双翼の虎、血塗られた王朝
霊廟は、燭台の炎が揺れるたびに、壁に掛けられた歴代の武将たちの肖像画を蠢かせた。その中央に、高歓の位牌が厳かに鎮座している。その前で、高澄は、自身がこの世に留まる時間が短いことを予感し、最後の策を打つべく、一人の男に視線を向けた。男の名は慕容翼虎。高歓がその武勇と智略を高く評価し、「双翼の虎」と呼んだ男だ。
高澄は、高歓から受け継いだ龍鱗刀を手に、翼虎の肩に置いた。刀の刃先は、かすかに震えている。
「翼虎よ。そちを遼国公とし、太原長公主を娶らせる。これは、父上の御遺志だ」
高澄の声は、静かでありながら、重く響いた。この任命は、単なる恩賞ではない。高澄が自らの後継者として選んだ、弟高洋を支えるための要となる存在として、翼虎を位置づけるものだった。
翼虎は、床に跪き、深く頭を垂れた。
「臣、慕容翼虎、丞相の高澄公、そして未来の斉王となる高洋公に、この身命を賭して尽くすことをお誓いいたします」
彼の言葉は、迷いなく、そして揺るぎなく響いた。しかし、その心の内は、複雑な思いに満ちていた。高歓から託された使命、そして「千年を生きる者」として、この乱世をどう生き抜くかという葛藤。
高澄は、翼虎の隣に立っていた弟、高洋を前に出した。まだ十六歳。しかし、その眼光には、既にただならぬものが宿っていた。
「洋よ、彼を父と思え。この乱世を生き抜くには、血縁に勝る絆が必要だ」
高洋は、無言で翼虎を見つめた。その鋭い瞳は、何かを探るように、そして何かを測るように、翼虎の存在を焼き付けている。
「わかっている…」
高洋は、静かに答えた。その声には、年齢に似つかわしくない冷たさが混じっていた。
「この眼は…未来を見ている。兄上も、翼虎も、そして父上も…見えなかった未来を、俺は見ている」
その言葉を聞いた瞬間、翼虎は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(この少年は…既に狂気の種を宿している。高歓公、あなたはこの未来を予見されていたのか…?)
高澄は、高洋の言葉に頷きながらも、その瞳の奥に、不安の色を浮かべていた。
「翼虎。頼んだぞ…」
その言葉は、翼虎にとって、最後の、そして最も重い命令となった。
鄴都の丞相府は、高氏の婚礼のために、まるで炎に包まれたかのように紅い色で染め上げられていた。松明の光、提灯の明かり、そして新妻の纏う紅色の婚礼衣装が、庭園を幻想的に照らし出す。
新妻、太原長公主高氏は、その美しい顔を玉扇で隠しながら、翼虎に深々と頭を下げた。
「遼国公、永くお仕えいたします。」
彼女の声は、控えめでありながら、凛とした響きを持っていた。翼虎は、その言葉に、そして彼女の瞳に、高氏一族の強さを感じ取った。
「公主。どうか顔をお上げください。これからは、あなたも私の家族です」
翼虎が差し出した杯を、高氏は静かに受け取った。杯が交わされるその瞬間、翼虎の脳裏に、未来の史書の一節が鮮明に浮かび上がる。
「文宣帝、酒色に溺れ、自ら漢人を屠り、人肉を食らう…」
その恐ろしい一文は、翼虎の背筋を凍らせた。目の前で酒を酌み交わしているこの穏やかな女性の兄が、未来にそのような狂気の皇帝となるのか?
「どうかされました?」
高氏が、翼虎の顔色が変わったことに気づき、心配そうに尋ねた。
翼虎は、一瞬の動揺を隠し、作り笑いを浮かべた。
「いや…星の動きを見ておった。今宵は、特別な星が輝いているようだ。」
その夜、婚礼の儀式が終わり、二人きりになった寝室で、翼虎は高氏に、自らの秘密を打ち明けた。
「公主…私は、数百年を生きる者だ。遥か昔、戦国の時代から、この乱世を見続けてきた。」
高氏は、驚くこともなく、静かに翼虎の言葉に耳を傾けた。そして、翼虎の古傷、数えきれないほどの戦いを物語るその傷跡に、そっと触れた。
「ならば、この乱世も、千年の中の一日。あなたは、一人で戦ってきたのですね。」
彼女の言葉は、翼虎の心の奥深くに沁み渡った。彼は、千年もの孤独な戦いを、初めて誰かに理解してもらえたように感じた。
「ならば、この乱世を、共に生き抜きましょう。私は、あなたの翼となる」
高氏は、そう言って微笑んだ。その笑顔は、明日をも知れぬ乱世の中で、翼虎にとって、唯一の光となった。
太極殿は、重苦しい空気に満ちていた。魏の皇帝、孝静帝・元善見が、玉座から降り、玉璽を捧げる手を震わせている。彼の目は、恐怖と絶望に満ちていた。
「朕は…位を斉王に譲る」
その言葉が、虚ろな太極殿にこだました。
階段を、高洋が黒い袞衣をまとい、ゆっくりと上がっていく。その姿は、一国の皇帝というよりも、死神のようだった。翼虎は、その背後に立ち、静かに高洋に耳打ちした。
「陛下…禅譲はあくまで形式的に。元氏を傀儡として残すのが、丞相の遺志です」
しかし、高洋は翼虎の言葉に耳を傾けなかった。彼の目は、既に狂気を帯びていた。
「傀儡など要らぬ!」
高洋の瞳に宿る光は、もう以前のそれではない。少年時代の純粋さは消え失せ、底知れぬ闇が広がっていた。
その夜、翼虎は、高洋の行動を止めようと、漳水へと駆けつけた。しかし、既に遅かった。
漳水のほとりでは、高洋の命令を受けた兵士たちが、元善見と三人の皇子を、次々と水の中に投げ込んでいた。
「止めよ!」
翼虎の叫びは、兵士たちの冷たい鬨の声に遮られた。高洋が、翼虎の前に立ちふさがり、冷然と言い放った。
「先例を作らねばならん。魏の元氏は皆殺しだ」
その言葉は、翼虎の千年を生きる心臓を、凍らせるのに十分だった。慕容虎翼の配下は三人の皇子を救い、屋敷へと送った。
(またしても…歴史を変えられぬのか。私は、この悲劇を、ただ見ていることしかできないのか…?)
翼虎の脳裏に、かつて秦の始皇帝が六国の王族を根絶やしにした惨劇が蘇った。歴史は、ただ繰り返されるだけなのか。翼虎は、己の無力感に苛まれ、拳を固く握りしめた。
高洋が即位し、文宣帝と号したその年、彼の狂気は、より一層、芸術的な側面を帯び始めていた。それは、美と醜、生と死の境界を歪める、一種の冒涜的な「美」だった。
ある夜、高洋は、翼虎と太原長公主高氏を呼び出した。彼は、自慢げに二つの作品を披露した。一つは、元氏皇族の骨で作られた精巧な彫刻。もう一つは、漳水で処刑された者たちの血を混ぜた朱で描かれた巨大な壁画だった。
壁画は「死の舞」と題され、苦悶する人々の姿が、奇妙なバランスと色彩で描かれ、異様な美しさを放っていた。
「どうだ? これこそが…乱世の真実の美だ!」
高洋の目は狂気の輝きを放つ。その瞳は、まるで燃え盛る炎のように、見る者の心を焼き焦がすかのような強さを持っていた。
高氏は、吐き気を必死に抑え、玉扇で微かに震える唇を隠した。(夫君…中山王の骨も…あのように弄ばれたのか…)
その想像が、彼女の心に、激しい憎悪の炎を沸き立たせた。
翼虎は、冷然と応じた。
「陛下、それは死の記録に過ぎません。治世の美は、生きる民の笑顔にこそあります。それにこれを芸術と呼ぶのは狂人しかおりませぬ」
高洋は、翼虎の言葉に、まるで愉快な冗談を聞いたかのように、哄笑した。
「民? 虫けらのような存在が笑顔? 面白い! ならば…朕が笑顔を彫ってやろう!」
高洋は、突然、側近の一人を指さした。
「お前! 今すぐ笑ってみせろ! それが朕の次の作品になる!」
恐怖で硬直する側近。その時、高氏が静かに、しかし鋭く口を開いた。
「陛下。そのお方の笑顔より、兄上の御自慢の作品を、後世に確実に伝える方法こそが大事では?」
高洋の興味は、一瞬、側近から高氏の方へ移った。
「…ほう?」
高氏は扇を少し下ろし、冷たくも優雅な微笑みを浮かべる。
「この壁画を永遠のものとするため、特製の漆が必要かと。それを調進させるのが、臣妹の務めでは?」
狂気の芸術を「永遠化」するという提案に、高洋は狂喜した。
「妹よ、流石だ! よし、任せた!」
退出後、翼虎が詰め寄る。
「公主、あれは…!」
高氏の目は、氷のように冷たい光を宿していた。
「翼虎殿。あの壁画は…兄の罪の証です。永遠に残る証拠として、後世に晒すためにこそ…『永遠』にしなければなりません」
彼女は、復讐の手段として、高洋の狂気そのものを利用しようとしていた。翼虎は、その冷酷な計算に戦慄すると同時に、彼女が抱える深い傷を痛感した。
高洋の治世は、奇妙な二面性を帯びていた。表向きは、丞相の高澄が敷いた政治路線を継承し、国力の増強に努めていた。
尚書省では、宰相の楊愔が、高洋に報告していた。
「陛下、州郡を三割削減。官僚数は五千人に整理完了しました。無駄な役職を廃し、国庫の負担を軽減いたしました」
楊愔の声は、誇らしげだった。その施策は、確かに国を富ませ、民を安んじるものであった。高洋は、満足そうに頷いた。
「よくやった。これが真の富国強兵だな」
その言葉を聞き、翼虎は、高洋が真の聖帝となるのではないかと、一縷の望みを抱いた。
「次は、塩鉄専売制を。これにより、国の財政はさらに安定します」
翼虎が進言すると、高洋は、深く考え込むように頷いた。
しかし、その裏では、高洋の狂気が、静かに、そして確実に進行していた。
夜、宮殿の奥で、高洋は、侍女の髪を掴み、その耳元で囁いていた。
「漢人は虫けら同然…この国は、鮮卑の武力によって築かれたのだ。忘れさせてはならん」
その言葉は、鮮卑貴族たちの間で、静かに囁かれ、彼らの利権を守るための大義名分となっていた。
「陛下の狂気こそが、我らの利権を守る。愚かな漢人どもを、再び支配下に置くための、神聖なる力だ」
翼虎は、鮮卑貴族たちの囁きを聞き逃さなかった。彼らは、高洋の狂気を、自らの権力を増すための道具と見なしていた。翼虎は、この王朝が、高歓の遺志とは全く異なる方向へと進んでいることを、痛感していた。
高洋の狂気が、鮮卑貴族の横暴を助長し、漢人官僚の弾圧が激化していた。宰相・楊愔でさえ、立場が危うくなっていた。
ある日、高氏のもとに、密かに楊愔の側近が訪れる。
高洋の寵臣で、漢人弾圧の急先鋒である鮮卑貴族・高徳政が、楊愔を「謀反の疑いあり」と讒言する準備をしているという。楊愔失脚は、国政の混乱とさらなる漢人迫害を意味する。
高氏は、静かに耳を傾け、やがて意味深長な微笑を浮かべた。
「…高徳政殿か。彼は、陛下が最も気に入っている西域産の葡萄酒を、毎晩欠かさず献上していると聞きますね」
側近は息を呑む。高氏の暗示は明らかだった。
数日後。宮中での酒宴。高徳政がいつものように高洋に葡萄酒を献じようとした瞬間、高氏が優雅に席を立ち、自ら高徳政の杯を取り、高洋に差し出した。
「陛下。高徳政殿の忠勤、まことに殊勝です。どうか、臣妹からも…彼に代わって献上を」
その動作は流麗で疑う余地がなかった。
高洋は機嫌よく杯を受け取ったが、その直後、高氏がほんのわずか、しかし確かに翼虎の方へ目を向けた。翼虎の脳裏に、かつて高氏の夫が毒殺された場面が閃く。杯が毒酒ではないか?という疑念が走った。
次の瞬間、翼虎は「陛下! それは…」と叫び、わざとよろめいて高洋の腕に触れた。杯は床に落ち、赤い葡萄酒が絨毯に広がった。
「何をする! 遼国公!」
高洋が怒鳴る。翼虎は平伏して謝罪し「足が滑り…」と言い訳した。高徳政は青ざめ、高氏は微かに、しかし確かに不満そうな、あるいは「惜しいことをした」という眼差しを一瞬翼虎に向けた。
後日、高徳政は「陛下への献酒を故意に妨害した」というでっち上げの罪で突然失脚、左遷された。高氏は何も知らぬ顔でいたが、翼虎は確信した。高氏はあの時、高徳政が献じる杯に何かを仕込む機会を待ち、自らが毒を盛る役を買って出ようとしたのだ。彼女は復讐の対象を「高洋」だけでなく、「高洋の狂気を利用して夫の属する漢人を迫害する者たち」へと広げ、自ら暗躍し始めていた。翼虎は彼女の心の闇の深まりと、その危険性に慄然とした。
それは元氏虐殺の直後。翼虎は一人、血の臭いがまだ漂う漳水のほとりに佇んでいた。
彼の脳裏に、過去の記憶が鮮烈に蘇る。それは秦の始皇帝による六国王族の皆殺しの光景。邯鄲の城壁から投げ落とされる趙の公子たち。邯鄲の町を流れる川が、血で真っ赤に染まる…その川の景色が、目の前の漳水と重なって見える。
「また…繰り返すのか…」
翼虎の呟きは、絶望に満ちていた。二百年生きても、この無意味な虐殺の連鎖を断ち切れないのか。その時、背後から太原長公主の声がした。
「…あなたは、あの時代を生きていたのですね」
振り返ると、高氏が夫・中山王の位牌を抱きしめるようにして立っていた。彼女は翼虎が漳水を見つめる悲しみに満ちた眼差しから、全てを悟ったようだった。
「劉漢石趙の時代を…」
翼虎は無言で頷く。
高氏がそばに寄り、同じく血の色を残す水面を見つめる。
「この川は…私の夫も、多くの罪なき者も、そして秦の時代の王族たちも…飲み込んだのですね」
彼女の声には怒りよりも、深い諦念と哀しみがあった。
「二年の時を超えても、変わらない狂気…」
その言葉に、翼虎は初めて気づいた。高氏の復讐心の奥底にあるのは、単なる憎悪ではなく、この狂気の連鎖に対する深い絶望と、それでも抗わねばならないという悲壮な決意なのだと。
「公主…あなたは…」
高氏は位牌にそっと触れながら言った。
「私は、夫を奪われた一人の女に過ぎません。でも、あなたは…二百年も、この繰り返される狂気を見続けてきた。それでも尚、未来を信じて戦おうとする」
彼女の目が翼虎を真っ直ぐに見つめた。
「その強さこそが、私の支えです。たとえこの漳水が、兄の血で再び染まる日が来ても…私は、あなたと共にこの先を見届けます」
この瞬間、二人の絆は「復讐」や「庇護」を超えたところに到達した。共に「歴史の暗部」を直視し、その重みを共有し、それでもなお未来へ向かって歩もうとする「共犯者」としての絆が、ここで決定的に深まった。翼虎は、高氏の手を静かに握り返した。千年の孤独の中で、初めて心の闇の深さを共有できる存在を得たのだ。
天獄の地下牢は、湿った土と血の匂いが充満していた。そこに、元氏の皇族、元韶が鎖につながれていた。
「光武帝は…劉氏が生き残ったからこそ、後漢を再興できた。元氏は…必ずや、この屈辱を晴らす」
元韶の言葉は、高洋の耳には届かなかった。彼の目は、既に狂気の炎で燃え上がっていた。
「ならば、元氏は根絶やしに!」
高洋の声が、地下牢に響き渡った。翼虎は、高洋の前に跪き、必死に諫めた。
「陛下! これでは、後世に汚名を残すことになります! 丞相の遺志に反します!」
しかし、高洋は、翼虎の言葉に激昂した。
「黙れ!」
高洋は、剣を振りかざし、翼虎の喉元に突きつけた。
「お前も漢人の血が混じっているのか!? 元氏をかばうとは、もはや我が臣下ではない!」
翼虎は、その剣の刃先を、静かに見つめた。高洋の瞳に映るのは、もはや理性を失った狂人そのものだった。
その日、七百二十一人の元氏一族が、再び漳水に投げ込まれた。翼虎は、高台で、ただ無力感に苛まれることしかできなかった。
陽殿は、高洋の狂気によって、地獄と化していた。高洋は、愛妾であった薛嬪の骨を削り、琵琶を作らせ、その音色を爪弾いていた。
「薛嬪の骨は、良き音色を出す…やはり、この世で最も美しい音色だ」
高洋の声は、まるで子供が玩具で遊ぶかのように、無邪気でありながら、底知れぬ恐怖をはらんでいた。
殿下では、薛嬪の姉が、鋸で真っ二つにされていた。その光景は、地獄絵図そのものだった。
「皇兄がお前の妃を犯したようにな!」
高洋は、そう叫ぶと、兄高澄の未亡人を、髪を掴んで引きずり出した。彼女の顔は、恐怖と屈辱で歪んでいた。
その瞬間、翼虎が閃光のように介入した。
「止まりなさい!」
龍牙槍が高洋の剣を弾く。その音は、まるで雷鳴のようだった。
「この行為は、高歓公への裏切りです! 高澄公への冒涜です!」
翼虎の言葉は、高洋の狂気を一瞬だけ、鎮めた。
一瞬、高洋の目が、少年時代に戻った。
「父上…?」
高洋の瞳から、狂気の炎が消え、怯える子供のような光が戻った。しかし、それは、一瞬のことだった。
「黙れ! 朕は…朕は、この天下の主だ!」
高洋は、再び狂気に身を委ね、翼虎に襲いかかった。
高洋の狂気は、ついに実母、婁太后にまで向けられた。婁太后は、高洋の暴挙を諫めるため、杖を振るった。
「この不孝者め! 神武皇帝が築いたこの国を、何だと思っているのだ!」
しかし、高洋は、酔った勢いで、母を突き飛ばした。
「老婆うるさい! 朕は、誰の指図も受けぬ!」
その瞬間、翼虎が、高洋と婁太后の間に割って入り、太后をかばった。高洋が振り回した杖は、翼虎の背中に、重い一撃を与えた。
「翼虎!」
婁太后の叫びに、高洋は、正気に戻った。
「朕は…なんてことを…」
高洋は、自ら杖を取ると、翼虎に渡した。
「打て! 朕を打て! 打たねば…お前を斬る!」
翼虎は、静かに杖を受け取った。そして、高洋の背中を、象徴的に三度打った。
高洋は、その一撃一撃に、過去の罪を贖うかのように、号泣した。
「父上…兄上…朕は…朕は…」
その涙は、狂気の嵐の前の、つかの間の静寂だった。
金鳳台は、死刑囚を突き落とすための高台だ。その上で、高洋は、まるで子供のように笑っていた。
「あの者らに翼を与えよう」
高洋は、筵で作った偽の翼を、死刑囚たちの背中に括り付けさせ、高所から突き落とす「放生」の儀式を行っていた。死刑囚たちが悲鳴を上げながら落下していく光景を、高洋は、まるで愉快な見世物でも見ているかのように笑っていた。
「止めるのです!」
翼虎が、高洋の腕を支え、懇願した。しかし、高洋の瞳は、もうこの世のものではなかった。
「遼国公…朕の寿命は…?」
高洋は、虚ろな目で、夜空を見上げた。
「九十と、占われております」
翼虎は、必死に嘘をついた。しかし、高洋は、翼虎の言葉を信じなかった。
高洋は、哄笑した。
「嘘をつけ…星が見える。天狼星が、朕を呼んでいる…」
その言葉を最後に、高洋は、崩御した。享年三十四。
死の間際、高洋は、か細い声で、翼虎に遺言した。
「父と兄は…お前を信じていた。この王朝を…」
しかし、その言葉は、途中で途切れた。
漳水のほとりで、翼虎は、血に染まった水を見つめていた。高洋が残した、あまりにも重い傷跡。
「高歓公…約束は果たす。必ずこの国を…」
翼虎の背後で、太原長公主が、静かに彼に寄り添った。
「でも、あなたは、千年の時の中で、戦い続ける。それが、あなたの運命……」
翼虎の手の中に、高歓から託された龍鱗刀が、微かに震えていた。
彼の旅は、まだ終わらない。歴史の濁流の中を、彼は、再び歩み始めた。




