東昏侯の狂乱、麒麟の憤怒
南朝斉が「永明の治」という束の間の平穏を享受した後、名君と称えられた武帝・蕭賾が崩御した。国に不穏な空気が漂う中、後を継いだのは東昏侯こと蕭宝巻であった。彼の即位は、南朝斉に深い絶望をもたらすことになった。父の葬儀の際、激しく慟哭する太中大夫の羊闡の禿頭を見て大笑いするという、常軌を逸した行動は、周囲の者たちに、新たな皇帝がただ者ではないことを知らしめた。
「ハハハハハ! 見よ、あの男の頭を! 哀しみで髪が抜けたか! まことに滑稽な男よ!」
その言葉に、周りの者たちは顔色を変え、静かに下を向くしかなかった。慕容麒は、建康の郊外でその報せを聞き、深くため息をついた。彼の心の中には、百年以上を生き抜いた現代人としての絶望と、慕容氏の将軍としての誇りが交錯していた。
(武帝殿が崩御された……。そして、後を継いだのは、そのような狂人か。劉裕殿、あなたが築き上げた国は、なぜ、かくも簡単に崩壊していくのだ……。まるで、狂った人間が操る糸のように、この国は、どこへ向かうか分からぬ……。歴史の知識が正しければ、この蕭宝巻の狂気が、この国の命運を決定づけることになる。予は、この狂気を、ただ見ているだけでいいのだろうか?)
即位後、蕭宝巻は明帝の遺命を無視し、輔佐を命じられていた6人の重臣を殺害して独裁体制を築いた。彼は、有能な人材を遠ざけ、奸臣を重用し、民衆から収奪して享楽的な生活を送る、まさに暴君であった。
建康の宮殿は、蕭宝巻の狂宴の場と化した。彼は内向的な性格ゆえに重臣との接触を避け、多くの宮殿を造営して国家財政を破綻させた。
「潘妃よ。そなたのために、この庭園を黄金の蓮で埋め尽くそう。さあ、この道を歩むがよい。そなたの小さな足が、この世の誰よりも美しい花を咲かせるのだ!」
宮殿の奥から聞こえてくる蕭宝巻の甲高い声は、建康の都に住む人々の耳にも届いていた。慕容麒は、その声を聞くたびに、深く憤怒を覚えた。
蕭宝巻は、通行人を馬蹄で踏みつけるという奇行を繰り返し、妊婦もその対象となり、母子共に命を落とす事件が頻発した。彼の狂気は、もはや誰も止めることができなかった。
やがて、蕭宝巻の狂気は、慕容麒にも向けられた。
「慕容麒という卑狗めが! 予に刃向かうつもりか! 奴に与えた軍権も財産も、全て取り上げて、平民に落としてしまえ!」
蕭宝巻は、慕容麒を平民に落とそうとした。しかし、奸臣たちは、その暴挙を止めるべく、必死に説得した。
「陛下。慕容麒は、燕恪軍の主将であり、北魏から幾度もこの国を守ってきた英雄でございます。彼を平民に落とすなど、北魏に隙を与えることになります。どうか、お考え直しください!」
「黙れ! 予に指図するな! 予は、この国の皇帝であるぞ! 北魏ごとき、この予が相手をしてやろう!」
奸臣たちの説得により、蕭宝巻は慕容麒を平民に落とすことは断念した。しかし、この一連の出来事は、慕容麒の心に深い憤怒と失望を刻みつけた。
(蕭宝巻……! あの男は、もはや皇帝ではない! ただの狂人だ! 劉裕殿が築き上げたこの国は、ついに、狂人の手に落ちた……! 予は、劉裕殿から託された使命を、蕭宝巻ごときのために捨ててはならぬ。この関中の地で、燕恪軍を鍛え、北魏の脅威に備えよう。これが、予にできる、最後の抵抗だ)
慕容麒は、蕭宝巻に反発し、燕恪軍の直属部隊だけを率いて関中に駐屯することを決意した。彼は、蕭宝巻が皇帝である限り、建康の中枢には戻らないと宣言した。その決意は、燕恪軍の将兵たちの心にも、深く刻み込まれた。
「将軍のご決断、我ら一同、賛同いたします。将軍こそ、この国の、真の希望でございます!」
腹心である呂天青は、そう言って慕容麒に深々と頭を下げた。慕容麒は、その言葉に静かに頷いた。
慕容麒が中枢を離れたことを、蕭宝巻は気にも留めなかった。彼の周りには、奸臣たちが群がり、享楽的な生活を続けるよう促していた。
「陛下。慕容麒など、いなくとも、この国は安泰でございます。さあ、潘妃様と、今日も酒宴をお楽しみください!」
しかし、慕容麒という万里の長城を失った武将たちは、北魏の脅威に怯え、南朝斉の未来に絶望した。蕭宝巻の暴政に、不満を抱く人々が続出し、心ある人々が諫言を行ったが、それは逆に殺害される原因となった。
「陛下! このままでは、この国は滅びてしまいます! どうか、享楽的な生活を改め、民のために善政を……」
その言葉は、蕭宝巻の耳には届かなかった。
「黙れ! 予に指図するな! 予に逆らう者は、皆、死罪じゃ! さあ、この者を連れて行け!」
陳顕達、裴叔業、崔慧景、蕭宝玄、張欣泰ら造反者が続出し、南朝斉は、内乱の渦に飲み込まれていった。これらの反乱は、豫州刺史の蕭懿らの活躍により鎮圧された。しかし、蕭宝巻は、その功績を妬んだ茹法珍らの讒言により、蕭懿に死を賜り、自殺に追い込んだ。
(蕭懿殿……。あなたまでもが、狂人の犠牲になったか……!)
慕容麒は、蕭懿の死の報せを聞き、深い悲しみと憤怒に包まれた。彼の心の中では、今すぐにでも建康に攻め上り、蕭宝巻を討ちたいという衝動が渦巻いていた。しかし、彼は、その衝動を抑え込んだ。
(私が動けば、この関中の地は、誰が守るのだ……。そして、北魏の侵攻を、誰が防ぐのだ……。私は、この関中の地で、静かに、しかし力強く、この国の安寧を守り抜かねばならぬ)
蕭懿の弟で雍州刺史の蕭衍は、兄の死に激しく反発した。
「兄上を殺すとは……! 蕭宝巻は、もはや人ではない! 予が、この手で、蕭宝巻を討ち、兄上の仇を討たねばならぬ!」
蕭衍は、蕭宝巻の弟である蕭宝融を皇帝に擁立し、蕭宝巻への涪陵王の降封を宣言して挙兵した。
この期に及んでも、蕭宝巻は宮廷で享楽的な生活を送っていた。しかし、ついに彼の最期は訪れた。衛兵の王珍国、張稷、張斉らに殺害され、首は蕭衍のもとに送り届けられた。
慕容麒は、関中の地で、南朝斉の滅亡と、新たな時代の始まりを静かに見つめていた。彼の心には、劉裕の遺志を継ぐ最後の将として、この中華に、再び安寧をもたらすことはできるのだろうか、という、重い問いかけが宿っていた。
蕭衍は、蕭宝巻を討ち、自らが皇帝に即位した。南朝斉は、劉裕が築き上げた宋から、わずか五十九年で滅亡し、そして蕭道成が築き上げた斉も、わずか二十三年で滅亡した。新たな王朝、梁が誕生した。
慕容麒は、関中の地で、この報せを聞き、静かに、しかし深い感慨に浸っていた。
「(蕭衍……。歴史の知識が正しければ、彼は梁の武帝となり、南朝に新たな時代をもたらすことになる。だが、その治世も、永遠ではない。やがて、侯景の乱によって、この国もまた、内側から崩壊していく……。予は、この歴史の流れを、どう変えるべきなのか……)」
慕容麒は、蕭衍からの招請を静かに待っていた。彼は、蕭衍がどのような皇帝なのか、その動向を注意深く見守っていた。そして、蕭衍は、慕容麒を建康へと召還することを決めた。
「慕容麒殿。この蕭衍、そなたの武勇と知略を高く評価しておる。どうか、建康へ戻り、この国の安寧のために、予に力を貸していただきたい」
蕭衍からの書状を読み、慕容麒は、静かに、しかし深い決意を胸に、建康へと向かうことを決めた。彼の心には、劉裕の遺志と、そして燕の復興という、二つの大きな使命が宿っていた。
一方、北魏では、南朝斉の内乱に乗じて、長江以北の地をすべて手に入れようと画策していた。しかし、その動きは、慕容麒の存在によって、妨げられていた。
北魏の将軍たちは、慕容麒という強敵の存在を理解し、彼をどう討つか、議論を交わしていた。
「慕容麒……。あの男は、まるで幽霊のようだ。どこにいるか分からぬ。いつ現れるか分からぬ。我々が南下すれば、必ずや、背後を突いてくるだろう」
「しかし、いつまでも南朝に安寧をもたらすわけにはいかない。我々が天下を統一するためには、慕容麒という壁を、必ずや打ち破らねばならない」
北魏の将軍たちの議論は、堂々巡りを繰り返していた。しかし、その中から、一人の将が静かに口を開いた。
「皆に告ぐ。慕容麒を討つには、彼の戦術をすべて理解し、それを上回る知略が必要だ。予は、慕容麒を倒すために、新たな戦術を考案した」
その男の名は、韋孝寛。北魏の新たな将星が、今、南朝の万里の長城に、挑もうとしていた。




