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誰か、がいた  作者:
4/17

3話 言葉の始まり


何気ない授業が終わり、大学を出る。

一度、家に帰って荷物を置いてから――

僕は今日も、図書館へ向かった。


この頃にはもう、ここに寄るのが当たり前になっていた。

静かで落ち着く場所。

お気に入りの窓際の席と、

そこによく座っている人の姿を、なんとなく思い浮かべながら。


 


そういえば、ここ数日は会えていなかった。

時間が少しずれただけなのか、

たまたま何かあったのか、

忙しかったのか――

そんなことを、なんとなく考えていた。

でも、やっぱり少しだけ気になっていた。


午後の図書館は、変わらない静けさに包まれていた。

高い天井と重い書架。窓際の席には、やわらかな光が差し込んでいる。


その光の中に――

今日は、あの人の姿があった。


赤茶色の髪が、うっすら透けるように揺れている。

いつもと同じように本を読んでいて、でもふと、こちらに目を向けた。


視線が、合う。


たったそれだけ。

けれど、その瞬間――彼は、ほんの少しだけ、会釈をした。


驚きと戸惑いが混ざったまま、

僕も、小さくうなずき返す。


それだけのこと。

言葉なんてひとつも交わしていないのに、

なぜか心がふわりと揺れた。


“無関係な他人”だった時間が、

ほんの少しだけ、何かに変わっていく気がした。


 


僕は窓際のいつもの席に座り、ノートと教科書を机に広げる。

昨日は頭に入らなかった文法の例文を、もう一度読み直す。

ページの端には何度も引いた赤い線。

それでも、意味はまだぼんやりしていた。


ため息がこぼれそうになった、そのときだった。


「そこ、主語が前に出るタイプだ」


静かで落ち着いた声が、すぐ隣から降ってきた。


顔を上げると、あの人――彼が、すっと椅子を引いて隣に座っていた。


「……え?」


一瞬、言葉を失う。


「この文型は、“時間”が主語になる構文。ちょっと独特なんだよ」


淡々と説明しながら、彼はノートを覗き込んでいる。

距離が近い。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。


「……君、留学生?」


「え、あ、うん。日本から……来たばかりで」


「そっか」

彼はふっと笑った。ほんの少し、柔らかい空気が流れた。


「……名前、なんていうの?」


「あ……」


僕は少し迷って、ノートの端にさらさらと自分の名前を書いた。


(れん)


彼はそれを見て、少し笑う。


「リェン、か」


「“れん”。日本では、そう読むんだ」


「ふうん。でも、“リェン”のほうが、君にはしっくりくるな」


「……勝手にニックネームつけられてる気分なんだけど」


「ダメ?」


「……別に。嫌じゃないけど」


蓮が少し照れくさそうに目を逸らすと、

彼は静かにペンを取った。


けれど、そのまますぐには書かず――

ペン先をノートの上に置いたまま、ほんのわずか、手が止まる。


視線を伏せたまま、

彼は一瞬、何かを考えるように黙っていた。


その横顔には、

名前ひとつ書くことに、少しだけ迷いがあるように見えた。


それでも、やがて静かにペンが動き出す。


黎明(リーミン)


 

「……れいめい?」


蓮が思わずそう読んでしまうと、彼は小さく笑って言った。


「リーミン。中国語では、そう読む」


「あ、ごめん……日本だと“れいめい”って読むから、つい」


「気にしなくていいよ。どっちも、俺の名前だから」


そう言いながら、

彼はふと、手を首の後ろに回し、少しだけ首を傾けて笑った。


どこか無防備で、自然なその仕草に、

蓮は一瞬だけ目を奪われた。


 


静かで、ごくささやかな会話だった。

でもそのやりとりが、なぜか心に強く残った。


それから、彼はときどき――

ふいに僕を「(リェン)」と呼ぶようになった。


静かに、自然に――けれど、

それは確かに、“ふたりだけの言葉”のはじまりだった。


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