55.すれ違い
「マコ……」
朝帰りした早朝。
まだ少し空気が冷たい真琴が去った玄関で、平手打ちされた龍之介がひとり立ち尽くす。
「一体、何怒ってるんだよ……」
さすがの龍之介もこれは理解できない。彼女ならいざ知らず、同居人の男に平手打ちされるとは。
それでもキッチンに行き、全く手がつけられていないままラップされた夕飯を見て、龍之介が小さくつぶやく。
「これに怒ってんかな……」
龍之介はそれをレンジで温め、ひとり遅めの夕食を食べた。
(信じられない、信じられない!! 浮気よ、浮気っ!!!)
自室に戻った真琴は、ベッドの布団にくるまりながらひとり涙を流した。
龍之介のことが心配で一晩中寝ずに待っていた。それがあの美人のユリの所に朝までいて、シャツに口紅までつけて帰って来た。
(真琴のことが好きじゃなかったの!? そんなの絶対おかしいでしょ!!)
完全に『真琴とマコ』が混同している真琴。
衝撃的過ぎる出来事に冷静になれず、頭の処理が追い付かない。真琴と付き合っていない龍之介だから特段非もないはずなのだが、そんなところまで考えつかない。
真琴は龍之介が自室に入るのを確認してから、怒りが収まらぬまま学校へと向かった。
「真琴、どうしたの? 目が真っ赤だよ」
登校した真琴に友人の涼子が心配そうな顔で言った。
部屋でひとしきり泣いた真琴はマンションからずっと目が赤いまま。今思い出しても龍之介の浮気が許せない。
「大丈夫だよ……」
「全然大丈夫じゃないでしょ」
「うん……」
煮え切らない返事の真琴に涼子がため息をつく。
「何があったか知らないけど、私でできることがあれば教えてね」
「ありがと、涼子」
真琴はそれに無理して作った笑顔で答えた。
「ん……、もうこんな時間か……」
自分のベッドに入ってから昼前まで眠った龍之介。時計を見て少し驚く。
「昨夜はほとんど眠れなかったからな……」
欠伸をしながら、ソファーでブランケットだけ掛けそのままにしてきたユリを少し心配する。それでも立ち上がってスマホに届いていた彼女からの『昨晩はありがとう』というメッセージを見て一先ず安心した。
「マコは……、いないよな」
太陽も真上に上がったお昼前。
午前の講義をサボったいい加減な大学生とは違い、高校生である真琴がいるはずはない。
誰もいない静かな部屋。龍之介は大学へ行く準備をし真琴が作ってくれた夕飯の残りを再び温め、それを食べてからマンションを出た。
「龍之介君」
午後の講義。大きな講堂の一番後ろの席で眠そうに座っていた龍之介に、その金髪の美女が笑顔で声を掛けた。
「ユリちゃん……」
デニムのショートパンツから出た色っぽい生足。白いブラウスから少しだけ透けて見える下着。金色の美しい髪に男を魅了する可愛らしい笑顔でユリが立っている。
「隣、いい?」
「え、ああ。うん」
講義前のざわついた時間。それも大学一の美女の登場に周りの視線が否が応でもふたりに注がれる。隣に座ったユリが小声で言う。
「昨夜はありがとうね」
「ううん、こっちこそ」
眠そうな顔の龍之介。それを見ながらユリが笑いながら言う。
「眠そ~」
「眠いよ……」
そう答えた龍之介の耳元にユリが近付いて言う。
「昨晩、凄かったもんね」
「ひゃっ!?」
驚いた龍之介が飛び跳ねるように驚く。それを見て笑ったユリが言う。
「そんなに驚かなくても! 本当に凄かったんだから!!」
「ユ、ユリちゃん!」
寝不足と少しの興奮で頭が回らない。戸惑う龍之介に微笑むユリ。そんなふたりに周りに座って学生達がチラチラと視線をやる。会話を聞かれれば一体どんな想像をされるのか分からない。ユリが小悪魔のような顔になって言う。
「ねえ、龍之介君」
「な、なに……?」
「もう付き合っちゃおうか、私達……」
「え? ちょ、それは……」
再び驚く龍之介。だがユリをしっかりと見つめて答える。
「それは、できない。ごめんね……」
ユリがちょっとむっとした顔になって言う。
「その『天使様』のことをまだ想ってるの?」
「うん」
ユリがつまらなそうな顔をする。そこへ講堂に入って来た美女ふたり組がユリの所へ来て言う。
「ユリ~、こんなとこに居たの? 早く授業行くよ!」
次のユリの授業はこの講堂ではない。ユリが立ち上がりながら龍之介に言う。
「ユリは龍之介君のものだからね。ふうっ」
ユリは龍之介の耳元でそう言ってから軽く息を吹きかけた。
「わっ!? ユリちゃん!!??」
そんな龍之介を楽しむかのようにユリは小さく手を振りながら友達と去って行った。
その日の夕方。講義を終えた龍之介が眠そうな顔で大学を出る。
「ふわ~あ、眠っ……」
結局ほとんど講義の内容は頭に入って来なかった。
交際を断ったはずのユリがどんどん積極的に攻めて来る。ユリは大学ミスコングランプリ。本来ならば身に余る光栄なのだが、龍之介の心にはすでに『おさげの天使様』で埋め尽くされており彼女の入る隙は無い。
(でも最近全然会えていないよな……)
全く顔すら見ていないここ最近。長いこと会えないとやはり心配になる。
(やっぱ唯一の接点であるマコにお願いしなきゃ……)
そこまで考えた時、龍之介の頭に今朝涙を流しながら平手打ちした真琴の姿が蘇る。
(あいつ、なんであんなに怒ってたんだ? 別に朝帰ったって問題ないだろう)
確かに夕飯を作って待っていてくれたことは感謝しているし、悪いとも思っている。でもちゃんとメッセージを送ったし、その後既読になったことも確認している。
(ともあれ『天使様』と繋がっているマコに、あまりあのような姿を見られるのは良くないよな……)
寝不足の顔、朝帰り。ユリと言う言葉に口紅の痕。
頭がまだよく回らない龍之介が、色々と反省しつつ駅へと歩く。そんな彼の目に横断歩道を歩く三人の親子連れが映った。
そしてそれは起こった。
「あっ」
小さな子供を抱いていた若い母親。
その後ろには幼い女の子がついて歩いていたが、彼女が母親から腕から地面に落ちた幼子のおもちゃに気付き、渡り終えようとしていた横断歩道を駆け足で戻った。
(危ない!!!)
そこへ運悪く一台の車が走って来る。
母親は一瞬女の子の行動に気付くのが遅れ、振り返った時には車は女の子のすぐ近くまで迫っていた。龍之介の体が自然と動いた。
ドン!!!
「きゃああ!!!」
幼い女の子は突然現れた男に押され、車との衝突を免れた。
「うわーーーーーん!!!」
押されて転び泣き叫ぶ女の子。
悲鳴を上げながら子供の傍へ駆け寄る母親。
騒然となる一帯。突然起きた事故に周りの人が唖然とし、数名が駆け寄って来る。
集まってきた人達が幼い女の子の無事を見て安心する。ただそのすぐ近くでその女の子を助けた若い大学生の男だけは、目を閉じたまま何の反応もせずに倒れたまま動くことはなかった。
(また、また帰って来ないなんて……)
真琴は今朝のことを少なからず後悔していた。
ちゃんと話も聞かずマコとして罵倒し平手打ちまでしてしまった。何か理由があったのかも知れない。感情的になり過ぎたとして真琴は、今日龍之介が帰ってきたら話をして謝ろうと思っていた。
(なのに、なのにまた帰って来ないってどういうことよ!!!)
外は既に真っ暗バイトも終わっている時間なのに、連絡もなければ帰ってくる気配もない。テーブルの上には真琴が仲直りの気持ちを込めて作ったハンバーグ。『美味しい!』と言ってたくさん食べる龍之介の為に、彼の分は大きめに作ってあげた。
「なのに、なのにどうして……」
またユリのところにいるのだろうか。
妙なプライドが邪魔をしてスマホのメッセージも送っていない。ひとりで待ち続けた昨夜。誰もいないマンションで恐怖が真琴を包み込んだ。ひとりでいることが怖い。龍之介と暮らすようになって、いつしか彼の帰りを毎日楽しみにするようになっていた。
「あっ」
そこへテーブルに置かれた真琴のスマホの着信を告げる音楽が鳴った。慌ててスマホを手にして画面を見る。
「え、桃香さん?」
予想外の人物。真琴がすぐに電話に出る。
『はい、もしもし……』
『真琴ちゃん!? 今部屋にいるの?』
『はい、そうですけど……』
真琴は桃香の声を聞いて心臓が壊れるほど鼓動し始めていた。明らかに普通じゃない声。そしてその言葉を聞いて目の前が真っ白になった。
『龍之介君が車にはねられて、意識不明なの……』
涙声の桃香。
真琴は何も答えることができずにぼうっとする。彼女の時間が一瞬停止した。




