4話 また、明日
あの日から、図書館で彼と隣り合うのが、
いつの間にか――当たり前のようになっていた。
特別な約束なんてない。
声をかけるわけでもない。
でも、同じ時間にそこへ行けば、自然とそこに彼がいる。
そんなふうにして、
ゆっくりと、静かに、僕たちの日常は重なっていった。
今日は、珍しく僕のほうから話しかけた。
覚えたての単語を間違えて、彼に小さく笑われた。
でも、すぐに優しく訂正してくれるその声が、
なぜだかやけに耳に残った。
窓の外はもう夕暮れに染まりはじめていて、
柔らかな光が、机の上に長く影を落としていた。
彼の指先が本をめくるたび、
空気がほんの少しだけ、揺れる。
この時間が、ずっと続けばいいのに――
そんなことを、ぼんやりと思った。
「……これ、“行く”って意味、だよね?」
ノートに書き込んだ単語を指差しながら、僕は彼に尋ねた。
少し自信がなかったけれど、なんとか声に出してみる。
彼はノートを覗き込んで、
すぐに首を横に振った。
「違う。“訪れる”だ。ちょっとニュアンスが違う」
「……ああ、そっか……」
間違えたことに、思わず肩を落とす。
すると彼は、ふっと笑った。
「でも、似てるから、間違えるのも無理ないよ」
言葉だけじゃない。
その笑い方も、
まるで責めるつもりなんて最初からないみたいに、優しかった。
「……君は、何を勉強してるの?」
ふと、そんな言葉がこぼれた。
彼は少しだけ手を止めて、
それから何でもないように言った。
「法律関係。……まあ、そんなところ」
「へえ……」
それ以上、深くは聞かなかった。
聞いてはいけないような気がしたから。
ただ、彼の指先が本のページをめくる音だけが、
静かに続いていた。
少しだけ、心が揺れる。
この人は、どこから来て、どこへ行こうとしているんだろう。
そんなことを、考えていた。
でも、口には出さなかった。
言葉にしたら、
この静かな時間が壊れてしまいそうだったから。
ただ、隣にいるだけでよかった。
それだけで、今は十分だった。
ふと、気がつけば、
窓の外はすっかり夜の色に変わりかけていた。
図書館の静けさも、少しずつ深まっていく。
人の姿もまばらになって、
どこか、空気が冷たくなったような気がした。
「……そろそろ、帰る」
彼がそう言って、ゆっくりと席を立った。
「あ……うん」
本を閉じながら、僕も立ち上がる。
名残惜しいような気持ちを、
それでも上手く言葉にできない。
少しだけ、間があった。
でも彼は、自然な仕草で、
僕に向かって小さく手を振った。
「また、明日」
たったそれだけの言葉。
それなのに――
心臓が、少しだけ跳ねた。
「……うん」
なんとかそれだけ返して、
僕も小さく手を振り返す。
図書館の重い扉が開き、
彼の後ろ姿が、夜の街へと溶けていった。
静かになった空間に、
僕の呼吸だけが、静かに響いていた。
また、明日。
その言葉が、
やけにあたたかく胸に残っていた。




