11話 蓮
図書館に入ったとき、
なぜか、ほんの少しだけ空気が違っていた。
いつも通りの静けさ。けれど、彼の背中がどこか遠く見えた。
机に広げたノートと本。
指先でページをめくる音。
変わらないはずの風景なのに、何かが微かにずれていた。
「……この単語、どうやって使うんだっけ?」
思い切って声をかけた。
いつもと同じように、彼はノートを覗き込みながら、丁寧に説明してくれた。
「前後の文脈にもよるけど、ここでは“〜したことがある”って意味になるかな」
「……そっか。ありがとう」
「ちゃんと勉強してるじゃん」
「うるさいな……これでも、わりと必死なんだけど」
くすっと笑ったあと、彼はページをめくる手を止めた。
そのまま、少しだけ遠くを見るような目をして、ぽつりと言った。
「……しばらく、来られないかもしれない」
一瞬、意味がうまく飲み込めなかった。
軽く言ったように聞こえたのに、
その言葉だけが、やけに重たく響いた。
「……そうなんだ」
ようやく絞り出した声は、
自分でも驚くほど、小さくて頼りなかった。
なぜか、言葉にならなかった。
聞きたいことは、いくつも浮かんだ。
けれど、どれも口にするには少しだけ遅すぎて、
心の奥に沈んでいった。
今のまま、何も変わらなければいい――
そんな願いが、ただ静かに、胸の奥に広がっていた。
ただ、本のページが静かに閉じられて、
その音が、何かの終わりを告げるように思えた。
図書館の外に出ると、風が静かに吹いていた。
並木道の先、夕暮れが色を濃くしていく。
僕たちは並んで歩いた。
でも、どちらからともなく、少しずつ距離ができていた。
信号が青に変わる。
僕は、いつも通りに横断歩道を渡る。
特別な理由があったわけじゃない。
ただ、いつもと同じように、前を向いて歩いただけだった。
けれど、渡りきったところで、ふと振り返る。
彼は、まだ木陰に立っていた。
動かず、ただ僕のほうを見ていた。
「じゃあな」
風に揺れる髪越しに、そう言った気がした。
そして、
ほんの少し間を置いて、
「……蓮」
静かに、でも確かに、そう呼ばれた。
蓮、ではなく。
初めて彼の声で呼ばれた、“僕の名前”。
その響きが、胸の奥を優しく打つ。
僕が立ち尽くす中、
彼は静かに背を向けて歩き出した。
その足取りは迷いなく、
やがて、並木道の向こうへと小さくなっていった。
追いかけることはできなかった。
ただ、風の音だけが、
取り残された僕のそばを通り過ぎていった。
──あの日、木陰に立っていた彼の姿と、
歩き去っていくその背中だけが、
今でも、胸の奥に静かに残っている。




