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誰か、がいた  作者:
2/17

1話 差し込む光の中で

成都に来て、もうすぐ二週間が経つ。

見慣れない街の音も、少しずつ体に馴染んできた気がする。


語学留学のために、日本から中国へやってきた。

母方の叔父の助けを借りて、今は叔父の家で暮らしている。

学校が終わった午後、僕は今日も1時間かけて家に戻り、近くの図書館へと足を運んだ。


この図書館は、なんとなく雰囲気が好きだ。

重たく静かな空気と、窓から差し込む柔らかな光。

幼い頃に一度来たことがあるらしいけど、その記憶は曖昧で、思い出そうとしてもぼやけている。

窓際の席が、お気に入りになった。


今日も、その席に座ってすぐ気がついた。

──あ、いつもの人だ。


少し差し込む光に照らされて、赤茶色の髪がふわりと透けて見えた。

前髪の隙間から覗く、澄んだ茶色の瞳。

それは、どこか儚くて、

本の世界に深く沈んでいくような、そんな目だった。


……一瞬、息が止まりそうになった。

あ、

咄嗟のことで、目をすぐに逸らしてしまった。


あ〜、なんて恥ずかしいことを。

絶対に変なやつだと思われたじゃん……。


本に俯きながら、そっと顔を隠した。

耳が熱い。心臓が早い。

どうして、自分でもよくわからない。


静かな図書館の中で、

たった今、自分の中だけに波が立ったような気がした。


何をしていたか、自分でもよくわからない時間が過ぎていた。


時間が経ち、気分を変えようと、本を探す。

少し暗がりになった棚の前で立ち止まり、目当ての本に手を伸ばした。


……はぁ、届かない。

自分のコンプレックスを、改めて痛感する。


さて、どうしようかな。


カタッ……。


っ……。


自分の視界に、ふと影が落ちた。

暗がりが、さらに濃くなる。

背中に、微かに“圧”を感じた。


「……これでいいの?」


声が耳に届いた瞬間、心の奥が微かにざわついた。

なぜか、体が動かなかった。

ほんの少しの間、言葉も、呼吸も、忘れていた気がする。


けれど、その響きをどう言い表せばいいのか、うまく言葉にできない。

はっきり聞こえていたはずなのに、印象は曖昧で、どこか掴みきれない。


ただ、その一言だけで、空気が少しだけ変わったような気がした。


気がつけば、その本が僕の手の先に差し出されていた。

指先が触れそうな距離で、彼の手が本の背表紙を支えている。


「……あ、ありがとう……ございます」

思わず声を漏らしたけれど、自分でも驚くほど小さな声だった。


彼は何も言わず、ほんの少しだけ目を細めた。

それは笑ったようにも見えたし、ただ眩しさに目を細めただけのようにも思えた。


そして、何事もなかったかのように、静かにその場を離れていった。


しばらく僕は、手の中にある本を見つめながら動けなかった。

その指先に、声に、気配に――

何か強く残ったものが、確かにあった気がする。


ほんの数十秒のやり取りだったはずなのに、

何かがずっと心の中で、静かに反響していた。


ゆっくりと歩き出し、席に戻る。

椅子に腰を下ろした瞬間、ようやく深く息が吐き出せた。


パタンとノートを開いて、視線を文字の上に落とす。

けれど、ページの内容はまるで頭に入ってこない。

指先がじんわり熱を持っている気がして、無意識に本を握りしめた。


──なんだったんだろう、あの人。


たった一言しか話していないのに、

声の調子も、目の色も、仕草のすべてが、やけに鮮明に残っていた。


何か特別なことをされたわけじゃない。

ただ、本を取ってもらっただけ。

それだけのことなのに、心がずっとざわついていた。


ただ、もう一度だけ、あの声が聞きたいと思ってしまった。

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