の声は、かすれ、か細い冬の風のようだった。枕元に跪く甥・宇文護は、全身を耳に変えてその一言一句を拾おうとしていた。彼の指が、錦の寝具の上で微かに震えている。叔父の最期の言葉は、彼が築き上げた国を左右する重みを持つ。
「わしの遺志…忘れるな」
震える手を必死に上げ、宇文護の頬に触れる。その指先は氷のように冷たく、力なく震えている。宇文護はその触感に、幼い頃、この手で頭を撫でられた記憶が蘇り、一瞬、喉が詰まった。
「この乱世を終わらせる…」
宇文泰の息が荒くなる。宇文護は思わず身を乗り出した。「徳治と武力…その両輪で…蘇綽が心血を注いだ『六条詔書』…李弼が骨を削って築いた『府兵制』…これらが…周の理想への礎じゃ…」
「御意にございます、叔父上」
宇文護の声は低く、震えていた。
「必ずや…」
「護…」
宇文泰の目が虚空を見つめ、力なく続ける。
「覚を…帝位に…彼は幼いが…父を慕う心は強い…その純真さこそが…未来への灯…そちが支え…導け…」
「御意!」
宇文護は深く頭を垂れ、額を冷たい床板に押し付けた。
「覚殿を、わが命を賭けて守護いたします!」
しかし、その額が床に触れる瞬間、彼の瞳に一瞬、冷たい光が走った。
(叔父上…あなたの目には、まだあの純真な覚が映っているのですか? この獣たちが跋扈する乱世に、徳治と純真さなど虚妄に過ぎぬ。理想は美しいが、血にまみれた現実を変える力はない…力こそが秩序を刻む唯一の刻刀なのです…あなたが教えてくださったはずです…勝つことの意味を!)
宇文泰の目がゆっくりと閉じられた。長い睫毛が、蠟のように青白い頬に影を落とす。西魏の天を支えた巨柱がついに倒れた。深い静寂が部屋を満たした。宇文護は静かに立ち上がり、亡骸を見下ろす。その唇が微かに動いた。
(安らかに眠られよ、叔父上…そして見ていてくだされ。あなたの理想を、現実という鉄槌で鍛え直し、新たな天下を築いてみせましょう。たとえ…その道が血の海であろうとも…)
宇文護の独裁への道程は、早くも重臣たちの抵抗に阻まれた。宇文泰が育て上げた柱国大将軍たちは、合議と徳治を重んじる彼の遺風を守ろうとしていた。ある雪深い朝、丞相府の重厚な扉が力強く開かれた。柱国大将軍・趙貴が、雪をはたきながら怒りに燃えた眼差しで踏み込んだ。彼の後ろには、剣を佩いた側近たちが厳しい面持ちで控えている。
「宇文護殿! お見えか!」
宇文護は、執務机の上に広げられた関中の地図からゆっくりと顔を上げた。彼の目は、趙貴の怒りを氷で包むように冷たかった。
「趙貴殿。折悪しいところに…何の御用かな?」
「御用などではない!」
趙貴の声は太く響いた。
「宇文泰公が我らの魂に刻んだ遺志は、何であったか! 公平な政! 臣下の諫言に耳を傾けること! 貴殿の近頃の専断は、公の御心に背くものぞ! 丞相府を私物化し、我ら重臣を無視するがごとき振る舞い、看過できぬ!」
宇文護は、ゆっくりと椅子の背にもたれ、指先で机を軽く叩いた。
「趙貴殿。その声、大きすぎはせぬか? 壁に耳あり、ということをお忘れか」
彼の声は低く、危険な響きを帯びていた。
「斉の狂帝高洋が、虎視眈々と黄河を睨むこの時に、理想論など何の役に立つ? 迅速な決断と断固たる実行力、そして…」
宇文護の目が鋭く光った。
「それを支える強固な権力こそが、この国を守るのだ」
「それは詭弁ぞ!」
趙貴の拳が机を叩き、墨壺が跳ねた。
「宇文泰公が心血を注いだ『六条詔書』の精神は、民を慈しみ、徳をもって治めることにある! 貴殿はそれを己の権勢欲のために歪めている! 私は…断じてこの専横を認めぬ!」
燭台の揺らめく影から、静かな、しかし重みのある声が響いた。
「趙貴殿、その剣幕は過ぎる…」
影から現れたのは、もう一人の柱国大将軍、独孤信だった。その精悍な顔には、深い憂いが刻まれている。
「独孤信殿…」
趙貴が振り返る。
「宇文護殿の言い分にも一理はある」
独孤信は両者を見据えた。
「高洋の狂気は、いつ我が身に降りかかるか分からぬ。迅速な対応は必要だ」
彼の目が宇文護に向く。
「しかし、護殿。合議を無視し、独断で人事を決し、兵符を動かす…これでは、宇文泰公が築いた柱国たちの結束が崩れる。内訌こそが、北斉を利するのみではあるまいか?」
宇文護の目がわずかに揺れた。独孤信の言葉が胸の奥の古傷に触れた。独孤信は、宇文泰の理想を心から敬愛しながらも、戦場の厳しい現実を肌で知る数少ない人物だった。彼だけが、宇文護が抱える「理想と現実の狭間での苦悩」を理解しているかもしれなかった。
(独孤信殿…お前は分かっているはずだ。この国が今、必要としているものは何かを…優柔不断な合議などでは、高洋の獣じみた兵たちには太刀打ちできぬ…)
しかし、その一瞬の逡巡は、鋼の意志に塗り替えられた。彼の目が再び冷徹な光を取り戻す。
「独孤信殿の懸念は理解する」
宇文護の声は平板になった。
「だが、時は待ってくれぬ。北斉の脅威は刻一刻と増している。合議に時間を費やす余裕など、我々にはないのだ」
趙貴は嗤った。
「はっ! それは単なる言い訳! 貴殿は己の権力を強化したいだけだ!」
「趙貴殿!」
独孤信が制する声を上げたが、遅かった。
宇文護の目に、冷たい殺意が灯った。彼は既に知っていた。趙貴と独孤信が、密かに結束し、彼の排除を画策していることを。彼の張り巡らせた情報網が、決定的な証言を掴んでいた。
(遅すぎたのだ…貴公らにはこの国の未来は担えぬ。乱世を終わらせるという重責を、お前たちの脆い理想では背負いきれまい…)
宇文護は、躊躇なく断を下した。雪解けの泥濘が深まるある夜、武装兵が趙貴と独孤信の邸を急襲した。抵抗はあっけなく制圧された。「謀反の証拠」として偽造された書簡が提示され、二人の重臣は「反逆者」として処刑された。宇文泰が心血を注いで築いた、理想主義的な重臣合議制は、ここに決定的な亀裂を生じ、宇文護の独裁への道は血で舗装された。
元年正月、太極殿が新王朝の鼓動に震えた。宇文護の手により、西魏の恭帝は宇文泰の嫡子宇文覚(孝閔帝)への禅譲を「自発的に」行い、北周王朝が誕生した。玉座に就いた十六歳の孝閔帝・宇文覚の顔は、緊張と誇りで紅潮していたが、その瞳の奥には、横で深々と頭を下げる大冢宰・宇文護への複雑な想いが渦巻いていた。
戴冠式の華やいだ宴も終わり、御書院に戻った孝閔帝は、玉座の代わりに置かれた簡素な椅子に腰を下ろすと、信頼する側近・李植と乙弗鳳を前に、拳を握りしめた。
「朕は天子ぞ! 宇文護の傀儡ではない!」
彼の声は若さゆえの高ぶりを含んでいた。
「今日の戴冠式…玉座に座る朕の背後で、全てを操る宇文護の影を感じた! あの男の目は、朕を『飾り物』としか見ていない!」
「陛下、声をお慎みくださいませ」
李植が周囲を警戒しながら跪いた。
「壁に耳あり、ましてや宇文護殿の目は…」
「恐れるな、李植」
孝閔帝の目が熱を帯びた。
「父帝が築いたこの国は、徳治と武力の調和によってこそ立つ! 宇文護の専横と恐怖政治は、父帝の理想を踏みにじり、国を歪めている! 朕こそが、父帝の真の後継者だ!」
乙弗鳳が顔を上げた。
「では陛下…いかなるお考えで?」
孝閔帝は身を乗り出し、声を潜めた。
「朕は決意した…宇文護を排除する」
二人の顔に緊張が走った。
「宮中の衛士を統括する、衛大将軍賀蘭祥は、父帝の恩を深く感じている忠臣だ」
孝閔帝の目が光る。
「朕は密かに賀蘭祥を呼び、宇文護誅殺の密勅を下すつもりだ。彼ならば…」
「陛下!」
乙弗鳳が声を詰まらせた。
「あまりにも危険…」
「朕は父帝の遺志を守らねばならぬ!」
孝閔帝の声には揺るぎない決意が込められていた。
「このままでは、北周は宇文護の私物と化す! 朕が動かねば、誰が動くというのか!」
しかし、孝閔帝の計画は、宇文護の張り巡らせた緻密な情報網にかかっていた。密勅を下そうとしたその前夜、賀蘭祥は宇文護の別邸に呼び出されていた。重厚な門をくぐり、暖炉の火が揺れる広間へ通されると、宇文護は赤ワインのような色の液体を注いだ翡翠の杯を手に、月明かりに浮かぶ庭園を眺めていた。
「ようこそ、賀蘭将軍」
「大冢宰殿…」
賀蘭祥は深く頭を下げた。背筋に冷たいものが走る。
「近頃…陛下の御動静に、何か気になることはないか?」
宇文護は振り返らず、静かに問うた。
「…それは?」
宇文護がゆっくりとこちらを向いた。月明かりが、彼の顔の片側を青白く浮かび上がらせた。
「例えば…朕こそが父帝の真の後継者だと豪語し、そなたのような武人に密かに接触している、などということは?」
賀蘭祥の心臓が高鳴った。宇文護の目が、暗闇に潜む蛇のように冷たかった。
「大冢宰殿! それは…!」
「そなたは忠義の士だ」
宇文護が優しく言ったが、その口調には脅威が潜んでいた。
「陛下の誘惑に惑わされず、真にこの国を思うなら…正しい選択ができるはずだ」
宇文護は杯を置き、一歩近づいた。
「その若き陛下は…亡き叔父上の亡霊に囚われすぎている」彼の声には、ある種の憐れみすら感じられた。「この世は理想だけでは動かぬ。特に、高洋という狂気が渦巻くこの乱世においてはな。陛下の行動は、この国を内乱へと導く…阻止せねばならぬ」
賀蘭祥は深い葛藤に苛まれた。孝閔帝の純粋な理想と、宇文護の冷酷な現実…そして、宇文護の言う「内乱」の可能性。彼はうつむき、唇を噛みしめた。
(陛下…お許しください…この道こそが、国を守る道だと…)
賀蘭祥は膝をついた。
「…陛下は、衛大将軍元進、そして前将軍乙弗鳳らと共に、大冢宰殿誅殺の密謀を…」
宇文護の唇が、満足げに緩んだ。
「小賢しい…」
行動は迅速だった。二年秋、武装兵が宮中深くに乱入した。孝閔帝が読書中の御書院が包囲され、李植と乙弗鳳はその場で捕縛、即日処刑された。孝閔帝は廃位され、旧邸に幽閉された。
「何ということを! 朕は天子ぞ! 宇文護! 出でよ!」
鉄格子の向こうで、孝閔帝が狂ったように叫んだ。しかし、応える者はなかった。ほどなくして、若き皇帝は「急逝」した。公式には病没とされたが、宮廷に流れる囁きは「毒」を告げていた。宇文泰が最も愛し、その理想を託した嫡子の非業の死は、理想が現実の壁に砕ける鈍い音を、北周の宮殿に長く響かせた。宇文護は、孝閔帝の死を知らせる報告を聞くと、静かに目を閉じた。
(孝閔よ…お前の純真さは、叔父上の面影そのものだった…だが、乱世は純真さを食い尽くす獣なのだ…安らかに眠れ)
彼の心の奥底に、かすかな悔恨の影がよぎったが、それはすぐに消えた。守るべきは、国という器そのものだ。
「帝位など…愚かな戯れに過ぎぬ」
二年秋、岐州の邸宅。宇文毓は、長安から来た宇文護の使者を、書斎で冷たく迎えた。彼の手には、読書中だった『詩経』が握られていた。明帝となるこの男は、異母弟・孝閔帝の惨劇を詳細に知っていた。使者は額に汗を浮かべ、宇文護の親書を捧げ持つ。
「岐州公、天下が貴公を待っております。恭帝から孝閔帝へ、そして今、貴公へと…天の意志が働いているのです」
使者が頭を畳に擦り付ける。
「大冢宰宇文護殿も、貴公の英知を深く信頼されております」
宇文毓の指が『詩経』の革表紙を強く押した。
(傀儡になるためか? 孝閔の二の舞になるためか?)
彼の心は煮えたぎった。学問を愛し詩賦を嗜むこの文人君主は、同時に父宇文泰の果断な血を濃く受け継いでいた。父の理想と現実の狭間で、彼は常に思索を深めていた。使者が去った後、彼は書斎を出て、中庭に植えられた老いた槐の木に凭れた。冷たい秋風が、黄色くなった葉を散らしていく。
「邕よ…」
彼は遠く長安を望みながら、弟宇文邕との別れ際の会話を思い出した。孝閔帝廃位後の、緊迫した雰囲気の中でのことだ。
「兄上、孝閔帝の件…これはただ事ではない」
当時十五歳の宇文邕の目は、年齢を超えた洞察に輝いていた。
「宇文護殿の権勢、もはや誰も止められまい」
「ああ…」
宇文毓はうつむいた。
「父帝が遺した徳治の理想が、今、力の論理に踏みにじられている」
「しかし、兄上」
宇文邕が真剣な眼差しを向けた。
「理想を守るためには、時として…現実の泥の中で戦わねばならぬこともあるのでは?」
宇文毓はその言葉に深く考え込んだ。宇文邕は続けた。
「私は…兄上を信じております。兄上ならば、父帝の理想を継承しつつ、この乱世を生き抜く道を見出せるはずです」
(邕よ…お前は若いが、深い洞察の目を持つ…今、その言葉が胸に突き刺さる…)
宇文護の圧力は増した。二年閏九月、群臣の「懇願」を受ける形で、宇文毓はついに天王位に就くことを承諾した。しかし、即位式のその日、玉座に着いた彼は、御簾の陰に立つ宇文護を直視し、群臣の前で宣言した。
「朕は政務を見る」
場内が水を打ったように静まった。宇文護の微笑みが一瞬、止まった。
「朕は、民の声を聞き、賢者を登用し、文教を振興する」
宇文毓の声は静かだが、揺るぎなかった。
「故に、相国には、国家の防衛、特に北斉の脅威に対処する軍事に専念せよ」
重い沈黙が流れた。群臣は息を呑み、宇文護の反応を伺う。宇文護はゆっくりと一歩前に出て、深く礼をした。その顔には、穏やかな恭順の表情が浮かんでいた。
「御意にございます。陛下の叡智あらたかなる御言葉、深く拝承いたしました」
しかし、その深々と下げた頭の陰で、宇文護の目は冷たい炎を燃え上がらせていた。
(賢帝か…その賢さが、お前の首を絞めることになるだろう…)
明帝宇文毓の親政は着実に進んだ。彼はまず、学識豊かな学士たちを集め、大規模な事業を命じた。
「朕は、古より続く氏族の系譜を明らかにせん」彼は臣下に語った。
「『世譜』五百巻を編纂せよ。氏族の誇りと秩序は、国家の礎である」
また、学問を奨励し、宮中で自ら経典を講じることもあった。ある日、儒者たちを前に『論語』を講じた後、彼は深い感慨を込めて言った。
「『政は正しきに在り』…父帝が常々口にされた言葉だ。正しき政治とは、民の声に耳を傾けることにある」
彼は、災害が起きる度に詔を下した。
「天は民の声をもって朕に語りかける。朕を恐れ憚ることなく、直言せよ。州郡の長は、老若男女を問わず、その声を拾い上げ、朕に奏上せよ。朕の不徳を正すは、民の直言に在り」
ある大旱魃の年には、自ら宮中の庭に竈を築かせ、粥を炊くよう命じた。
「陛下! それは!」
側近が驚いて止めようとした。
「朕の民が飢えている時に、朕だけが飽食できると思うか?」
明帝は自ら米を研ぎ、火の番をした。炊き上がった粥は、都の窮民に施された。
「聖君現る!」
「天王陛下こそ、宇文泰公の真の後継者ぞ!」
民衆の称賛と信頼は、都の路地裏から辺境の村々にまで広がっていった。その評判は、兵士たちの間にも浸透していった。
「聞いたか? 陛下自ら粥を炊いて民に施したと…」
「俺の故郷でも、陛下の勅使が飢えた村々を回っているらしい…」
「ああ…宇文泰公が蘇られたようだな…」
宮中での評判も、次第に明帝を中心に集まり始めた。太極殿の柱陰で、そんな噂を聞く宇文護の目は、日に日に陰りを深めていった。
三年春、黄河の寒気がまだ肌を刺す頃、北周の大軍が北斉領への侵攻を開始した。総帥宇文護は、要害の地、玉璧に本陣を構えた。陣幕の中は、行軍の塵と緊張の汗の匂いが混ざり合っていた。宇文護は、地図の前で腕を組み、眉をひそめていた。報告が入る度に、その皺は深くなった。
「大冢宰殿! 斛律光率いる精鋭騎兵、我が前軍を急襲! 柱国大将軍・王雄殿、奮戦むなしく…討ち死に!」
「何と?!」
宇文護の拳が地図上の玉璧の位置を叩いた。墨壺が倒れ、墨が流れた。
「王雄が…!」
王雄は、宇文泰時代からの勇将だ。その死は、軍全体に衝撃を与えた。
「斛律光…『落鵰都督』…」宇文護は歯を食いしばった。北斉の名将・斛律光は、大空を飛ぶ鵰さえ射落とすと言われる弓の名手。その率いる騎兵は風の如く、宇文護の重厚な陣形を翻弄し、分断していた。
(計算が…狂った…奴の動きは予測を超えている…!)
彼の焦燥は、次の報告で頂点に達した。
「急報! 鬼面の将、高長恭軍、迂回して我が兵站線を急襲! 糧秣輸送隊壊滅! 後方支援路、寸断されました!」
「高長恭…!」
宇文護の声は怒りと恐怖に震えた。あの鬼の鉄面を纏い、正体不明ながら、その神出鬼没の戦術で北周軍を何度も苦しめた恐るべき敵将。
「何処から現れた! 斥候は何をしておる!」
「奴は…まるで地の底から湧き出るかのようだ…」
幕僚の一人が蒼い顔で呟いた。
宇文護は机を激しく蹴飛ばした。書類が舞い散り、副官が飛び退いた。
「くそっ…!」
屈辱と怒りが彼の胸を灼いた。彼は己の限界を思い知らされた。宇文泰から受け継いだ圧倒的兵力と、李弼が完成させた府兵制による強固な組織力。しかし、戦場の機微を読む才、天候や地形を活かす閃き、敵将の心理を先読みする洞察力、これらが決定的に欠けていたのだ。彼の戦略は力任せで、斛律光や高長恭のような天才的な戦術家の前では、無力に等しかった。
(なぜだ…なぜ、わしは奴らに翻弄され続けるのだ…? 高洋という狂帝を戴く国に…なぜ! あの狂気は、国を蝕んでいるはずではなかったのか…?)
彼は知らなかった。高洋の狂気こそが、逆説的に北斉軍を駆動していたことを。皇帝の気まぐれな残酷さと、それに伴う絶対的な恐怖が、将兵を常に緊張状態に置き、将軍たちの独断専行をある意味で許容し、兵士たちを狂信的なまでに勇敢にしていたことを。それは、宇文護の規律ある重厚な軍にはない、歪んだ強さだった。
玉璧の戦いは北周の惨敗に終わった。撤退の号角が、黄河の濁流の轟音にかき消されていく。宇文護は、愛馬の上で振り返った。夕陽に赤く染まる北斉の城壁が、敗残の北周軍を高みから嘲笑っているように見えた。風に乗って、敵兵の嘲笑の声が聞こえるような気がした。
(叔父上…あの時、あなたが言われた…『力だけでは天下を治められぬ』と…その言葉の重みを、今、骨の髄まで味わっております…)
彼は深い無力感に襲われた。武人としての自尊心は、無残に打ち砕かれた。そしてその敗北が、長安で着々と実権を握りつつある明帝の立場を、逆に強めていることも理解していた。歯噛みする思いだった。
長安宮廷で、明帝宇文毓は玉璧での惨敗の詳細な報告書を手に、深く息を吸い込んだ。三年の秋、彼の改革はさらに深化していた。敗戦による国内の動揺を、文治による統治で鎮めようとする意志が感じられた。
「民は戦乱に疲れ、不安に苛まれている」
明帝は重臣たちを前に語った。
「今こそ、徳政をもって民心を安んぜねばならぬ」
彼は、より積極的に直言を奨励する詔勅を発した。州郡の役人に命じ、市場や田舎の村々に足を運ばせ、市井の声を集めさせた。集められた民の声は、貧困、徴兵の負担、役人の不正…様々な苦情や願いが綴られていた。明帝は夜遅くまで、それらに目を通した。
「陛下、お休みになられた方が…」
側仕えの宦官がすすめた。
「いや…」
明帝は羊皮紙の巻物を手に、ろうそくの灯りの下で顔を上げた。
「この声を無にして、どうして民を治められようか。朕が疲れることなど、問題ではない」
一方で、『世譜』編纂の事業は進み、学者たちの熱意も高まっていた。編纂の中心人物柳虯が進捗を報告に来た時、明帝は言った。
「氏族の系譜は、人々の帰属と誇りである。これを明らかにすることは、国家の秩序を固める礎となる。柳虯よ、力を尽くせ」
「はっ! 陛下の御期待に、必ずや応えまする!」
柳虯の目が感激に輝いた。
明帝の名声は、民衆のみならず、兵士や下級官吏の間でも高まる一方だった。宮中では、宦官や下級役人の間でさえささやかれた。
「天王陛下こそ、真の宇文泰公の後継者だ…」
「あの宇文護殿の敗戦続きに比べれば…」
「陛下の徳があれば、きっと国は安泰になる…」
そのような噂が、相国府の密室にも確実にもたらされた。ある冷え込んだ夜、宇文護の腹心賀蘭祥が、緊張した面持ちで報告した。
「相国殿…宮中では、陛下を称える声が日に日に高まっております。先の敗戦が…陛下の求心力を強める結果となってしまったようです」
宇文護は、手にしていた青磁の杯を、突然、漆喰の壁に叩きつけた。カシャーン!鋭い音が響き、赤い酒が絨毯に血痕のように広がった。
「黙れ!」
賀蘭祥が飛び退いた。
「賢帝め…」
宇文護の声は低く唸るようだった。
「その小賢しい知恵で、民衆を籠絡し、わしの権威を貶めようというのか…」
彼は明帝の行動を逐一監視させていた。臣下と交わす詩の応酬、災害対策の細かな詔書、貴族子弟への講義の内容――すべてが宇文護にとっては、自らの権力基盤を静かに掘り崩す杭のように映った。明帝の「徳」が、彼の「力」に取って代わろうとしている。その恐怖が、宇文護を苛んだ。
四年正月、元会の日。太極殿は絢爛たる装飾に彩られ、群臣が列席した。宴もたけなわとなった時、明帝は玉座から立ち上がった。場内が静まり返る。
「朕はここに宣う」
その声は、静かでありながら、全殿に響き渡った。
「朕は自ら万機を聴断し、民の声に耳を傾け、賢者を登用し、この国を治める決意である」
宇文護の目が細くなった。
「故に…」
明帝の視線が、群臣の列の先頭に立つ宇文護を捉えた。
「相国宇文護には、国家の防衛、特に北斉の脅威に対処する軍事に専ら力を注がれんことを願う。国政の細事に関与せしめざること、これ朕の思うところなり」
大極殿が水を打ったように静まった。群臣の息詰まる緊張が張り詰めた。宇文護は、玉座の下で、ゆっくりと顔を上げた。彼の口元には、薄く、冷たい笑みが浮かんでいた。深々と礼をした。
「御意にございます。陛下のご賢察、痛み入ります。臣護、ひたすら軍事に専心し、陛下の御代を外敵より守護する所存でございます」
しかし、その深々と下げた頭の陰で、彼の目は狂おしいほどの殺意に燃えていた。袖の内で拳が固く握りしめられ、爪が掌に食い込んだ。
(これが…わしへの宣戦布告か…宇文毓…お前の賢さが、お前の命を縮めることになる…)
彼の心の中で、長くためらっていた決断が、ついに下された。
武成二年四月、長安に遅い春が訪れていた。庭の桜がかすかな彩りを見せ始めたある日、明帝・宇文毓は清涼殿で書簡を読んでいた。穏やかな日差しが、御簾を透して差し込んでいた。そこへ、一人の膳夫が現れ、丁寧に頭を下げた。
「陛下、お茶の時間が参りました。新たに作らせました胡餅を、お召し上がりください」
膳夫が漆の盆を差し出す。その上には、焼き色の良い小さな餅が三つ、湯気を立てている。甘い香りが漂う。明帝は、一瞬、盆を見つめ、そして、膳夫の顔を直視した。膳夫の目が、一瞬、泳いだ。
(…来たか)
明帝の心臓が高鳴った。彼は、宇文護が動くことを予感していた。宮廷に張り巡らされた彼自身の情報網が、不穏な動きを伝えていた。膳夫の震える手、そして餅からかすかに漂う苦味…。全てを悟った。
(ついに…宇文護よ、お前は決断したな…)
彼は微笑んだ。その笑みは、深い諦めと、ある種の覚悟を含んでいた。
「ご苦労である」
明帝は静かに言い、餅を一つ手に取った。
「見たところ、美味そうだ」
彼は餅を口に運んだ。小麦の香りと、ほのかな甘み…しかし、その奥に、明らかに不自然な苦味が舌の上に広がった。二口、三口と、静かに噛みしめた。
(父上…これが、帝王たる者の末路なのでしょうか…? あなたが遺された理想を守ろうとしたが故の…)
毒は速やかに全身を侵した。激しい腹痛が襲い、視界が揺らめいた。冷や汗が額ににじむ。それでも彼は、倒れ伏さなかった。
「…邕を…呼べ…急げ…」
明帝はかすれた声で側近に命じた。
ほどなくして、弟宇文邕が、息を切らせて駆け込んできた。
「兄上! どうなされた! 医者を…!」
「…遅いのだ、邕」
明帝は無理に笑みを作ろうとしたが、顔は死色に染まっていた。彼は冷たくなりかけた手を差し出し、宇文邕が必死にそれを握り返した。
「朕…不徳にして…天下統一…父帝の夢を…果たせず…」
「兄上! そんな!」
宇文邕の目に涙が浮かんだ。
「兄上の政治こそが、この国を正しい道へと…」
「朕の子ら…幼すぎる…」
明帝の声はさらに弱まったが、その目だけは爛々と輝きを増した。
「だが…お前は違う…邕…」
宇文邕が耳を近づけた。明帝は、かすれた息の中に、父宇文泰がかつて語った言葉を、そのままに託した。
「父上は…『国を大いならしむるは、この子をおいて他にない』と…仰せだった…お前の寛容さと…大器量こそが…この乱世を終わらせる…」
言葉が途切れた。宇文毓の身体が静かに沈み、握っていた宇文邕の手の力が抜けた。二十七歳の賢帝の生涯が、ここに閉じられた。
「兄上…! 兄上ーーっ!」
宇文邕の慟哭が清涼殿に響いた。その時、御簾の陰で、微かに動く気配があった。宇文護が、事件の顛末を確認するために潜んでいたのだ。彼は薄気味悪い安堵の表情を浮かべ、そっと引き上げようとした。
「…相国」
冷たい声が背後で響いた。宇文護が凍りつくように振り返る。宇文邕は、まだ兄の亡骸の手を握りしめたまま、涙で濡れた顔を上げていた。しかし、その目には、深い闇と、燃え上がるような決意が宿っていた。
「陛下の後事…」
宇文邕の声は震えを必死に押し殺しているが、刃のように鋭い。
「万全にお願いいたします」
宇文護は、その従順な様子に、胸をなでおろした。この若者は、兄と違っておとなしく、操りやすい…そう確信した。
「お任せあれ」
宇文護は深々と頭を下げた。
「謹んで御遺志を継ぎ、御霊のご安寧をお祈りいたします」
彼は退出した。その背中を見送りながら、宇文邕の膝元で握りしめられた拳が、激しく震えていた。白く無血になるほどに。
(待ってろ…宇文護よ…必ずその時を…兄上の無念を…父帝の遺志を…この手で必ず…!)
明帝の死は、北周に深い喪失感をもたらした。民衆は街頭で泣き伏し、宮廷は重い沈黙に包まれた。「聖君」の早すぎる死を悼む声が国中に満ちた。しかし権力の頂点で、宇文護は安堵と支配欲を満たす安堵を感じていた。賢帝という最大の障害は消えた。次に担ぐべきは、大人しく操りやすい宇文邕――武帝である。彼の専制は、いよいよ盤石となったかに見えた。
一方、北斉では狂帝高洋が酒と殺戮に溺れ、その治世はますます混迷を深めていた。黄河を挟んで対峙する二つの王朝は、新たなる血の章へと突入しようとしていた。宇文泰が夢見た「徳治と武力の調和」による太平の世は、いまだ遠く、乱世の闇はますます深まるのだった。そして、宇文邕の胸中に刻まれた復讐と改革の決意は、静かに時を待ち始める。




