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誰か、がいた  作者:
12/17

11話 蓮


図書館に入ったとき、

なぜか、ほんの少しだけ空気が違っていた。

いつも通りの静けさ。けれど、彼の背中がどこか遠く見えた。


机に広げたノートと本。

指先でページをめくる音。

変わらないはずの風景なのに、何かが微かにずれていた。


「……この単語、どうやって使うんだっけ?」


思い切って声をかけた。

いつもと同じように、彼はノートを覗き込みながら、丁寧に説明してくれた。


「前後の文脈にもよるけど、ここでは“〜したことがある”って意味になるかな」


「……そっか。ありがとう」


「ちゃんと勉強してるじゃん」


「うるさいな……これでも、わりと必死なんだけど」


くすっと笑ったあと、彼はページをめくる手を止めた。

そのまま、少しだけ遠くを見るような目をして、ぽつりと言った。


「……しばらく、来られないかもしれない」


一瞬、意味がうまく飲み込めなかった。

軽く言ったように聞こえたのに、

その言葉だけが、やけに重たく響いた。


「……そうなんだ」


ようやく絞り出した声は、

自分でも驚くほど、小さくて頼りなかった。


なぜか、言葉にならなかった。


聞きたいことは、いくつも浮かんだ。

けれど、どれも口にするには少しだけ遅すぎて、

心の奥に沈んでいった。


今のまま、何も変わらなければいい――

そんな願いが、ただ静かに、胸の奥に広がっていた。


ただ、本のページが静かに閉じられて、

その音が、何かの終わりを告げるように思えた。


図書館の外に出ると、風が静かに吹いていた。

並木道の先、夕暮れが色を濃くしていく。


僕たちは並んで歩いた。

でも、どちらからともなく、少しずつ距離ができていた。


信号が青に変わる。


僕は、いつも通りに横断歩道を渡る。

特別な理由があったわけじゃない。

ただ、いつもと同じように、前を向いて歩いただけだった。


けれど、渡りきったところで、ふと振り返る。


彼は、まだ木陰に立っていた。

動かず、ただ僕のほうを見ていた。


「じゃあな」


風に揺れる髪越しに、そう言った気がした。


そして、

ほんの少し間を置いて、


「……(レン)


静かに、でも確かに、そう呼ばれた。


(リェン)、ではなく。

初めて彼の声で呼ばれた、“僕の名前”。


その響きが、胸の奥を優しく打つ。


僕が立ち尽くす中、

彼は静かに背を向けて歩き出した。


その足取りは迷いなく、

やがて、並木道の向こうへと小さくなっていった。


追いかけることはできなかった。


ただ、風の音だけが、

取り残された僕のそばを通り過ぎていった。


──あの日、木陰に立っていた彼の姿と、

歩き去っていくその背中だけが、

今でも、胸の奥に静かに残っている。


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