1話 差し込む光の中で
成都に来て、もうすぐ二週間が経つ。
見慣れない街の音も、少しずつ体に馴染んできた気がする。
語学留学のために、日本から中国へやってきた。
母方の叔父の助けを借りて、今は叔父の家で暮らしている。
学校が終わった午後、僕は今日も1時間かけて家に戻り、近くの図書館へと足を運んだ。
この図書館は、なんとなく雰囲気が好きだ。
重たく静かな空気と、窓から差し込む柔らかな光。
幼い頃に一度来たことがあるらしいけど、その記憶は曖昧で、思い出そうとしてもぼやけている。
窓際の席が、お気に入りになった。
今日も、その席に座ってすぐ気がついた。
──あ、いつもの人だ。
少し差し込む光に照らされて、赤茶色の髪がふわりと透けて見えた。
前髪の隙間から覗く、澄んだ茶色の瞳。
それは、どこか儚くて、
本の世界に深く沈んでいくような、そんな目だった。
……一瞬、息が止まりそうになった。
あ、
咄嗟のことで、目をすぐに逸らしてしまった。
あ〜、なんて恥ずかしいことを。
絶対に変なやつだと思われたじゃん……。
本に俯きながら、そっと顔を隠した。
耳が熱い。心臓が早い。
どうして、自分でもよくわからない。
静かな図書館の中で、
たった今、自分の中だけに波が立ったような気がした。
何をしていたか、自分でもよくわからない時間が過ぎていた。
時間が経ち、気分を変えようと、本を探す。
少し暗がりになった棚の前で立ち止まり、目当ての本に手を伸ばした。
……はぁ、届かない。
自分のコンプレックスを、改めて痛感する。
さて、どうしようかな。
カタッ……。
っ……。
自分の視界に、ふと影が落ちた。
暗がりが、さらに濃くなる。
背中に、微かに“圧”を感じた。
「……これでいいの?」
声が耳に届いた瞬間、心の奥が微かにざわついた。
なぜか、体が動かなかった。
ほんの少しの間、言葉も、呼吸も、忘れていた気がする。
けれど、その響きをどう言い表せばいいのか、うまく言葉にできない。
はっきり聞こえていたはずなのに、印象は曖昧で、どこか掴みきれない。
ただ、その一言だけで、空気が少しだけ変わったような気がした。
気がつけば、その本が僕の手の先に差し出されていた。
指先が触れそうな距離で、彼の手が本の背表紙を支えている。
「……あ、ありがとう……ございます」
思わず声を漏らしたけれど、自分でも驚くほど小さな声だった。
彼は何も言わず、ほんの少しだけ目を細めた。
それは笑ったようにも見えたし、ただ眩しさに目を細めただけのようにも思えた。
そして、何事もなかったかのように、静かにその場を離れていった。
しばらく僕は、手の中にある本を見つめながら動けなかった。
その指先に、声に、気配に――
何か強く残ったものが、確かにあった気がする。
ほんの数十秒のやり取りだったはずなのに、
何かがずっと心の中で、静かに反響していた。
ゆっくりと歩き出し、席に戻る。
椅子に腰を下ろした瞬間、ようやく深く息が吐き出せた。
パタンとノートを開いて、視線を文字の上に落とす。
けれど、ページの内容はまるで頭に入ってこない。
指先がじんわり熱を持っている気がして、無意識に本を握りしめた。
──なんだったんだろう、あの人。
たった一言しか話していないのに、
声の調子も、目の色も、仕草のすべてが、やけに鮮明に残っていた。
何か特別なことをされたわけじゃない。
ただ、本を取ってもらっただけ。
それだけのことなのに、心がずっとざわついていた。
ただ、もう一度だけ、あの声が聞きたいと思ってしまった。