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南北疾風録  作者: 八月河
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黄河奔流 天狼星の時

血に濡れた「龍牙」槍が夕陽を貫く。慕容輔臣は董無録の遺体を抱え、黄河の咆哮を背に立っていた。高歓の援軍到着で西魏軍は撤退したが、代償はあまりに大きい。


「生きよ...」


慕容の囁きに、懐中の青年がかすかに動いた。董無録の実弟董弁だった。


「貴様を...育てる」


高歓が甲冑を鳴らして近づく。


「宇文泰め、次は必ず!」


その目に慕容輔臣は異変を感じ取った。史書が語らぬ事実この戦いで高歓は流れ矢を受けており、その傷が七年後の死因となる。



「この傷が高歓を五十二歳で逝かせる...だが今伝えても信じぬ」


羊皮紙の山が机を埋める。慕容は河東の豪族名簿に朱を入れる。


「宇文泰が兵糧買収を画策しています」


高歓が傷痕のある脇腹を押さえ苦笑した。


「そちの情報網は鬼神の如しだ」


突然、慕容が地図を叩く。


「侯景が叛きます。三年後の虎牢城で」


「証拠は?」


高澄が挑発的に笑う。


「これが証だ」


慕容が呈したのは、侯景が西魏に送った密書の写しだった。


「高王没後、河南を奉ず」


高歓の目が危険な光を放つ。


「ならば活かしておけ...そちの『未来視』が正しければ、南朝を乱させる糧としよう」


麝香の煙が死臭を覆う。高歓は慕容の手を握りしめた。


「そちの正体...今こそ明かせ」


「私は曹魏の治世景元二年、この体で目覚めた者です」


慕容輔臣は己の掌を開いた。


「だが魂は千五百年後の世界から来た」


列席する婁昭君夫人と高澄が息を飲む中、慕容は告白を続ける。


「鍾会の参謀として蜀を滅ぼし、石勒の暗殺を阻み...劉裕の北伐では王鎮惡を救えず」


傷痕の数々を見せながら、


「この乱世を終わらせるため、高歓公に仕えたのです」


高歓が突然笑い出し、斛律金に頷いた。哀切な勅勒歌が流れる中、高歓は合唱して涙した。


「天蒼蒼、野茫茫...風吹草低見牛羊...」


「聴け」


高歓が高澄を引き寄せる。


「慕容を父と思え」


さらに婁昭君に託す。


「国難には彼に諮れ」


高歓は慕容の腕の中で息を引き取った。享年五十二。その最期の言葉は歴史を揺るがす予言だった。


「侯景叛く...蘭京が澄を...」


「まさか高歓の死を看破されようとは!」


侯景が配下を蹴飛ばす。その時、地鳴りが響いた。慕容輔臣の坑道爆破作戦発動だ!


「貴公の裏切りなど故丞相は看破しておられた」慕容の声が煙の中で響く。両雄が激突し、慕容の龍牙槍が侯景の胸甲を貫く!


「丞相の仇!」


侯景の反撃で慕容輔臣の鎖骨が軋む。


「退路を開け!」


慕容輔臣が叫ぶ。高澄の使者が抗議するも、


「生かして梁へ向かわせよ。あの男が南朝を乱せば、統一への道が開ける」


孝静帝・元善見が酒杯を握りしめていた。


「高澄め、朕を殴らせおって!」


屏風陰の元氏宗室が囁く。


「慕容を味方に」


密使が宸翰を捧げる。「帝位を譲る」の血書に、慕容は冷然と告げた。


「高澄は八月に死ぬ」


使者が震える。


「暗殺を?」


「否」


慕容の目が光る。


「私は彼を救う」


その夜、高澄が慕容を詰問する。


「朕が暗殺されると?」


「変更できました」


慕容が仮死薬「玄武丹」を取り出す。


「この薬で死を装わせて下さい」


蘭京が包丁を研ぐ手を震わせた。


「父上...今こそ」


膳室で高澄が薬を飲み干そうとした瞬間、蘭京が襲った。


「高澄、死ねえ!」


慕容が計算ずくで飛び込む短刀が胸を貫く位置へずらし


「ぐっ!」


わざと心臓を外したが、血袋が破裂。


「輔臣!」


高澄の悲鳴に応え、婁昭君の弓隊が乱入。蘭京は目を見開く。


「夫人は知っていたのか!?」


婁昭君が仮面を被せた血まみれの慕容に告げる。


「『慕容輔臣』はここで死んだ」


高歓の遺言状が開かれる。鮮卑文字が燭台に浮かぶ。


「慕容麟死せば 翼虎生まれよ」


慕容が起き上がる。胸の傷は縫合済みだ。


「これよりは慕容翼虎と名乗る」


高澄が跪いて差し出すのは、帝冠の設計図だった。


「私が皇帝となる。その助けを」


新たな墓が二つ並ぶ。董無録と慕容輔臣のものだ。慕容翼虎が龍牙槍を捧げる。


「高歓公...約束を果たします」


背後で高澄が南朝の乱報を伝える。


「侯景が建康を包囲した」


「予定通り」


翼虎が黄河を指さす。


「次は建国です」


風に舞う灰燼が星々と交わる。翼虎の脳裏に未来図が展開される。


「高歓よ...お前の夢を唐へ繋げると誓う」


千年の流浪者が、新たな名と共に歴史の闇へ消える。その背中に、双翼の虎が月明かりに浮かび上がった。

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