双雄の野望、洛陽の孤将
永熙三年秋、洛陽の皇宮は重い空気に包まれていた。爾朱栄の血が洗いきれぬ石板の上を、甲冑の音もなく歩む一人の将軍。その背筋は槍の穂先のように鋭く伸び、双眸は遠くを見据えている。左衛将軍慕容輔臣。爾朱栄を討ち果たした武勇は天下に轟き、今や東西に分裂せんとする北魏にあって、高歓の懐に身を寄せながらも、表向きは孝武帝に忠誠を誓う中立の将として、危うい均衡の要に立っていた。
(…高歓殿の配下でありながら、この玉座を守る。陳慶之殿、貴殿が南で見せた『孤軍の忠義』を、今、予は北の都でなそう)
慕容輔臣は心の内で呟いた。南梁での敗戦と別離が、彼に権謀術数だけではない「将の道」を教えていた。
「左衛将軍閣下、本日の巡察記録でございます」
副将李粛が跪いて文巻を捧げた。些細な報告ばかり。しかし慕容輔臣の脳裏では、西方では宇文泰が長安で西征の兵を練り、東方では高歓が鄴城で諸将を叱咤する光景が交錯する。この静けさは、嵐の前のそれに違いなかった。
「御無沙汰でござるな、左衛将軍殿」
朗らかでありながら、鋭さを潜めた声が執務室に響いた。現れたのは、高歓麾下の重鎮であり、慕容輔臣と同族の血を引く慕容紹宗であった。紫袍に身を包んだその姿は文官のようだが、腰に佩いた環首刀が武人としての本質を物語る。
「御多忙中恐縮ではあるが、兵法の一節について議論を賜りたく。同族の誼、お許し願えぬか?」
慕容輔臣は硯を置き、微かに頷いた。
「慕容紹宗殿の求めならば。但し予が語れるは、白馬津の戦いで陳慶之殿が七千の寡兵で十万の城塞を落とした如き『実戦の知恵』のみぞ。書物の空論は好まぬ」
「ははっ、それでこそです!」
慕容紹宗は進み出て椅子に腰を下ろした。その目は同族の温情を装いながら、慕容輔臣の真意を測る探針のようだった。
燭台の火が夜更けまで揺らめく中、二人は激論を交わした。城壁の守備法、伏兵の配置、兵糧の調達…慕容紹宗が『六韜』『三略』の奥義を引けば、慕容輔臣は南朝での戦いと敗北の経験で応じる。
「…つまり、『虚を実とし、実を虚とす』とは、単なる偽装ではなく」慕容輔臣が指で机の上の塵をかき集め、陣形を描きながら言う。「兵の心に『勝機』を植え付け、敵の心に『疑念』を生むこと。陳慶之殿は、敗色濃厚な戦場でさえ、兵に『必勝』の念を抱かせた」
慕容紹宗は深く息を吐き、感嘆の色を隠せなかった。
「驚いた。書物の兵法は所詮は骨法。血肉は戦場で得るものと…改めて知らされた。しかし左衛将軍殿」彼は一歩詰め、声を潜めた。「貴殿ほどの器を、なぜ宮中の牢獄に閉じ込める? 高歓公こそが乱世を終わらせ得る英主。その旗の下でこそ、貴殿の才は」
慕容輔臣は静かに遮った。
「この場所こそが戦場だ、慕容紹宗殿。宮中の一振る舞いが数万の兵を動かす。予はここで『乱世の要』を見る。高歓殿の大業も、宇文泰殿の野望も、この洛陽の動静に左右される」
慕容紹宗の目が一瞬、鋭く光った。
(…彼は単なる武人ではない。盤上の駒ではなく、盤を動かす者か。高歓殿が彼を洛陽に置く真意、今、初めて理解した)
一方、長安の丞相府では、焦燥が渦巻いていた。宇文泰が斥候の報告書を机に叩きつけた。木片が跳ねた。
「高歓、斛律光に三万の兵を授け河内へ進軍させただと!? 洛陽の慕容輔臣は動かぬのか!? あの男が高歓の麾下なら、なぜ動かぬ!?」
側近の于謹が進み出て、低く諫めた。
「丞相、彼は依然として皇宮守備に徹し、表向きは孝武帝に忠義を尽くしております。しかし…」声を潜め、周囲を一瞥する。「韋孝寛が洛陽より報せました。高歓の密使が月に三度も城門を潜っております」
「月に三度…」宇文泰の細い目が冷たい光を放った。
(慕容輔臣め…お前は高歓の懐刀として、この洛陽に釘付けにされているのか、それとも…)
「賀抜岳よ!」
「はい!」
武川鎮の勇将が即座に応えた。
「精鋭二十騎を選び、洛陽から鄴へ通ずる街道を封鎖せよ! 高歓の密使を捕らえよ。ただし…」
宇文泰の指が地図上の洛陽を強く押さえた。
「慕容輔臣の配下とは衝突するな。彼を刺激してはならぬ」
(丞相の焦りが深い…慕容輔臣という一手が読めぬことが、武川の雄をしてかくも苛立たせるか。だがこの命、迂闊に動けば高歓に開戦の口実を与える。難儀なことよ)
洛陽城外の広大な演武場で、異様な光景が繰り広げられていた。高歓麾下の若き猛将・斛律光が、慕容輔臣に弓術の「較べ」を挑んでいたのだ。
「左衛将軍殿! 百歩先の柳の枝を! 的はこれにござる!」
斛律光が叫ぶや否や、慕容輔臣の弓弦が鋭く鳴った。放たれた矢は風を切り、百歩彼方の柳の枝を寸分違わず貫いた。周囲の禁軍兵士から歓声が沸き起こる。
「流石は爾朱栄を討った弓! では次は…」
斛律光は馬上で槍を構え、挑発的な笑みを浮かべた。
「一騎打ちで勝負を願おう!」
砂塵を上げて駆け抜ける二騎。槍が交錯し、火花が散る。斛律光の槍は荒々しく豪快、慕容輔臣のそれは流れるような流転を見せた。数刻に及ぶ激しい打ち合いの末、両者馬を並べ、息を弾ませていた。
「…はあ…はあ…参った」
斛律光が汗を拭い、真剣な目で慕容輔臣を見据えた。
「何故高歓公に仕えながら、都に縳られる? 将軍の如き武才、戦場こそが活きる場所では?」
慕容輔臣は洛陽の城壁を指した。
「この壁の上で、東西の風向きを測るのも将の務めだ。それより斛律光殿こそ、河内進軍の任を帯びながら、なぜわざわざ洛陽に? 高歓殿の命か?」
斛律光は一瞬、狼狽したが、すぐに苦笑に変えた。
「…見抜かれたか。丞相(高歓)の御下知だ…『慕容輔臣の真意を探れ』と」
彼は馬を寄せ、声を潜めた。
「では聞く。貴殿の槍の穂先は、いずれ我が東魏のために血を啜るのか?」
慕容輔臣の目が遠くを見据えた。
「予の槍は…乱世を終わらせる者のために振るわれる。それが高歓殿であろうと、他の者であろうと」
一方、鄴城の高歓政庁では、重臣会議が紛糾していた。侯景が蝙蝠の羽のような扇をひらりとあおぎ、毒を含んだ声を響かせた。
「慕容輔臣殿は相変わらず大人でござるな。孝武帝が我らを『国賊』と呼ぼうとも、洛陽で微動だにせんとは。もはや中立の仮面も剥がれましょうぞ?」
孫騰が即座に反駁した。
「侯景殿、慎み給え! 左衛将軍は丞相への忠義を」
「忠義?」侯景の嗤いが冷たく響いた。「あの男の心に棲むは『北魏』という亡霊では? もしかすると…」侯景は高歓を一瞥した。「西の宇文泰に心寄せておるのでは?」
(慕容輔臣…お前のような男が高歓の寵愛を独り占めすると思うなよ。いずれこの侯景が、お前の正体を暴いてみせる…)
「侯景! 慎め!」
高歓の一喝が雷のように響き渡り、場は水を打ったように静まった。高歓はゆっくりと立ち上がり、重々しく宣言した。
「慕容輔臣は予の『鞘』だ。剣は早々に抜かぬ。彼が洛陽に在ることで、宇文泰は南進を躊躇う。これが戦略というものだ」
慕容紹宗が進み出た。
「丞相明鑑! しかし侯景殿の言も一理…」
高歓は手を挙げて制した。
「よもや同族のそなたまで疑うとはな。慕容輔臣は…予が黄河の流れを変えるための『堰』なのだ」
その目には深い信頼が光っていた。
秋の深まりと共に、洛陽の空気は一層緊迫した。そして事件は、韋孝寛の策動が実行される前に起きた。十月の寒気が立ち込める夜中、孝武帝が突如「狩猟」と称し、側近のみ三十余騎を従え、宮殿の西門から脱出したのだ。
「左衛将軍! 陛下が軽騎で西門より脱出されました! 西方へ向かう塵煙、間違いありません!」李粛の叫びに、慕容輔臣は城壁へ駆け上がった。月光に浮かぶ西方へ消える塵煙。孝武帝は宇文泰を頼り長安へ奔ろうとしている。
(…動けば高歓の刺客と疑われる。止めれば宇文泰の恨みを買い、帝の命を奪うことになる。しかし予は左衛将軍。この宮城と帝の安泰こそが職務)
慕容輔臣の脳裏を様々な選択肢が駆け巡った。陳慶之の最期の言葉が蘇る。
「『忠義』とは時に、玉座よりも民を守ることだぞ…」
「李粛!」
慕容輔臣の声は冷徹だった。
「二千の兵を直ちに整えよ。『護衛』として陛下の後を追え」
「はっ! しかし…陛下の行く手を阻むのですか?」
「阻むな」
慕容輔臣の言葉は鉄のようだった。
「ただ『護衛』せよ。陛下の御身に危険が及ばぬよう。全ては予が引き受ける」
三日後、鄴城の政庁に高歓の怒号が轟いた。
「慕容輔臣!! 何をしておる!! なぜ阻まぬ! あの小僧皇帝が宇文泰の下へ逃げたぞ! これで奴は『帝』を戴き、我らを『逆賊』と呼ぶ手筈だ!」
侯景が煽るように進み出た。
「もはや疑いようもございませぬな、丞相。彼は西魏の」
「丞相!」竇泰が割って入り、地図を広げた。
「左衛将軍は二千の兵を『護衛』として付けております! 孝武帝が長安に逃れたことで、我々は新帝擁立の大義を得られました。ここは安楽王の孫元善見殿を擁立し、都を鄴に遷す絶好の機! 逆に宇文泰は『帝を戴く』という重荷を背負ったのです。これを計算していたのでは!?」
高歓の怒りに満ちた表情が、驚愕から理解へ、そして深い感嘆へと変わった。
「…はっ。さすがは予が選んだ男よ。『洛陽に動かぬ将軍』の真意、ようやく解した」彼は天を仰いで高らかに笑った。
「ハハハ! 慕容輔臣! お前は盤上の『天元』に坐るか! それならば予はこの手で、東西の大棋盤を動かして見せよう!」
(慕容輔臣…お前の一手は、予の想像を超えていた。これで名実ともに、新たな魏を立ち上げられる。宇文泰め、帝という重荷を背負ってみろ!)
長安の宮中、疲弊と恐怖に震える孝武帝(元脩)を前に、宇文泰が深々と頭を下げていた。
「高歓、国賊なり! 卿、朕のために討たんか? 朕は卿に全てを託す!」
孝武帝の声は震えていた。
「陛下の御心、痛み入ります」
宇文泰の声は恭しくも、底に冷たさを秘めていた。「しかし今は…まずは玉座を安泰にすることが先決」彼は賀抜岳に微かに目配せした。
(幼帝を戴くか…慕容輔臣め、見事な一手だな。しかしこの重荷も、いずれ高歓を圧し潰す武器となろう)
月明かりが洛陽の城壁を青白く照らす夜。慕容輔臣は一人、槍を研ぐ石の音だけが響く部屋にいた。李粛が入ってきて、低く報せた。
「将軍…高歓公、十一歳の元善見殿下を立て孝静帝とし、鄴に遷都されました。宇文泰は孝武帝を擁立…もはや東西分裂は決定的です」
「知っている」
慕容輔臣の手は研ぎを止めなかった。槍の穂先が月光を鋭く反射する。
「この槍が次に振るわれる時は…」
彼は立ち上がり、東と西を見据えた。
「二つの魏が激突する決戦の時だ。それまで予は――」
窓の外から、市場の喧噪が風に乗って聞こえてきた。
「また魏が二つに割れたとか…いったいどちらの銭が使えるのやら」
「大将軍さえいれば、都は安泰だ! あの方は爾朱栄から俺たちを守ってくれた!」
慕容輔臣の目がわずかに閉じられた。
(乱世を終わらせるために…この均衡を守らねばならぬ。たとえそれが、鋼の針の上を歩くような日々であっても)
風が洛陽の旗を翻した。磨かれた槍身に、二つの都の灯火が、まるで対峙する龍の瞳のように揺らめいていた。




