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南北疾風録  作者: 八月河
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若き皇帝の悲劇、権力への序曲

義熙二年、五胡十六国時代の戦乱がなおもくすぶる中、劉裕と張夫人の間に、一人の男の子が生まれた。名を、劉義符という。彼は、天下統一という父の壮大な夢を背負って生まれた。


父、劉裕が豫章公から宋公、そして宋王へとその地位を高めていくにつれ、劉義符の立場もまた、世子、太子へと順調に引き上げられていった。永初元年、父が皇帝に即位し、宋という新たな国を興すと、彼は晴れて皇太子となり、若くして新王朝の未来を一身に背負うことになった。


遠く襄陽の地。北魏との国境にほど近い最前線に、林全こと慕容復はいた。檀道済の副将として、彼は常に厳しい戦場の空気に身を置いていたが、時折、建康からの報せに耳を傾けることがあった。劉義符が成長していく姿を、遠いまなざしで静かに見守るのが彼の常であった。


(劉義符様……。あなたは、劉裕殿の天下統一の夢、そのもの。どうか、この中華に安寧をもたらしてくだされ……)


それは、ただの願いではなかった。林全にとって、劉義符の存在は、劉裕という偉大な英雄の築き上げた秩序の象徴であり、乱世に終止符を打つ希望そのものだった。林全の願いは、父の崩御を受けて劉義符が皇帝に即位したことで、現実のものとなったかに見えた。


永初三年五月、武帝劉裕が崩御した。その死は、宋という若き国の運命を大きく揺るがすことになった。わずか十六歳で少帝として即位した劉義符を補佐するため、中書監の傅亮、司空の徐羨之、領軍将軍の謝晦といった重臣たちが、朝政を掌握した。


しかし、武帝の死は、強大な敵である北魏に絶好の好機を与えることになった。北魏の騎馬軍団が、宋の国境を越え、侵攻を開始したのである。


「武帝が崩御した今、宋は脆い。今こそ、南の地を奪う好機!」


北魏の猛攻を迎え撃つため、林全は檀道済の副将として、前線で指揮を執っていた。激しい攻防が続く中、檀道済と林全は、刻々と変わる戦況を地図の上に展開しながら、今後の戦略を練っていた。


「北魏は、我らが武帝を失ったことを好機と見ている。連中の狙いは、襄陽の攻略ではなく、我らの国境線を揺さぶり、国内の動揺を誘うことにある」


檀道済はそう言い、卓上の地図に指を滑らせた。


「では、我らはそれに乗じて、迎撃ではなく、陽動を仕掛けるべきかと」


林全がそう進言すると、檀道済は満足げに頷いた。


「その通りだ、林全。少帝はまだ若く、重臣たちの間で権力争いが起こるやもしれぬ。我らは、最前線で堅実に敵を抑え、国内が安定するまで、時間を稼がねばならぬ」


檀道済が北伐して魏軍を撃破したという報せが届いたとき、林全は安堵のため息を深くついた。


(檀道済殿……。あなたさえいれば、この国の安寧は、まだ保たれる……)


彼は檀道済の軍才を信じて疑わなかった。だが、その安堵は長くは続かなかった。建康から届く、少帝に関する不穏な噂が、林全の心を次第に蝕んでいった。


喪中にあっても、少帝は礼を守らなかった。先帝の死を悼むべき時期に、側近たちと馴れ合い、遊興にふけり、政務を疎かにする日が続いた。建康の朝廷では、文武百官たちの間で、少帝の振る舞いを嘆く声が日増しに大きくなっていた。


「徐羨之殿。このままでは、劉裕殿が築き上げたこの国は、再び乱世へと逆戻りしてしまいますぞ!」


「傅亮殿。少帝様は、劉裕殿の遺志を理解しておられぬ。この国は、もはや少帝様の手には負えぬ!」


不満を募らせていたのは、重臣たちだけではなかった。彼ら自身の権力基盤が、若く放蕩な皇帝によって揺らぐことを恐れていたのだ。徐羨之らは、少帝の素行の悪さを大義名分に、劉裕の遺詔を拡大解釈し、新たな皇帝を擁立することを画策し始めた。彼らの狙いは、少帝の弟である劉義隆を次の皇帝に据え、自らの権力をさらに確固たるものにすることだった。


遠い北の地で、林全は胸を締め付けられる思いで、建康の権力闘争の報せを聞いていた。ある夜、月明かりの下、林全は檀道済に不安を打ち明けた。


「檀道済殿……。建康では、また血が流れるやもしれませぬ。劉裕殿が築き上げた国が、内側から崩れていくのを、ただ見ているしかできないのでしょうか」


檀道済は、静かに夜空を見上げた。


「慕容復よ。我らにできることは、ただ一つ。この戦場を、乱世を終わらせた劉裕殿の夢を、守り抜くことだけだ。建康の風は、いつか必ず我らのもとに届く。その時まで、我らはこの地で戦い続けるのだ」


林全は、檀道済の言葉に、自らの無力さと、それでもなお戦い続けることの決意を新たにした。彼は、劉裕の遺志を守るため、檀道済と共に北魏との戦いに専念するしかなかった。建康の陰謀に全く関与することができない、自らの無力さに苛まれながら。


景平二年五月、ついにその時が来た。徐羨之らは皇太后の令と称し、少帝を退位させた。林全はこの報せを聞き、劉裕が命を懸けて築き上げた宋という国が、再び権力闘争の渦に巻き込まれていくのを目の当たりにした。


退位した少帝は、営陽王に封じられ、東宮から呉郡の金閶亭へと幽閉された。そして、悲劇はわずか一カ月後に訪れる。六月、徐羨之が派遣した中書舎人の邢安泰の手によって、劉義符は殺害された。享年、わずか十八歳。


(陛下……! なんと、哀れな……! この世に生を受け、ただ父の夢を背負っただけで、なぜ、これほどの不運を……!)


林全は天を仰いで嘆いた。劉裕の遺志を継ぎ、国の未来を担うはずだった若き皇帝の姿と、権力闘争の犠牲となったその哀れな最期。二つの光景が重なり、深い悲しみが彼の心に押し寄せた。


徐羨之らの思惑通り、少帝の弟である劉義隆が即位した。新たな皇帝の出現に、林全は一縷の望みを託す。しかし、彼の心には、劉裕の遺志を巡る、終わりのない新たな戦いが始まったことを告げる、静かで、しかし確かな予感が宿っていた。

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