39.初めての化粧
「おーい、マコ」
朝食、パンを齧りながら龍之介がキッチンに立っていた真琴を呼ぶ。
「呼んだ?」
真琴が作り終わったサラダを持ってテーブルにやって来る。龍之介が真琴にスマホを見せながら言う。
「桃香さんがな、なんかお前に用事があるみたいで、夕方『カノン』に寄ってだって」
「桃香さんが……?」
龍之介がコーヒーカップを手に言う。
「この間、海行った時に勝手に帰っちゃったんで怒ってるとか?」
「そ、そうだよね……」
皆と一緒に遊びに行った海。勝手に先に帰ってしまった真琴だが、あれ以来会っておらずまだ謝罪できていない。龍之介がにやりとして言う。
「それともお前、もしかして狙われてるとか?」
「狙われている??」
意味が分からない真琴が聞き返す。
「そうだよ。若~い男を貪る桃香さん。お前、綺麗な顔してるから気を付けた方がいいぞ」
真琴が顔を赤くして言い返す。
「そ、そんなんじゃないです!! 違います!!」
「分かんねえだろ? いいなあ~、桃香さんに呼ばれるなんて。お前も覚えてるだろ、あの凄いビキニ!!」
龍之介の顔がだらしなく崩れる。真琴がむっとして言う。
「いやらしい!! もうサラダもソーセージもあげません!!」
真琴はそう言って持っていたソーセージとサラダを自分の前にだけ置く。龍之介が悲しそうな顔で言う。
「お、おい、マコ! これじゃあパンだけになっちゃうぞ……」
「十分です。さっさと食べて下さい」
「そんなあ……」
龍之介は悲しくパンを齧った。
カランカラン……
放課後、授業を終えた真琴がひとり『カノン』を訪れる。
「いらっしゃいませ~、あ、来た来た」
真琴の姿を見た桃香が笑顔でやって来る。
店内に入ると同時に漂うコーヒーの香ばしい香り。今日は龍之介が大学の講義があってバイトに来られず、別の従業員がコーヒーを淹れている。
仕事中のサラリーマンや主婦が笑談するテーブルを縫って桃香がやって来る。
「さ、カウンターへどうぞ」
「あ、はい」
真琴は学校帰り、そして龍之介がいないこともあり今は『女の真琴』。女子高生の服装にふたつに縛ったおさげの姿である。カウンターに座った真琴に桃香が言う。
「アイスでいい?」
「あ、はい」
桃香がアイスコーヒーを伝え、そして真琴の前に立ちその顔をじっと見て言う。
「やっぱり素材は最高だね~」
「い、いえ、そんな……」
女の真琴。恥ずかしがり屋の彼女はひとりで喫茶店に来ることだけでもどきどきなのに、桃香のような美人に褒められ倒れそうになる。真琴が言う。
「この間はその……、ごめんなさい。急に帰っちゃって……」
真琴は海で先に帰ってしまったことを謝った。桃香が言う。
「いいよ〜、全然。でも水着着てたでしょ? 満足いったのかな?」
それには無言となる真琴。桃香が少し笑って言う。
「あ、そうそう。化粧、教えて欲しいんだったよね?」
「え? あ、はい!!」
真琴が顔を上げ答える。
「今日ね、あと少しでバイト上がれるから、終わってから私の家に行く? 教えるよ」
「い、いいんですか?」
「いいよ~、バイト終わるまでちょっと待っててね」
桃香が笑顔で言う。真琴が答える。
「はい!」
真琴はそう言って差し出されたアイスコーヒーを飲み始めた。
「へえ~、真琴ちゃんはちゃんとしたお化粧ってしたことないんだ」
「はい……」
桃香のバイトが終わるのを待って一緒に帰る真琴。
普段はひとりでマンションに帰っているので誰かと帰るだけでも緊張するのだが、それが美人でスタイル抜群の桃香とあっては更に緊張する。
(ま、周りの視線がすごい……)
常に周囲に目を配って生きてきた真琴。
誰かと違わないか、おかしなところはないかと心配しながらこっそり生きて生きた彼女にとって、その対極ともいえる桃香と歩くことは緊張以外何物でない。
突き刺さるような男達の視線を感じながら下を向いて真琴が歩く。
「はい、着いたわよ。ここが私のうち」
それは『カノン』から電車で数駅、駅から少し歩いた場所にある閑静な住宅街にあった。周りの家と比べても大きな桃香の家。実は彼女、結構なお金持ちの令嬢であった。
(き、緊張する……)
真琴がその家を見て体を強張らせる。桃香が彼女の肩を叩いて言う。
「さあ、入って。そんなに驚かなくてもいいわよ!」
桃香は桃香なりに自分の家が大きいという自負があり、これまで連れてきた友達が皆驚いた反応をするのを楽しんでいた。
ただ彼女はまだ知らない。真琴の家はこの数倍も大きく、黙って固まっているのは単に初めての家に行くのが恥ずかしいだけだということを。
「し、失礼します……」
家に入り、すぐに桃香の部屋へと入る。
「か、可愛い部屋……」
家の大きさでは驚かない真琴でも、桃香のピンク一色にまとめられた部屋には心から驚いた。
ベッドのシーツからカーテンの色、そして部屋に置かれたソファーまでピンク系の色で揃えられており、部屋に置かれたぬいぐるみもピンクばかり。桃香が恥ずかしそうに言う。
「子供みたいな部屋でしょ? ママにいい加減やめろって言われてるんだけど、好きだからね~」
桃香が顔をピンク色に染めて言う。
「可愛いですよ!! すごくいい!! こんな部屋にいたら幸せになれそうです!!」
真琴は心から思ったことを口にした。桃香が嬉しそうに言う。
「ありがとね。ええっと、化粧だったよね。はい、ここに座って」
「あ、はい」
桃香は少し濃いピンクの鏡台に真琴を座らせると、鏡の周りにある明かりをつける。
「うわ……」
一瞬で鏡に映った自分の顔が明るくなる真琴。思わず声が出る。桃香が引き出しから化粧道具を取り出し言う。
「さて、じゃあ基本的なことから行くね」
可愛い鏡台に嬉しそうな顔をしたものの、すぐに真琴の顔が暗くなる。それに気付いた桃香が尋ねる。
「どうしたの?」
「あ、いえ、その……、私なんかが本当に化粧なんてしていいのかなって……」
それを聞いた桃香が真琴を後ろから優しく抱きしめて言う。
「いいに決まってるじゃん。コスメに興味を持つのは当たり前のこと。一緒に綺麗になろっ」
「は、はい!」
自信のなかった真琴に桃香の言葉が優しく心に沁みて行く。
「じゃあ、まずは化粧下地からね。真琴ちゃんはホント肌綺麗だから楽しみにしてね!」
「お願いします!!」
「どうかな……?」
化粧を初めて約1時間、一通りの化粧ができた真琴が鏡に映った自分の顔を見て感嘆の声をあげる。
「すごい、すごい、こんなに変わるんだ!!」
そこには化粧をして更に可愛くなった真琴の顔が映っていた。
明るめの化粧。性格上暗くなりがちだった真琴の顔が明るく輝いてみる。そして髪型もおさげではなく自然なストレート。見事に美しく変わった真琴を見て桃香が言う。
「素材が良いから大したことしなくてもこれだけ変わっちゃうんだね~」
「そ、そんなことないですよ……」
恥ずかしくて下を向きながらも嬉しさのあまり真琴の顔が赤くなる。
「ほんと肌とかめっちゃ綺麗でファンデほとんど使わなくてもいいレベル。すごいよ~」
「ほ、本当にそんなことないですって……」
そう言いながらも真琴は自分の顔を見てうっとりと微笑む。桃香が言う。
「じゃあ今からコスメ買いに行こうか」
「え、今から?」
驚く真琴に桃香が言う。
「今から。だって欲しいでしょ?」
「欲しいです!!」
真琴が即答する。桃香が尋ねる。
「手持ちは幾らぐらいある? 基礎的なやつなら数千円程度あればいいけど……」
真琴がカバンの中から財布を取り出しカードを手にして言う。
「現金はないんですけど、このカードとかって使えますか?」
それはいつもスーパーで使っているゴールドカード。それを見た桃香が驚く。
「え、うそ!? ゴールドカードじゃん!!」
それは一流企業、そして年収基準もあるごく一部の人しか持てない特別なカード。家族カードのようだが、それを見た桃香が驚いて言う。
「す、凄いカード持ってるんだね。そのゴールドカードって初めて見た……」
真琴がきょとんとした顔で答える。
「え、クレジットカードって金色以外のあるんですか?」
「……」
桃香はようやく目の前の女の子が、自分なんかよりずっとお嬢様のなのではないかと思うようになった。
(見られてる、見られてる、すごい見られてる……)
桃香との化粧品を買った帰り、ひとりで駅前を歩く真琴はこれまでにないような周りからの視線に体がガチガチになっていた。
桃香と歩いていた時はまだ良かったが、ひとりになった瞬間に体が強張る。化粧をして『正真正銘の美少女』となった真琴に周りの男達は皆が食い入るように見つめていた。
(こ、こんなの初めて……、怖いよ……)
初めての経験に顔を真っ赤にして下を向いて歩く真琴。足早にマンションへ戻ると急ぎエレベーターに乗り込む。
(わ、私が化粧するのってそんなにおかしいのかな……??)
自分が化粧をしたのがおかしくて注目されたと思った真琴。まさか自分の可愛さに注目を浴びていたとは夢にも思わない。
カチャ
(あれ? 空いてる……)
マンションに戻って来た真琴。ドアの鍵が開いていることに気付く。
(もしかして龍之介さん、帰ってる!?)
大学の講義で遅くなると聞いていた真琴。しかし時刻は既にその時間を過ぎており、真琴は桃香との化粧、そして買い物で随分と時間を使ってしまったことに気付く。
「あれ? マコー、帰って来たのか??」
(ええ!?)
部屋の中から龍之介の声が響く。
今の真琴は『女の真琴』。さらしも巻いていないし帽子もかぶっていない。しかも桃香と一緒に化粧した美少女の真琴。ドアを半開きにしたまま真琴が固まった。