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南北疾風録  作者: 八月河
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新たな陰謀、北の混迷

鍾離の戦いで、慕容麟が示した知略は、蕭衍の信頼を確固たるものとした。彼は、捕虜となった五万人のうち、二万人を燕恪軍に編入し、特に八千人の精強な鮮卑騎兵を擁することで、その軍事力は飛躍的に向上していた。南朝梁の軍事の中枢を担う存在となった慕容麟だったが、その地位は安定したものではなかった。

朝廷では、慕容麟の台頭を快く思わない者たちが、彼を陥れようと画策していた。彼らは、慕容麟がかつて蕭宝巻に反発し、中枢を離れた過去を持ち出し、彼の忠誠心を疑う言葉を蕭衍に囁いた。


「陛下。慕容麟は、かつて蕭宝巻に背いた男でございます。いつ、陛下に刃向かうか、分かりませぬ。彼に軍権を任せ続けるのは、あまりにも危険かと存じます」


蕭衍は、そのような言葉に耳を傾けなかった。彼は慕容麟の才を信じ、彼を重用し続けた。しかし、この一連の出来事は、慕容麟の心に深い警戒心を植え付けた。


(どうやら、いつまでもこの地位に安住してはいられない。この朝廷には、予を陥れようとする輩が数多くいる。予は、この南朝梁で、自らの居場所を守り抜くために、新たな手を打たねばならない)


慕容麟は、朝廷の権力闘争から距離を置き、軍事力の強化に専念した。彼は、燕恪軍の訓練をさらに厳しくし、北魏との新たな戦いに備えた。


そして、時が来た。


中大通元年、北魏の北海王元顥が、国内の権力闘争に敗れて梁に亡命してきた。蕭衍は、元顥を北魏に送り返し、傀儡政権を立てることで北魏の内政を攪乱する策を決行する。その役目を任じられたのが、将軍・陳慶之だった。


この命令を聞いた慕容麟は、歴史を知っていたため、この戦いがどのような結末を迎えるか、すでに理解していた。彼は、蕭衍に何も進言しなかった。


(陳慶之か……。歴史に名を残す名将だ。この男ならば、わずか七千人の兵で洛陽を陥落させるという、ありえない偉業を成し遂げるだろう。だが、元顥に裏切られ、孤立無援の状況に追い込まれることもまた、歴史の筋書きだ。その時こそ、予の出番だ。陳慶之を救うことで、南朝梁での予の地位は揺るぎないものとなる。そして、何よりも、予は英雄を救いたい。この乱世に生きる、予と同じ孤独な英雄を)


慕容麟の予想は的中する。陳慶之は、わずか七千人の兵を率いて北伐を敢行し、洛陽を陥落させるという、歴史に類を見ない偉業を成し遂げたのだ。敵国である北魏の国内が反乱などにより著しく弱体化していたとはいえ、これほど少数の兵で北伐を成功させた例はない。洛陽まで大小四十七戦、すべてに勝利し、三十二城を陥落させた。


この快進撃は、瞬く間に南朝梁の朝廷に伝わり、人々は陳慶之を「白袍の神将」と称賛した。だが、慕容麟は知っていた。この輝かしい勝利の裏に潜む、深い闇を。


洛陽に入った後、事態は暗転する。元顥は洛陽の防備を固めず、さらに陳慶之の功績を警戒して彼を遠ざけたのだ。陳慶之の部下たちは元顥を殺害して自立するように勧めるが、彼は固辞する。陳慶之は、あくまで蕭衍の臣として、己の忠義を貫こうとしていた。


この報せを聞いた慕容麟は、事態の悪化を直感した。彼は、陳慶之が孤立無援の状況に陥っていることを察知し、すぐさま蕭衍に上奏した。


「陛下! 陳将軍は、今、洛陽で孤立しております! 元顥は、彼を遠ざけ、その功績を妬んでおります! このままでは、陳将軍の命が危うい! 今こそ、援軍を送り、陳慶之将軍を助けるべき時でございます!」


慕容麟は、自ら四万人の燕恪軍を率いて陳慶之を助けに行く許可を得た。燕恪軍の兵士たちは、檀道済の時代から鍛え上げられた精鋭であり、朝廷よりも慕容麟への忠誠心が強かった。彼らは、慕容麟の命令であれば、たとえ火の中水の中であろうと、喜んで従うだろう。


(陳慶之……。このままでは、お前の命が危ない。私が、必ずお前を助けに行く。そして、この百三十年ぶりの河南の地で、新たな歴史を築いてみせる)」


慕容麟は、決意を胸に、そのまま洛陽付近へと進軍した。彼にとって、この地は百三十年ぶりに足を踏み入れる、かつての故郷であった。


慕容麟が率いる四万の燕恪軍は、迅速に北上し、洛陽の南、伊水と洛水の合流地点に布陣した。彼は、自ら偵察に出て、洛陽城の状況を把握しようとした。その時、一人の白袍の将軍が、わずかな兵を率いて城外に出ているのを目撃した。それが、陳慶之だった。


(あれが、陳慶之か……。噂に違わぬ、白袍の神将だ。だが、その顔には、疲労と憂慮の色が浮かんでいる。やはり、元顥に苦しめられているのだな)


慕容麟は、陳慶之に近づき、自らが蕭衍の命で援軍に来たことを伝えた。陳慶之は、慕容麟の出現に驚きながらも、彼の言葉を信じた。


「慕容将軍……。まさか、貴殿が援軍に来てくださるとは……。感謝の言葉もございません」


陳慶之は、慕容麟に深々と頭を下げた。彼の目には、安堵と、かすかな希望の光が宿っていた。


「陳将軍、頭をお上げください。貴殿の功績は、この中華の歴史に永遠に刻まれるべきものです。貴殿のような英雄が、元顥のような暗愚に苦しめられるなど、あってはならないことです」


慕容麟は、陳慶之を励ますと、彼に洛陽の現状を詳しく尋ねた。陳慶之は、元顥の無能さと傲慢さを語り、洛陽城がいつ陥落してもおかしくない状況であることを明かした。


「元顥は、洛陽の防備を固めず、ただ享楽に耽っております。さらに、我々の功績を妬み、我々を遠ざけようと画策しております。このままでは、洛陽は、北魏の反撃にあい、陥落してしまうでしょう」


陳慶之の言葉に、慕容麟は深い怒りを覚えた。彼は、歴史の知識から、元顥が北魏軍に敗れ、陳慶之が九死に一生を得て南朝に戻ることを知っていた。しかし、彼は、この歴史を変えたいと強く願っていた。


「陳将軍。我は、この状況を変えたいと願っております。貴殿の力を借りて、元顥を討ち、洛陽を真に我々のものとしたいのです。そして、この中華に、新たな時代を築きたいのです」


慕容麟は、陳慶之に自らの本心を打ち明けた。陳慶之は、慕容麟の言葉に驚きながらも、彼の決意を理解した。


「慕容麟殿……。貴殿の気持ちは、痛いほど分かります。しかし、私は、蕭衍陛下の臣。たとえ、元顥が暗君であろうと、彼を討つことはできません。私の忠義が、それを許さないのです」


陳慶之は、慕容麟の申し出を固辞した。彼の心には、忠義と、この乱世を生き抜くための現実的な思惑が、複雑に絡み合っていた。


慕容麟と陳慶之が、それぞれの葛藤を抱えながら、洛陽の地で議論を交わしている間に、北魏の反撃が始まった。北魏の孝荘帝は、爾朱栄に命じて、二十万の大軍を率いて洛陽へと向かわせたのだ。


この報せを聞いた元顥は、恐れおののき、洛陽城に閉じこもった。そして、陳慶之に、北魏軍を迎え撃つように命じた。


「陳将軍よ! お前は、白袍の神将であろう! 北魏軍を打ち破り、予を救うのだ!」


元顥の言葉に、陳慶之は深い絶望を覚えた。彼は、わずか七千の兵で、二十万の大軍を迎え撃たねばならないのだ。


(元顥め……。やはり、この男は、予を捨て駒にするつもりか……。だが、予は、陛下の臣。この命に代えても、洛陽を守り抜かねばならない)


陳慶之は、決死の覚悟で北魏軍を迎え撃った。しかし、二十万の大軍を前に、七千の兵は、あまりにも無力だった。陳慶之の兵たちは、次々と倒れていった。

この光景を目にした慕容麟は、自らの心に、新たな決意を固めた。


(陳慶之……。お前は、このまま歴史の闇に消えていくのか……。いや、歴史は、それを許さない)


慕容麟は、四万の燕恪軍を率いて、陳慶之を助けに行った。燕恪軍の兵士たちは、慕容麟の命令に、喜んで従った。


「燕恪軍の兵士たちよ! 今こそ、我々の力を示す時だ! 陳慶之将軍を助け、この河南の地に、新たな時代を築くのだ!」


慕容麟の言葉に、燕恪軍の兵士たちは、雄叫びを上げて応じた。彼らの心には、慕容麟への深い忠誠心と、英雄を救うという、新たな使命感が宿っていた。


慕容麟が率いる四万の燕恪軍は、北魏軍の側面に襲いかかった。燕恪軍の精強な騎兵は、北魏軍の陣営を切り裂き、混乱に陥れた。


この隙を突いて、陳慶之は、残った兵士たちを率いて反撃に出た。彼は、白袍をなびかせながら、敵陣を駆け抜け、北魏軍の将兵を次々と討ち取った。


「陳将軍! 今こそ、元顥を討つ時でございます!」


慕容麟の言葉に、陳慶之は、一瞬、ためらった。しかし、彼の目には、もはや迷いはなかった。彼は、慕容麟の言葉に従い、元顥の陣営へと向かった。


「元顥よ! お前のような暗愚に、この華夏を治める資格はない! 予が、お前を討ち、この国に安寧をもたらしてやる!」


陳慶之は、元顥を討ち取り、洛陽の支配権を掌握した。そして、彼は、慕容麟に深々と頭を下げた。


「慕容麟殿……。貴殿のおかげで、私は、この命を救われました。そして、この洛陽を守ることができました。貴殿こそ、この中華を救う英雄でございます」


陳慶之の言葉に、慕容麟は静かに頷いた。彼の心には、歴史の知識に縛られることなく、自らの力で未来を切り開いたという、確かな手応えがあった。


この日から、慕容麟と陳慶之の、二人の英雄による共闘が始まった。彼らは、洛陽を拠点に、北魏の混乱に乗じて、南朝梁の勢力を拡大していく。そして、この河南の地から、新たな歴史が始まろうとしていた。

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