部活の日の朝
雀が元気良く鳴いている。
どうやら、朝になったみたいだ。
「ふぁあ……」
大きな欠伸を一つ吐くと、時計を見る。
時刻は、六時半を少し過ぎた辺り。
これなら、七時半から始まる部活には十分に間に合う。
背伸びをすると、まだ身体が起ききっていない事が分かった。
もそもそと、布団の上で身体を動かしていると、下の階から大きな声が聞こえた。
「朝だぞぉ!」
声の主は姉さんだ。
大きな声を出して俺のことを起こすのは、青柳由奈の日課になっている。
相変わらず姉さんは朝が早い。
「ふぁい」
俺はまだ眠さが取れていないので、変な返事を返してしまった。
部屋着のまま階段を下り台所へ。
そこでは、高校の制服の上にエプロンをつけた姉さんが弁当箱に盛り付けているところだった。
「おはよう、由紀」
「おはよ~」
俺はその後また欠伸をする。
それも、とても大きな欠伸を。
姉さんはそんな俺を見て笑い、エプロンを外しながら言った。
「朝食は出てるからね? 私は顔洗ってくるから、なんかあったら呼んでね」
そう言って、完成した弁当をバンダナで包みこんでテーブルの上に置くと、タオルを持って洗面所へと消えた。
今日は高校で勉強会があるらしく、とても急いでいるみたいだ。
「いただきます」
俺は呟き、食べ始める。
今日のメニューはご飯(白米)、玉子焼き、おひたし、ふの味噌汁だ。
おいしいので箸が進む。
そこへ、顔を洗い終えた姉さんが戻ってきた。
「おいしい?」
姉さんは俺の食べている姿を眺めて、訊ねてきた。
「うん、おいしい」
俺は正直な気持ちを伝えた。
それを聞いて姉さんは微笑む。
そんな姉さんを見ていたら、何だか幸せな気持ちになってきた。
俺も自然と微笑んでいた。
「いけない。忘れるところだった」
突如、姉さんは思い出したかのように言う。
「由紀、水着一式はそこに置いてあるから。……そうだ、試しに水着着てみれば?」
「え、水着あったの?」
そう聞き返し、俺は箸を止めた。
女の子の競泳用水着なんて、なかったはずだが……
「由紀が倒れて寝てた時に買っておいたのよ。まあ、試しに着てみなさい」
そう言って姉さんは俺の手を取る。
あともう少しで食べ終わるとこだったのに。
名残惜しそうに朝食を眺める。
半ば姉さんに引きずられるようにして、俺はリビングの一角に連れてこられた。
そこには競泳用の水着(女の子用)、タオル、帽子、ゴーグルが置かれている。
姉さんはさっと水着を手に取ると、俺に渡す。
「着なきゃダメ?」
俺がそう訊ねると、姉さんが即答した。
「うん、ダメ」
仕方なく、着ていた部屋着を脱ぎ始める。
下着も外し、裸になると、渡された水着を着始める。
意外と着るのに苦労したが、何とか着れた。
サイズはピッタリ。
どうしてサイズが分かったのだろうと思いながらも、俺は姉さんの方を見つめた。
「ど、どうかな?」
すると、姉さんは両手で口元を覆い、一言呟いた。
「かわいい」
そう言って俺を鏡の前へ連れて行く。
鏡に映ったのは、黒と青に彩られたスイムスーツを身に纏う少女だった。
俺は自分自身に見とれた。
そして急にこそばゆくなり、制服を初めて着たとき以上に頬を赤らめ、鏡の前から退いた。
その時、顔を赤くした俺が聞いたのは、七時を知らせる時計の音。
「あ、もうこんな時間。行かなきゃ。由紀、部活がんばってね。それじゃ、行ってきます」
姉さんは俺の頭をポンと軽くたたき、台所のテーブルに乗っかっている弁当を素早く取ると、ダッシュで出て行った。
俺は「いってらっしゃい」と大声で言ったが、はたして届いたのだろうか?
水着のままでは風邪を引いてしまうので、その上から学校のジャージを着た。
テーブル上に残っていた朝食を食べ切ると、支度を始めた。
なんだか、部活へ行くのが不安になってきた。
「はぁ……」
はたして、俺はちゃんと部活の雰囲気に馴染めるのだろうか……。
荷物の確認を済ませると、俺は家の窓やらの戸締りを確認する。
「うん、大丈夫だな」
一通り確認し終えると、俺はバックを背負って玄関へと歩を進める。
玄関に到着すると、俺の目に、真新しいオレンジ色のスニーカーが綺麗に置かれているのが入ってきた。
昨日、俺が気を失っていたときに姉さんが買ってきたのだろうと思う。
しかも、紐のほうは既に通してあった。
きっと姉さんだろう。
おせっかいだと愚痴ってみたが、やってもらってそれは無いと思い、慌てて訂正。
“姉さん、ありがとう”
心の中で感謝の言葉を呟くと、靴を履き始めた。
紐が少しゆるかったので、一度解き直し、また結んだ。
サイズの方はピッタリで、履き心地がすこぶる良い。
よく足のサイズが分かったものだと感心しながら、荷物を持つと、家の鍵を探し出した。
漸くみつけた鍵を手に持ち、再度忘れ物をしていないかどうか確認し終えると、俺は一歩踏み出した。
玄関のドアの前に立つと、俺は一度家の中に顔を向けて、お決まりの言葉を口にした。
「行ってきます」
ガチャリと玄関のドアを開け放った。
朝の心地よい澄んだ空気が身に染み亘った。
「おはよ、由紀」
いきなり掛けられた声に、俺はビックリして身構えた。
しかし、前にも聞いたことのある声だと気付くと、臨戦態勢を解いた。
それほど高くはない塀の向こうに立っていたのは、ジャージ姿でバックを肩に掛け、にこやかに笑顔を湛える綾瀬だった。
「おはよう、綾瀬」
ドアの鍵をさっと閉めると、小走りに綾瀬の元へ歩み寄った。
言い忘れていたが、一応綾瀬も俺と同じ水泳部員だ。
「綾瀬、いつからここに居たんだ?」
「ん? 少し前からだけど?」
「そ、そうか……」
ひとまず安心。
もし綾瀬が長時間ここに居たのであれば、朝から俺は申し訳ないという気持ちに埋もれているところだった。
家を出発してかれこれ五分ほど。
女の子になってから、歩く早さも幾分落ちてしまった。
仕方ないか。体格差というものがあるからな。
「なあ、由紀……」
「なんだ、綾瀬」
突如、彼(ここは“彼女”とするべきか?)が何か言いたそうな顔でこっちを見てくる。
俺は言葉の続きを促した。
綾瀬はこくりと頷き、口を動かした。
「頼みたいことがあるんだ。これから俺のこと、冬奈って呼んでくれ。これから俺は綾瀬冬奈だ。頼んだぞ?」
「おう、分かった」
綾瀬が言った事を頭の中で反芻してみる。
“綾瀬冬奈か……。いい名前だな”
自分ひとりで納得するように、云々と頷いていた。
「お、おい。どうしたんだよ」
綾瀬……もとい、冬奈が俺の様子を眺め、気味悪そうに問いかけてきた。
「ん? 別に何でもないけど?」
「そ、そうか……」
「ところで、冬奈は水着とか大丈夫だったのか?」
「っ!?」
途端、冬奈が立ち止まった。
「どうした? どこか具合でも悪いか?」
冬奈から三、四歩先から声を掛けると、彼は何かブツブツと呟いていた。
その呟きが風に乗って俺の耳にも届いた。
「……冬奈って言われた。う、嬉しい…………」
…………。
ちょっと、吐き気が……。
俺は冬奈に気付かれないように、軽く嘔吐いた。
九話目です。
※2011年2月12日…内容を大幅に編集、構成を変更しました。
※2011年2月13日…10話を削除し、9話と合体させました。
※2011年10月17日…表記を改めました。