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春、君に間に合わなくて

作者: hamham

慶応大学・南校舎前──卒業式直後。

風が吹くたびに、淡い桜の花びらが舞い散る。三月下旬の空は晴れ、校舎の白い壁に光が射していた。


「……卒業、か」

とおるは感慨深げに校舎を振り返る。真新しいスーツの襟に付いた花びらをつまんで、そっと掌に乗せた。舞い降りた花びらは、まるで小さな勲章のように見える。透はそれを自分のスーツのポケットにしまい込み、少しだけ深呼吸した。


「透!」

少し離れた場所で、笑顔を見せるさくらが手を振っている。長い黒髪が風に流されるたび、その隙間から伸びた白い首筋が透の胸をざわつかせる。彼女とは同じサークルで出会い、友人としても長く付き合ってきた。


(きっと、今日が最後のチャンスだ)

透は思い切って桜のもとへ歩み寄る。彼女の表情は穏やかで、けれどどこか名残惜しそうにも見える。卒業式の余韻と、これから始まる新生活への期待が入り混じる季節。透は心臓の鼓動を自覚しながら、一気に言葉を紡いだ。


「桜……俺、前からずっと好きだった。付き合ってほしい」


声に出してしまえば、あっという間だった。桜の瞳が大きく見開かれる。風の音と、遠くで誰かが呼ぶ声がうっすら耳に届く。桜の唇が小さく震え、そして目尻に涙が浮かんだ。


「……ごめん」


その一言が、透の胸を締めつける。何かほかにも言いたいことがあるのかもしれない。しかし、桜の口から続きは出てこなかった。


遠くに立っていたりょうは、背後からこのやりとりを見ていた。あまりの静寂に、彼自身も息をのんでいる様子がわかる。あれほど仲の良かった二人が、付き合うことになると信じて疑わなかったのだろう。ところが、桜は涙を浮かべながらの「ごめん」。その光景に、凌の表情も凍りついた。


桜はハンカチで涙を拭うと、透に向かって頭を下げる。透は何も言えず、ただ立ち尽くす。彼のポケットの中で、桜の花びらがひそかにこすれ合う音がした。


日吉駅 改札前スロープ。

卒業式後、透と凌は家路につくため、日吉駅へ向かって無言のまま歩いていた。普段は軽口を叩き合う仲だが、今日ばかりは沈黙が重い。


「おい、ちょっと待てよ」

凌が早足になって追いつく。改札に向かうスロープは夕陽に照らされ、伸びた二人の影が長く地面に映っていた。


「……なんだよ」

「お前らって両想いだったんじゃないのか? 桜のやつ、あんなに透と一緒にいたしさ。それに……あんなにうれしそうにお前の話をしてた。なのに、なんで断ったんだ?」


凌の声はいつもの軽妙な調子ではなく、純粋な困惑に満ちている。透もそれがわかるからこそ、何も返せない。


(桜……なんで断ったんだ? 何か理由があるのか?)


透の頭の中で、思考が堂々巡りを始める。いつも明るく優しい桜。けれど恋愛の話をするときは、どこか含みのある笑顔を見せることがあった。


「……わからない」

ようやく絞り出せた一言だった。


すぐ横を東横線の電車が滑り込み、ドアが開く。ホームに降り立つ桜の姿が見えたが、透と凌が呼びかける間もなく、桜は電車に乗り込んでしまう。扉が閉まり、電車は動き出す。透は慌ててホーム際まで駆け寄るが、彼女は気づいた様子もなく、そのまま小さくなっていく。


「……くそ」

透が握りしめた拳に、誰にもわからない悔しさがこもった。凌も何も言わず、透の横で立ちすくむしかなかった。


2週間後・銀行本店 初出社。

桜との気まずい別れから、あっという間に日々は過ぎた。透は念願の大手銀行に就職し、この日は初めての出社日。スーツに合わせた桜色のネクタイをきゅっと締め、鏡を見ながら結び目を整える。


ポケットにはあのとき拾い上げた乾いた桜の花びら。透はそれをそっと握りしめる。言いようのない胸の重苦しさを抱えつつも、新たなスタートを切るために気持ちを切り替えようとしていた。


「……行くか」


小さく呟き、部屋を出る。桜への思いが完全に断ち切れたわけではない。しかし、社会人としての新しい生活を前に、透は前へ進むしかなかった。


本店社員食堂・昼。

金融業界の激務は覚悟の上だったが、思った以上に忙しかった。業務研修や各種手続き、先輩へのあいさつに追われ、ようやく社員食堂で昼食をとるころには、透はぐったりと疲れ果てていた。


「あれ、透?」

声をかけてきたのは同期入行の凌だった。偶然にも同じ本店配属になり、こうして顔を合わせる機会も増えた。二人はカレーライスをトレーに載せて、空いたテーブルに向かう。


「うわ、すげー列だったな。新入行はどこの銀行でも同じか」

凌は苦笑いしながら、まずはひとくちカレーを頬張る。


「……ああ」

透は食が進まない。ぼんやりとスプーンを動かしているだけだ。


「お前、桜とはどうなったんだよ」

凌が声を潜める。透の表情が一瞬こわばるのを感じ、凌は続けた。

「実は、桜のSNS、全部消えてたんだ。インスタもツイッターも、アカウントごと無くなってる。連絡取ろうとしたけど、LINEも既読にならないし……」


「……そっか」

透は短く頷くだけだった。それを聞いた凌も、それ以上は言葉を重ねない。二人のまわりには新入社員たちの活気ある会話が飛び交っているが、まるで二人だけ別の世界にいるような静けさがあった。



5年後・銀座クラフトビアバー。

あれから5年の歳月が流れた。社会の荒波にもまれて仕事に慣れた透は、銀行の法人営業部で日々実績を積み重ねている。人事異動でいったん本店を離れ、地方支店を回ったのちに再び本店へ戻ってきた頃には、周囲も驚くほど落ち着いた雰囲気をまとっていた。


この日は同僚に誘われ、銀座のクラフトビアバーでの飲み会に参加していた。仕事関係の新しい縁を広げようという趣旨で、他行の行員やコンサル会社の社員など、さまざまな人が集まる。


「遅れてごめんなさい!」

その声にふと顔を上げた透は、一瞬言葉を失った。声の主は早川沙智さちという女性。長い髪をゆるくまとめ、オフィスカジュアルの服をすっきり着こなしている。その姿はどこか桜を連想させる雰囲気を持っていたが、決して同一ではない。柔らかい光を放つような笑顔が印象的だ。


同僚が沙智を紹介する。

「彼女はコンサル会社の早川さん。プロジェクトでご一緒することが多いんだ」

「はじめまして、早川沙智です。お名前、伺ってもいいですか?」

「岸本です。岸本透……といいます」


透が目を合わせると、沙智はにこりと微笑んだ。クラフトビールが並ぶカウンターの明かりが、その目元をきらりと照らす。


「岸本さん……ちょっとお仕事のお話も興味あるんです。後で教えてくださいね!」


透の胸がふわりと軽くなる。5年前の桜の面影が微かに重なって見えたとしても、それは懐かしさではなく、今の沙智自身が放つ魅力に惹かれているのだと透は自覚した。



丸の内デート──

それからほどなくして、透と沙智は休日にも会う仲になった。銀座での飲み会をきっかけに連絡先を交換し、意気投合した二人はごく自然に交際を始めるようになった。


最初は丸の内界隈を散歩しながら、美味しそうなカフェに入ったり、ショッピングをしたり。夕方、ビルの谷間に沈む夕陽を見た沙智は、まぶしそうに目を細めながら笑う。


「ここから見る夕陽って、都会だけど美しいね。透くん、いつもこの辺りで働いてるの?」

「ああ、都市銀行の本店で働いているから、皇居の周りをランニングしたりするよ」

「へえ、じゃあ今度一緒に走ろうよ!」


その笑顔は、春の日差しにも負けない明るさで、透の心を照らした。夕陽が沙智の背後に回り込むと、彼女のシルエットが金色の光に縁取られる。一方、透の背後に映るのは長く伸びた桜並木の影。桜の木は花が散ったあとも、枝を空へと伸ばしている。


彼らは皇居ランを楽しんだあと、美術館巡りにも出かけた。モネやゴッホの作品に触れて、静かな感動を共有する。夏祭りでは浴衣姿の沙智が、屋台で金魚すくいに興じる姿を微笑ましく眺めたりもした。


一瞬一瞬がきらめきのように過ぎていく。スマートフォンのカメラには、二人の思い出が連写のように刻まれていく。光と影のモンタージュの中で、透は桜への未練から徐々に解き放たれていく自分を感じていた。



5年後、お台場・観覧車の頂上付近。

お台場の夜景が一望できる観覧車のゴンドラ。海から吹いてくる風が涼しく、きらびやかな光が水面に反射して揺れている。


「わあ……こんなに高いところから見ると、なんだか夢みたい」

沙智がゴンドラの窓に顔を近づける。透も隣で夜景を眺めながら、少し緊張を滲ませていた。ポケットに手を入れ、指先で小さな箱を確かめる。


(ここで言うんだ。いや、言わなきゃいけない)


頂上に近づき、ゴンドラがふと止まったように感じる。眼下には無数の光が並び、遠くにはレインボーブリッジが見える。透は決心して、箱を取り出し、そっと沙智の前に差し出した。


「沙智、俺と……結婚してください」


ゴンドラの中は、二人しかいない小さな世界。沙智の目が驚きに見開かれ、次いで涙がじわりと広がる。


「透くん……うれしい……はい、喜んで」


透の指先が震える。人生の新たな扉を開く、その瞬間を二人で共有している実感が胸を熱くする。観覧車が再びゆっくりと動き出すと同時に、夜景が眩しく輝いて見えた。



婚約挨拶:早川家・仏間。

沙智との結婚を正式に決めた透は、相手の実家で挨拶をすることになった。場所は都内の閑静な住宅街にある和風の家。ここで沙智は生まれ育ったのだという。


玄関をくぐると、広々とした廊下の奥に仏間が見えた。家族写真や仏壇がきちんと整えられており、歴史を感じさせる空気が漂っている。


「お父さん、お母さん、今日はよろしくお願いします」

沙智が両親を前に改まって挨拶する。その横で透も深く頭を下げる。


「初めまして、岸本透と申します。娘さんとの結婚を、真剣に考えております」


沙智の母は穏やかな表情で微笑み、沙智の父は少し硬い面持ちだが「よろしく頼むよ」と低く答えた。


「それじゃあ、うちの仏間に来てくれる? まずは手を合わせてほしいんだ」

沙智の父がそう促す。仏壇には白い花が供えられ、その前には遺影が飾られていた。


透が遺影を目にした瞬間、全身から血の気が引くのを感じる。そこに写っていたのは、優しい笑顔を浮かべる桜だった。


「……桜……?」

透は声が裏返る。まさかの光景に、頭が真っ白になってしまう。


「姉です。私が高校生のころ、事故で亡くなって……。名前は“桜”っていいます」


沙智が目を伏せながら説明する。だが透には、もはや沙智の声も遠くに聞こえる。


あの春の日、卒業式で告白した相手——桜。自分を拒んだまま姿を消した彼女が、まさか沙智の姉だったとは。


ポケットの中には、今も持ち歩いていた桜の花びらがある。それを握りしめようとした瞬間、線香の煙が揺らめき、透は慌てて手を仏壇から引っ込めた。結果、乾ききった花びらは粉々に崩れてしまう。


「……あ……」

透は声にならない息を吐く。もう、あの花びらは跡形もない。


沙智はそれに気づき、かすかに悲しそうな顔をする。そして、自分の姉と透がかつて出会っていたと悟ったのか、表情が一気に青ざめた。


婚約は、一瞬でその正体を失い、透の心から喜びが消えていくのを感じた。


帰路の東海道線。

挨拶をそこそこに切り上げ、沙智の家を後にした透は、東海道線の車内で座席に深く座り込み、虚空を見つめていた。帰り道を一緒にするはずだった沙智も、何か言いたそうだったが「私、少し実家に残って家族と話す」と言って別れた。


電車の揺れに合わせて、吊革がカタカタと音を立てる。透は何度も口を開きかけるが、結局何も言葉が出てこない。自分の胸の中にある怒り、悲しみ、困惑が渦巻いていて、どれから整理していいかわからなかった。


(桜が……沙智の姉? じゃあ、あのときの「ごめん」はいったい何だったんだ? 沙智に迷惑をかけると思って断ったのか、それとも……何か言えない理由が?)


頭がくらくらする。降りる駅のアナウンスが流れても、透はまるで他人事のように聞き流した。



銀行・法人営業部。

翌日、透はいつもどおり出勤しようとしたが、気持ちが落ち着かない。桜を失った悲しみと、沙智との結婚が現実にうまく結びつかない。その不安定さが仕事にも影を落とし始めた。


企業への融資案件をめぐる商談では、他行に先を越されてしまう。長く交渉してきた優良企業が、突然「別の金融機関と話を進めている」と伝えてきた。


上司は苛立ちを露わにし、会議室で透のネクタイを乱暴につかんで叱責する。

「お前、最近どうしたんだ! 締め直せ、その気の抜けたネクタイを!」


普段なら軽口で返して場を和ませる透だったが、今日は何も言い返せない。ネクタイを掴む上司の手をそっとほどき、うなだれるように下を向く。


「……すみません」


かつてはモチベーション高く取り組んでいた仕事なのに、その意欲も失われかけているのが自分でもわかる。周囲の視線が痛いほど突き刺さった。


自宅深夜。

ようやく終業し、自宅に戻った透は、スーツの上着を脱ぎ捨てると机に突っ伏した。頭の中を、桜と沙智の面影が行き交う。


机の片隅には婚約指輪の小さな箱。今まで大切にしていたはずのそれを、透はそっと外して置いた。指輪のきらめきが、逆に胸を刺す。


意を決してスマホを開くと、桜との古いLINEの履歴が残っていた。最後のやりとりは卒業式の少し前。桜は「また一緒に花見行こうね」なんて屈託なく話していた。あのころは当然、未来が続いていくと信じて疑わなかった。


「……何だったんだよ、俺たち……」


透は画面を伏せるように置き、電気も消さずにベッドに倒れ込む。気づけば深夜を過ぎていて、外では遠く車の音が聞こえるだけ。部屋の暗闇の中、指輪の光だけが浮かんで見えた。



表参道・ブライダルフェア会場。

その週末、婚約を進めるうえでブライダルフェアの見学を予約していた。透も沙智も暗い気持ちを抱えたまま、気乗りしないまま訪れる。


華やかに飾られたドレスや式場の雰囲気は、幸せなカップルであふれている。スタッフの笑顔もまぶしく、見て回るだけで心が浮き立つような会場のはずだった。


しかし、透の表情は沈んだまま。沙智もそれを察しているのか、言葉少なだ。ひと通り説明を聞いて控室に戻ったところで、透は意を決して切り出した。


「沙智……俺、どうしても言っておきたいことがあるんだ」

「……うん」

「俺、大学時代……桜に、片想いしてた。卒業式の日に告白したんだ。でも、断られた。桜は俺を……選ばなかった」


透の言葉に、沙智は鏡の前で震えるように立ち尽くす。胸の奥で何かが崩れかけているのがわかる。


「……やっぱり、そうなんだね。姉は……あのとき、詳しいことは何も教えてくれなかった。でも、きっと誰か大切な人がいたんだと思ってた」


沙智の瞳に涙があふれ、静かに頬を伝う。そんな沙智の姿を見て、透は自分が取り返しのつかないことを口にしてしまったように感じる。


「桜のこと、忘れられてないの?」

「……正直、わからない。桜が亡くなったって聞いて、自分でもどう整理していいかわからないんだ。遺影を見て、5年前に戻ったような衝撃で……」


沙智は首を横に振る。もう涙が止められない。

「もう、いい……ごめん。ちょっと、頭が追いつかない……」


沙智はそのまま控室を飛び出し、スタッフの制止も振り切ってエレベーターへ消えていく。透は追いかけようとするが、まるで身体が動かない。胸の中で、関係が“死”を迎えたような空虚感が広がった。



神宮外苑 夜の並木道。

青山通りから少し入った、イチョウ並木が有名な場所。季節外れの夜風が冷たく、通りにはほとんど人影がなかった。透は一人、並木道の真ん中で立ち止まり、夜空を見上げる。


辺りはビルの光が遠くにあるだけで、静まり返っている。何をするわけでもなく、透はポケットに手を入れた。そこにもう花びらはない。5年間持ち続けた桜の花びらは、沙智の家で粉々になってしまった。


(桜……もう、俺は前に進まなくちゃいけないのか? それとも、沙智を諦めて全部なかったことに……?)


答えは出ない。それでも、もう一度深呼吸をすると、透はスマホを取り出した。画面を開き、「会いたい」とだけ打ち込む。宛先は沙智。


送信ボタンを押すと同時に、風が強く吹き、透の髪をかき乱した。ポケットの中の「何もない」感触が、逆に透の決意を煽る。



翌朝・スターバックス青山一丁目店 店内。

店内は朝の通勤客で混んでおり、透と沙智は奥の席をなんとか確保する。昨日のブライダルフェアでの一件以来、初めて二人が顔を合わせた場だった。


沙智は化粧っ気もなく、瞳は赤く腫れている。透はその姿に心が痛むが、それ以上に、ここで自分の真実を話すしかないと思っていた。


「昨日はごめん……無理させた。ちゃんと話したい」

「……うん」

沙智はうつむいたまま、カップを両手で包む。透は息を飲んで、言葉を選ぶ。


「桜のことを、俺は……ずっと過去の思い出として抱えてた。大学卒業式の日に告白したけど、振られて。その理由すら知らないまま、彼女は……事故で亡くなってしまった。悲しくて、勝手に自分を責めたりもした」


沙智の目からまた涙が滲みそうになるのを見て、透は手を伸ばしそうになるが、こらえる。

「でも、沙智と出会って、俺は本当の意味で前に進めたんだ。桜を忘れるとかじゃなくて、沙智といるときの安心感や楽しさが、俺の中に新しい居場所を作ってくれた。それなのに、こんな形で桜のことを知って、混乱させてごめん」


沙智は口を開く。

「……姉は、私が高校生のときに事故で。私、大学は地方へ行っていたから……姉が透くんと会ってたこと、正直全然知らなかった。でも、きっと姉も透くんのこと……」


そこまで言って、沙智は言葉を切った。言いようのない感情が喉を詰まらせているようだ。


そのとき、沙智のスマホが音を立てる。見ると会社からのメールのようだ。ちらりと画面を覗きこんだ沙智はハッと息をのむ。


「……海外転勤の内示メールだわ。まさか……こんなタイミングで」


透も画面を覗く。沙智の勤めるコンサル会社はグローバル展開に積極的だと聞いていたが、いつか海外配属になるかもしれない、という話は以前からあった。


動揺する沙智とは対照的に、透は妙に冷静にその文字を見つめる。決断を迫られる。


(桜のことを抱えたまま、沙智に行かせるのか? それとも……俺も銀行を辞めてついていく?)


透はスマホを取り出し、社内の人事システムでジョブチェンジや海外赴任の“辞退”ができるという画面を見つめる。指が震えながら、そのボタンに触れそうになる。



同・テラス席。

混雑する店内から少し離れ、テラス席に移動した二人。外の空気は冷たかったが、ほんの少し空が明るくなっていた。


「透くんはどうしたいの?」

沙智が小さく問う。


透は迷いながらも、明確に答えようとする。

「俺は銀行の仕事が好きだ。だけど……それ以上に、沙智との未来が欲しい。桜のことはもう二度と戻らないし、真実もわからない。けれど、沙智が俺の前に現れてくれたのは、何かの縁だと思う。俺は、その縁を大切にしたい」


沙智は真剣な瞳で透を見つめる。

「でも……姉のこと、本当に整理はつくの? 私を見ても、姉の影を探すことにならない?」


透は沙智の手にそっと自分の手を重ねる。

「確かに……もしかしたら、これからも桜を思い出すことはあるかもしれない。でも、それはもう“過去の誰か”じゃない。桜は俺にとって、最初で最後の大切な思い出だ。沙智は沙智、桜の代わりでもなんでもない」


透のまっすぐな言葉に、沙智の瞳から一筋の涙が落ちる。

「それでも……私を選ぶ?」

「選ぶ」


透がはっきりと言うと、沙智はこくりと頷き、スマホの画面を見た。そこには「海外転勤の内示に応じるか辞退するか」の選択画面が表示されている。


「……私、転勤を受けたら、長期で日本に戻れないかもしれない。それでもいいの?」

「いい。俺はどこにいたって、沙智とつながっていたい。……一緒に、やっていこう」


沙智はほんの少し微笑んで、画面の「辞退」をタップした。


新居・夕陽の窓辺。

それから数ヶ月後。透と沙智は都内の新居で、新婚生活を始めた。海外転勤を辞退した沙智は社内で新プロジェクトを任され、透も銀行で新しい部署に異動し、二人三脚で忙しい日々を送っている。


夕方、カーテンの向こうからオレンジ色の光が差し込む。ダンボールがまだ積まれたままの部屋だが、そこには二人の笑顔があった。


「透くん、そっちのダンボール開けてくれる?」

「ああ……ん?」


透がダンボールを動かした拍子に、小さな紙切れのようなものがはらりと舞い落ちる。よく見ると、それは花びらの形をしているが……かつてポケットにしまっていた桜の花びらのかけらのようだった。


「これ……」


透はそのかけらを掌にのせ、外から射し込む夕陽を見やる。きらきらと光るオレンジの円盤を背にして、沙智がそっと寄り添ってくる。


「桜姉さん、空から見てるかな」

「……ああ。きっとな」


透はそう呟いて、沙智と手をつなぐ。ふたりのシルエットが夕陽に重なり合い、新しい未来を照らしていた。


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