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南北疾風録  作者: 八月河
17/22

洛陽の決戦、運命の歯車

漆黒の闇の中、松明が壁に映る影が蠢く。慕容輔臣は羊皮紙の束を捲り、指で地図上の潼関を撫でた。北魏分裂から四年、この部屋が東西二大勢力の命運を握る情報中枢だった。


(炭筆で潼関西側の峠道に印を付ける)


「宇文泰は沙苑の恥を晴らさんと焦っている...竇泰の剛勇を利用するつもりか」


彼の脳裏で戦略が展開される。西魏の斥候が三日前に峠道の松林を偵察した情報。于謹配下の工兵が搬入した偽装用の軍旗の数。それらが示す結論は一つだ。


密書を書く手が止まった。硯の墨が血のように黒い。


「高歓殿、この謀が成功すれば西魏の牙を折れます。しかし竇泰将軍の命が危うい」


蝋で封じた筒を侍従に渡す時、彼の指が微かに震えた。この判断で何千もの命が消えるのだ。


烈風が軍旗を鞭打つ。竇泰が関門を睨みながら咆哮した。


「三日も攻めあぐねるとは! 于謹め、臆したか!」


「大都督! 西軍が陣払いを始めました!」


見張りの声に将士が騒然とする。確かに関門楼上で兵士たちが行李をまとめている。


「好機ぞ! 直ちに追撃を!」


竇泰が甲冑の胸板を叩く。その時、馬を倒す勢いで密使が到着した。割られた封筒から落ちた銀の麒麟紋──慕容輔臣の極秘印だ。


《峠道三叉路の松林に伏兵三千。左丘に弓弩五百。退路遮断の企図》


副将侯景が顔を歪めた。


「慕容輔臣が宮中から...? 信用できませぬ」


竇泰は羊皮紙を握りしめ、遠く洛陽を望んだ。


「あの男は十年、一度も誤った情報を送らぬ」


松林に潜む鳥群の不自然な飛び立ち。地面の轍の深さ。決断が下された。


「全軍、追撃の体で峠道へ! しかし三叉路手前で陣形を逆雁行に転換せよ!」


于謹軍が偽装撤退を始めた瞬間、東魏軍は見事な旋回動作で陣形を変化させた。まさに松林から西魏伏兵が躍り出ようとした時


「今だ!」


竇泰の号令と共に、慕容輔臣が送り込んだ洛陽禁軍精鋭が尾根から現れた。彼らは特殊な三連弩を構えている。


「何という...!」


于謹が絶叫する間もなく、三連弩の雨が伏兵を貫いた。特殊な鏃は鎖帷子をも穿孔する。西魏兵の悲鳴が谷を埋める。


「慕容将軍に感謝せよ!」


竇泰の馬蹄が敗走兵を蹴散らす。彼の脳裏には、かつて慕容が鄴城の戦いで見せた「逆埋伏」戦術が甦っていた。


宇文泰が地図を引き裂く音が天幕に響いた。


「またしても慕容輔臣! あの男は地中の蛇か!」


「潼関の損害、精鋭三千七百。将校二十八名...」


賀抜岳の報告が拳で遮られた。韋孝寛が冷静に進言する。


「丞相、慕容輔臣の情報網は宮中に深く根を張っております。孝静帝の側近・鄭訳が協力者の可能性が」


「手段は問わぬ!」


宇文泰が砂盤上の洛陽模型を拳で砕いた。


「高歓を討てば蛇の頭は潰れる。五十万の大軍で押し潰せ!」


宇文泰の目に慕容への執念が燃えていた。三年前、洛陽脱出劇で初めて遭遇したあの男は、わずか三百の兵で五千の追撃部隊を翻弄した。その時、月光に浮かんだ白銀の槍が今も脳裏を離れない。


「慕容輔臣...お前の正体が北燕の亡霊だとしても、この宇文泰が現世から葬ってみせる」


翌日未明、西魏軍は葦原に潜んだ。宇文泰が陣頭で采配を振るう。


「全軍、魚麗の陣で突撃せよ!」


しかし東魏軍は鉄壁の車陣を組んでいた。盾の隙間から覗く連弩の寒光、まさに慕容が設計した「千歯車陣」だ。


高歓が黄金の兜を掲げて笑う。


「宇文泰よ、貴様の呼吸など!」


馬上から取り出したのは慕容の密書だった。

《西魏軍 卯刻に東南風を利用した火矢作戦を計画 防火泥を事前塗布せよ》


「くっ...!」


宇文泰が歯軋りする。風向きまで読まれていたのか。既に兵士たちが防火泥を盾に塗っている。


八時間の激闘で沙苑は血の沼と化した。西魏軍の死者一万二千、東魏も八千を失う。撤退する宇文泰の背後で、夕陽が無数の槍を血染めに染めた。


高昂が汚水に膝まで浸かりながら罵った。


「この鼠小僧! いつ西賊が這い出してくるか!」


「将軍! 西門から烽火!」


兵士の叫びに彼は地上へ駆け上がった。眼前には独孤信率いる五万の大軍が城壁を埋め尽くしている。


その時、一本の矢が彼の脇差しに当たった。巻かれた布には慕容の筆跡。


《石仏の台座下より水路侵入企図 第三水門の鉄柵を降ろせ》


「全員、水門へ!」


高昂の命令で兵士が滑車を回す。ギシギシと鉄柵が降り始めた瞬間、水中から人影が躍り出た!


「遅かったか!?」西魏の奇兵隊長が笑う。しかしその時


「甘いぞ!」


高昂自らが梁から飛び降り、大斧を振るう。水しぶきと共に敵将の首が舞った。鉄柵が水中の奇兵三百を閉じ込める。


「慕容将軍に感謝しろ!」


高昂の笑い声が水門に響いた。


「これが梁の暗殺者が入手した文書だ」


韋孝寛が絹布を広げた。「


慕容輔臣の正体は...」


宇文泰の目が剥裂する。


「なんと! あの男がまさか!」



その夜、宮中で異例の大演説が行われた。宇文泰が玉座の階を下り、百官を睥睨する。


「諸君に告ぐ! 慕容輔臣こそが北魏分裂の黒幕だ! この禍根を断つべく、予みずから洛陽を討つ!」


于謹が進み出た。


「しかし五十万の大軍移動は──」


「兵糧は河東の豪族が提供する」


宇文泰の声が冷徹だった。


「黄河の氷解を利用し、船団で兵員を輸送せよ」



十日後、黄河では前代未聞の大輸送が行われていた。


船団が氷塊を避けつつ南下する中、宇文泰は船室で韋孝寛と謀った。


「...故に慕容麟は偽死を装い、高歓に匿われた。あの男が守るのは洛陽などではない。後燕皇帝の霊廟だ」


「見えますか?」


慕容輔臣が副将・董無録に指差した。


「西魏軍の先陣は重装騎兵五千。後方に攻城塔三十基」


函谷関の天然の要害、峡谷の幅は最も狭い地点で二十丈(約60m)。黄河が削った断崖がそそり立つ。


「高歓殿の援軍が着くまで五日」


慕容輔臣が城壁を叩く。


「この狭隘を利用せよ」


「全軍、迎撃用意!」


慕容輔臣の号令で、関上から油甕が投下される。しかし西魏兵は奇妙な行動に出た犠牲兵に油を浴びせ、逆に火の壁を作ったのだ!


「防火泥を塗られたか!?」


董無録が絶叫する。その刹那、地下から轟音が響いた。坑道爆破だ!西門の城壁が崩れ落ちる。


「我について来い!」


慕容が白銀の長槍「龍牙」を構える。三百の親衛隊が崩壊地点へ突進した。



慕容の槍が弧を描く。その軌跡は槍法にある「姜家槍法」の奥義だった。


血煙の中で十人の敵兵が倒れる。しかし西魏兵は容赦なく押し寄せた。


「丞相の命! 慕容を生け捕りにせよ!」


関内の兵は二万に激減。董無録が片腕を矢で貫かれながら報告した。


「兵糧倉が炎上! 飲料水もあと一日分...」


慕容が城壁の割れ目から外界を見る。西魏軍の補給線が延々と続いている。その時、董無録が跪いた。


「決死隊五百で補給路を断ちます」


「ならば私が…!」


「お止まりください!」


董無録の声が初めて鋭くなった。


「あなたが倒れれば東魏は潰れます。私は...ただの兵卒です」


慕容の目に映る董無録の記憶、洛陽の酒場で侠客に襲われていた所を助けたあの日。彼が差し出した剣に刻まれた「尽忠」の二字。


「...約束だ」


慕容が自らの佩刀を渡す。


「生きて戻れ」


「はい」


董無録が深々と頭を下げた。その背中に慕容は呟いた。


「...無録よ」


関門が開く。董無録隊は「火牛車」を先頭に突撃した。牛の角に付けた刃が敵兵を串刺しにする。


「東魏の将、董無録ここにあり!」


彼の隊は見事に補給部隊に突入した。しかし


「囲め!」


宇文泰自らが指揮する。重装騎兵が四方から迫る。董無録は七人の敵を斬り伏せたが、ついに愛馬を射抜かれる。



「これまでか...」


地面に倒れながら、彼は慕容から預かった刀を掲げた。


「将軍...乱世を...終わらせて...」


刀身が砕け散る。宇文泰の放った矢が彼の心臓を貫いた。


「『高』の旗だ!」


関上の兵士が絶叫した。金色の軍旗が丘を埋め尽くす。高歓自らが先頭に立っている。


「よくぞ耐えた! 慕容輔臣よ!」


高歓の喊声が峡谷を震わせた。その声に応えるように、関内の残兵が最後の力を振り絞る。


宇文泰が悔しさに剣を捻じ曲げた。


「韋孝寛! 撤退を!」


「慕容輔臣の首は──」


「もはや不要だ」


宇文泰が血走った目を上げた。


「あの男の正体はわかった。次は別の手で仕留める」


夕暮れの函谷関。高歓が血まみれの慕容を抱き起こす。


「生きていたか...」


その腕の中で、慕容は無言で董無録の刀の柄を差し出した。柄に刻まれた「尽忠」の文字が血で滲んでいた。


高歓が深くうなずき、自らの佩刀を外した。


「この刀で必ず乱世を終わらせる。約束する」


慕容輔臣が砕けた刀を墓標に立てていた。背後で高歓が帰陣の準備を進める。


「そちは洛陽に残れ」


高歓が近づく足音。


「宇文泰が再び来る時が決戦だ」


「永くお守りいたします」


慕容の返事に、高歓はため息を漏らした。


「...そちの真名を聞かせよ。慕容麟」


一瞬、空気が凍りつく。慕容がゆっくりと振り返った。


「既にお分かりで?」


「この高歓を誰だと思っている」


彼は城壁の外を見つめた。


「そちが先帝(慕容盛)の遺児だと知ってなお、予はそちを使った」


「次に会う時は敵か味方か...その時こそ真の決着をつけようぞ」


風が血の匂いを運び去った。慕容麟は遠去かる軍列を見送りながら、墓標に手をかけた。


「無録よ...お前が見た太平の世を必ず現す」


黄河の水音が夕闇に響く。その底流に、新たなる戦いの予感が渦巻いていた。

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