7話 誰にも届かない問
季節は、また少しだけ進んでいた。
でも、胸の奥にあるざわつきは、少しも消えていなかった。
静かな図書館のなか、
彼はいつものように隣に座っていた。
教科書を開き、目を落とすふりをしながら、僕は、ちらりと彼の横顔を盗み見る。
やっぱり、どこか遠い。
すぐ隣にいるのに、
手が届かないような気がする。
そんな自分が、たまらなく情けなかった。
ふと、視線を落とす。
開きかけたノートのページが、滲んで見えた。
声にするつもりはなかったのに、
思わず、ぽつりとこぼれてしまった。
「……僕って、ほんと、無様だな」
静かな空気のなかで、
その言葉だけが、やけに重たく響いた。
少しの沈黙のあと、黎明はふっと笑った。
手を首の後ろに回して、様子を伺うように顔を覗かした。
それは、どこかあたたかくて、静かな視線だった。
「.....そう思えるってだけで、君はちゃんと"人間”してるんだと思うよ」
ゆっくりと言葉を紡ぐように、言った。
「無様だって思える人間ほど、たぶん、本当は優しいんだ」
彼の言葉に、胸の奥が、ほんのすこしだけあたたかくなった気がした。
でも、それだけじゃ、きっと足りなかった。
自分のなかに巣くうざらつきや、不安や、名もない焦りは、
何ひとつ、消えたりはしなかった。
ふと顔を上げると、彼はまた本に目を落としていた。
いつもと変わらない仕草で、静かに、そこにいる。
手を伸ばせば、届きそうで。
でも、その距離は、やっぱり埋まらないままだった。
僕もそっとノートに視線を戻す。
滲んだ文字をなぞるように、
小さな静けさに、ただ身を沈める。
消えないざわつきを抱えたまま、
それでも、ここにいたかった。
──そんなふうに、思ってしまった。
教科書のページが進み、静かに時間が流れていった。
ふと隣に目を向けると、
黎明は、珍しく机に伏せて眠っていた。
寝顔を見るのは、初めてだった。
その無防備な姿が、なぜか嬉しくて、思わずにやけてしまう。
──あ。
左目のあたりに、一本の細い筋が見えた。
それに気づいた瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
僕はただ、そっと息を呑むことしかできなかった。
音もなく流れていく時間のなか、
消えたはずの不安が、静かに胸を満たしていった。
日が沈みかけている時刻に彼は目を覚ました。
図書館を出ると、空はすっかり夕暮れに染まっていた。
柔らかな風が、頬をかすめる。
ふたり並んで歩きながら、
僕は何か話したくて、でも言葉が見つからなくて、
ただ黙って、歩幅を合わせていた。
ふいに、黎明がぽつりと呟く。
「……これまで、ただ一つのものだけを支えにして、生きてきたんだ」
歩きながら、前を向いたまま。
「それだけ信じて、ここまで来た。
でも──ほんとは、違う道もあったんじゃないかって、ふと思うことがある」
かすかな声だったけれど、
その言葉は、夕暮れの空気に、静かに沈んでいった。
彼は少し笑った。
でも、それはどこか、痛みを抱えたような笑みだった。
そして、ほんの少し間を置いて、ぽつりと零す。
「……俺は、何がしたいんだろうな」
僕は、何も言えなかった。
言葉を探すふりをしながら、ただ並んで歩き続けた。
──ふたりの足音だけが、冷たい夕暮れに、かすかに響いていた。