8話 届かない温度
あれから数日が流れた。
今日はなぜか、いつもより少しだけ、空気が重たかった。
図書館に入った瞬間、
胸の奥に、ざわつくような違和感が広がった。
窓際の席には、いつものように彼が座っていた。
だけど、
その背中が、どこか小さく見えた。
いつも通り、お互いに本を開き、
静かに時間だけが流れていく。
ふと、片方の肩に、そっと重みを感じた。
顔を向けると、
黎明が、少し俯きながら、僕に体を預けていた。
驚いた。
けれど、拒む理由なんて、どこにもなかった。
ただ、静かに、その重さを受け止めた。
ふと見えた、黎明の目尻が、
ほんのわずかに赤く染まっていた。
しばらくの間、
何も言わず、ただ背中に黎明の重さを感じていた。
微かに伝わる鼓動と、呼吸のリズム。
僕は動けなかった。
きっと、今、この人は――
どこか、遠い場所にいる。
「……蓮」
かすかな震えを帯びた声が、耳元に落ちた。
図書館のなか、
ページをめくる音だけが、遠くに響いていた。
しばらくのあいだ、
ふたりのあいだには、何も言葉がなかった。
でも、それでよかった。
「……少しだけ、このままでいさせて。」
掠れた声が、すぐ近くでそっと囁かれた。
しばらく経つと、ふと、近くで小さな笑い声が響いた。
子供の声だった。
駆ける足音と、それを追う柔らかな大人の声。
図書館の静かな空気の中に、
ふわっと小さな波紋のように広がる。
黎明が、すっと顔を上げた。
わずかに寄りかかっていた重みが離れる。
僕も顔を上げ、声のした方を見た。
幼い子供が、本棚の間を走り抜けていく。
その後ろを、若い母親らしい女性が小走りで追いかけていった。
周囲の大人たちがちらりと視線を向けたが、誰も咎めることはなかった。
ただ、微笑みながら、それぞれの時間に戻っていく。
僕と黎明も、思わず顔を見合わせた。
「……賑やかだね」
「うん。でも、たまにはこういうのもいいかも」
そう言って、僕はふと、黎明の横顔を見た。
「黎明って、子供に優しそうだよね」
彼は少し驚いたように目を瞬かせて、
それから、ふっと笑った。
「そうかな」
「うん、なんとなくそんな感じする」
静かな時間が一度だけ流れた。
そのあと、黎明がぽつりと言った。
「……そういえば、数年前、子供をひとり拾ったことがあったな」
僕は思わず顔を上げた。
「え、それって迷子だったの?」
黎明は、ほんの少しだけ、目を細める。
「……まあ、似たようなもんだったけど、ちょっと違うかもな」
それだけ言って、また本に視線を落とした。
それ以上、彼は何も話さなかった。
僕も、深くは聞かなかった。
ただ、なぜか胸の奥に、
小さな棘のように、その言葉だけが残った。