表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
誰か、がいた  作者:
5/17

4話 また、明日

あの日から、図書館で彼と隣り合うのが、

いつの間にか――当たり前のようになっていた。


 


特別な約束なんてない。

声をかけるわけでもない。

でも、同じ時間にそこへ行けば、自然とそこに彼がいる。


そんなふうにして、

ゆっくりと、静かに、僕たちの日常は重なっていった。


 


今日は、珍しく僕のほうから話しかけた。

覚えたての単語を間違えて、彼に小さく笑われた。

でも、すぐに優しく訂正してくれるその声が、

なぜだかやけに耳に残った。


 


窓の外はもう夕暮れに染まりはじめていて、

柔らかな光が、机の上に長く影を落としていた。


彼の指先が本をめくるたび、

空気がほんの少しだけ、揺れる。


 


この時間が、ずっと続けばいいのに――

そんなことを、ぼんやりと思った。


 


「……これ、“行く”って意味、だよね?」


ノートに書き込んだ単語を指差しながら、僕は彼に尋ねた。

少し自信がなかったけれど、なんとか声に出してみる。


彼はノートを覗き込んで、

すぐに首を横に振った。


「違う。“訪れる”だ。ちょっとニュアンスが違う」


「……ああ、そっか……」


間違えたことに、思わず肩を落とす。

すると彼は、ふっと笑った。


「でも、似てるから、間違えるのも無理ないよ」


言葉だけじゃない。

その笑い方も、

まるで責めるつもりなんて最初からないみたいに、優しかった。


 


「……君は、何を勉強してるの?」


ふと、そんな言葉がこぼれた。


彼は少しだけ手を止めて、

それから何でもないように言った。


「法律関係。……まあ、そんなところ」


「へえ……」


それ以上、深くは聞かなかった。

聞いてはいけないような気がしたから。


ただ、彼の指先が本のページをめくる音だけが、

静かに続いていた。


 


少しだけ、心が揺れる。

この人は、どこから来て、どこへ行こうとしているんだろう。

そんなことを、考えていた。


でも、口には出さなかった。


言葉にしたら、

この静かな時間が壊れてしまいそうだったから。


 


ただ、隣にいるだけでよかった。

それだけで、今は十分だった。


 


ふと、気がつけば、

窓の外はすっかり夜の色に変わりかけていた。


図書館の静けさも、少しずつ深まっていく。

人の姿もまばらになって、

どこか、空気が冷たくなったような気がした。


 


「……そろそろ、帰る」


彼がそう言って、ゆっくりと席を立った。


「あ……うん」


本を閉じながら、僕も立ち上がる。

名残惜しいような気持ちを、

それでも上手く言葉にできない。


 


少しだけ、間があった。


でも彼は、自然な仕草で、

僕に向かって小さく手を振った。


「また、明日」


 


たったそれだけの言葉。

それなのに――


心臓が、少しだけ跳ねた。


 


「……うん」


なんとかそれだけ返して、

僕も小さく手を振り返す。


 


図書館の重い扉が開き、

彼の後ろ姿が、夜の街へと溶けていった。


 


静かになった空間に、

僕の呼吸だけが、静かに響いていた。


 


また、明日。

その言葉が、

やけにあたたかく胸に残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ