5話 静かな夕暮れに
昨日、図書館を出るとき――
彼はふっと笑って、「また明日」と言った。
それだけのことだったはずなのに、
今日ここに来るのが、少しだけ楽しみだった。
図書館のドアを押すと、
やわらかな光と静けさに包まれる。
手に持ったリュックの重みを感じながら、
自然と、いつもの窓際へ向かって歩き出す。
本棚が波打つように並んでいる。
緩やかな曲線を目でなぞりながら、
なんとなく歩いていると――
ふと、その先に揺れる後ろ姿を見つけた。
赤茶色の髪。
光を受けて、やわらかく透ける輪郭。
一瞬で、わかった。
――あの人だ。
胸の奥が、かすかに跳ねた。
気づけば、少しだけ足を速めていた。
「……おはよう」
声をかけると、彼は立ち止まり、
静かに振り返る。
そして、柔らかく目を細めて――
「おはよう」
小さく、そう返した。
互いにそれ以上言葉を交わすことなく、
自然な流れで並んで歩く。
窓際の席に着くと、
蓮はリュックを下ろし、ノートと教科書を広げた。
隣では、彼が片手に持っていた本を開き、
ページをめくる音だけが、静かに響いている。
何気なくノートの隅に視線を落とす。
そこには、この前彼が書いてくれた名前が残っていた。
黎明――
心の中で、そっとその名前を呼んでみる。
まだ、声には出せない。
けれど、
その響きだけが、静かに胸の奥に広がっていった。
また、隣で教えてもらいながら――
気づけば、静かに時間が過ぎていた。
本を閉じる小さな音がして、
彼が静かに席を立つ。
「そろそろ、帰る?」
その声に、蓮もうなずいた。
「うん」
図書館を出ると、
広い歩道とガラス張りの建物が、夕暮れに淡く染まっていた。
空は高く澄んで、
風が少しだけ冷たかった。
二人は並んで歩く。
道の両脇には、背の高い街路樹が続いていた。
葉の隙間からこぼれる夕陽が、
歩道に淡い光の模様を落としている。
特別な話はしなかった。
でも、歩幅だけは自然にそろっていた。
しばらく静かな並木道を歩いて、
交差点にさしかかる。
彼がふと立ち止まった。
「蓮」
呼ばれた名前に、蓮は小さく振り向く。
彼は、ほんの少しだけ微笑んで――
「……じゃあ、また」
「うん、またね、黎明さん」
短い会話。
違う方向へ歩き出す背中。
街の明かりが、
静かに滲んでいく。
それでも、心の中には、
あたたかい光が、確かに残った。