学校への電話
もう太陽が地平線の近くまで来た頃、俺は目をゆっくりと開いた。
外の様子をを見る限り、俺はかなりの時間寝ていたことになる。
目を覚ましてすぐ、なんとも形容し難い気持ちに襲われた。
これは一体、なんだろうか。
夏休みの、課題……?
いや、宿題はすべて終わっている。
何も不安になることは無いのに、腑に落ちないような感じがする。
一体なんなんだ、このモヤッと感は。
「宿題は全部終わらせたんだから、あと何があるんだ……?」
そう呟き、思案をめぐらせ始めた。
あ、思い出した。
そういえば、学校に電話をしていない。
余談だが、俺の学校では、夏休み中は毎日最低一回は学校に電話するという迷惑極まりない決まりがあった。
これはヤバイ。
しかも、女になってから一回もしていない。
そして、部活も。
俺は、水泳部に所属している。
女になる前日まで部活は休みだった。
しかし、休みも既に終わっている。
活動も、すでに始まっているだろう。
でも、行くことができない。
俺の身体は今、女の子である。
ましてや、水着もない。
この体で行っても、ただの不審者として扱われるだろう。
おそらく、そうに違いない。
「あぁ~どうしよう……」
頭を抱え、部屋の中をウロウロと当ても無く歩きまわった。
暫くすると、階段の下から姉さんの声が聞こえた。
「由紀、起きたの? 起きたなら、降りてきて夕食作るの手伝って」
声が聞こえた途端、ひらめいた。
そうだ、姉さんに相談しよう。
姉さんなら、きっといいアイデアを持っているはず。
俺は部屋から飛び出した。
リビングに入ると、香ばしいような匂いが鼻を突く。
「降りてきたね。ほら、手伝って」
いつものテーブルにくっつくようにして設置されているキッチンの向こうから、姉さんが声を掛けてきた。
見るからに忙しそうだ。
「ちょっと待って」
俺はすぐさま洗い場で手を綺麗にすると、エプロンを装着して、調理の最前線へと赴く。
「このジャガイモ、皮むいてくれない?」
「了解!」
「そしたら、ぶつ切りにしてね」
「了解!」
もう、嵐がやってきたかのように忙しい。
今日の夕飯はカレーなのだが、我が家のカレーは色々と手間を掛ける。
だからこそ、このような状態になるのだ。
「ほら、ぼさっとしてないの!」
「は~い」
ジャガイモの皮を素早く剥き、ぶつ切りにしながら返事をすると、姉さんは隣で人参、玉葱をこれまたぶつ切りにし始めた。
一通り切り終えると、調理に使う小型の鍋(?)にそれらの具材を投入する。
これまた、大変な作業で……
「あ、人参落ちた!」
「姉さん…もう少しゆっくり入れないとだめだろ?」
「それなら由紀がやりなさいよ!」
「いや、届かないし」
若干喧嘩気味なのは、御愛想。
水を適量投入し、ルーを幾つか入れた。
後は完成するまで煮込むだけだ。
それから半刻後、青柳家特製カレーが完成した。
俺と姉さんは皿を用意し、カレーをよそってテーブルに着いた。
「いただきます」
「いただきます」
夕食が始まった。
カレーを食べながら、俺はさっき部屋で思い出したことを姉さんに告げた。
すると、姉さんは少し考えるようなそぶりを見せた。
そして、「学校に電話すること」については、「かけたほうがいいよ」と。
部活のことについては、「任せなさい」と言った。
学校のことはある程度予想していたが、部活のほうは何故「任せなさい」なのか。
何をどのように任せるのか、俺は首をかしげた。
「気にしないで。そのうちに分かるから」
姉さんは意味ありげにそう言うと、残っていたカレーを頬張った。
すっきりしないが、ひとまずカレーを食べてしまおう。
あっというまに、夕食の時間は終わった。
新学期まであと僅かしかない。
そして、明日は部活に行かなくてはいけない。
気が乗らないが、何とも無いのに休むのは不審に思われてしまうだろう。
姉さんが席を立ち、カレーの入っていたお皿を手に持った。
その後姿を見ながら、思った。
ここは、姉さんに任せてみるかと。
胃袋の中に入ったカレーが静かになった頃、俺は受話器の前に居た。
もちろん、目的がある。
学校に電話をするという、重要な目的が。
だが、なかなか受話器を手に取ることが出来ないでいた。
それは、俺が今“女の子”であるということが大きく影響している。
『もし、間違い電話扱いされたらどうしよう』
そんな不安が頭をよぎる。
でも、いずれはしなくてはならないのだ。
俺は意を決し、受話器を手に取った。
潮凪中学校の電話番号を入力し、コール音がした。
「はい。潮凪中学校です」
「!?」
いきなり、担任の宮野先生が電話に出た。
先生の透き通るような声が受話器から聞こえる。
びっくりはしたけど、これで先生に代わってもらうという手間が省けた。
「もしもし、青柳です」
わざと声色を落として、女になっていることがばれないようにした。
でも、それは馬の耳に念仏だった。
「裕樹君…いや、由紀さん。電話、忘れてたでしょ?」
その瞬間、俺の頭はフリーズした。
おかしい。
絶対におかしい。
先生が知っているわけが無いのに。
どうして先生が俺の新しい名前を知っているのだろうか。
「先生、なんでその名前を知っているんですか?」
今度は声色を変えることなく、そのまま高い声でそう問いかけた。
「綾瀬君から電話がかかってきて、綾瀬君と青柳君が女の子になったこと、それと、新しい名前を教えてもらったのよ」
先生はあっさりと白状した。
そうか、あいつが先生に教えたのか。
説明する手間が省けたから、よしとしよう。
俺は胸中でそう呟いた。
しかし、俺には別の問題があった。
学校に登校する際、どうすれば良いのか。
さらに、部活にはいけるのだろうかという二つの問題だ。
「ということなんですが、先生、俺は普通に登校したり、部活動に参加することは可能なんでしょうか?」
若干声が上ずっているのは、不安な気持ちが隠しきれていないから。
先生は俺のそんな様子を察したのか、優しい口調で言った。
「大丈夫。心配しなくても良いからね。由紀さんは普通に登校も出来るし、部活にも参加できるわよ。顧問の先生にも話はつけてあるから、安心して」
俺はそれを聞いて、安堵の表情を浮かべた。
「あ、ありがとうございます」
謝礼を言うと、受話器を耳から放そうとすると、受話器の向こうから先生が「ちょっと待った!」と呼び止めてきた。
「何ですか、先生?」
改めて受話器を耳に押し当て、先生に訊ねた。
先生は一つ咳払いをして、「明日なんだけど……」と前置きをして話し始めた。
「明日、由紀さんの現状を確認するために、お宅訪問しても良いかな? 午前中は部活があると思うから、午後に行こうと思うんだけど……」
「えぇ!?」
突然の家庭訪問のお知らせは、俺を大いに驚かせた。
「先生! 何でまた家庭訪問なんか……!?」
「だから、現状を確認するためって言ったでしょ? そして、由紀さんのお宅なら細かな話し合いも出来ると思うし」
「ぐっ……」
確かに、先生の言うことには「ごもっとも」と言う以外は無い。
「というわけです。何時ごろなら大丈夫?」
「……」
もう『行く』を前提にして話をしているな。
仕方ない。長引きそうだからウチに来るということは認めよう。
「それじゃあ、午後一時からでお願いできますか?」
先生に提案すると、「一時ね? 分かりました」と嬉しそうな返事が帰ってきた。
なんだか一つ、大きな溜息を吐きたい気分だ。
先生と明日のことや女の子になってからの暮らしの概要を伝えると、受話器を置いた。
何故だろう。どっと疲れが沸いてきた。
俺は一つ欠伸を吐くと、お風呂に入るために身支度を始めた。
八話目です。
※12月22日…タイトル、後書き編集しました。
※2011年1月31日…内容を大幅に編集し、構成を変更しました。
※2011年2月14日…タイトルを変更しました。
※2011年10月17日…表記を変えました。