道の途中
翌日学校に行くと、冬奈と保坂さんが私の席にやってきた。
「もう大丈夫なんだね」
冬奈が笑顔を浮かべる。私は笑顔でそれに応えた。
「心配しました……」
保坂さんは安堵の溜息を一つ。心配されていたのだなと改めて再認識する。これからは体調のほうも気をつけないといけないなと思った。
それからも、同じクラスの女子が数人、私のところにやってくる。よく見てみれば、遠くのほうで男子の数名もこちらを見ていることに気がつく。
みんな、心配してくれたんだ。後でお礼をしなければ。
「みんな、本当にごめんなさい」
小さく呟いて、一時間目の準備をすることにした。
昨日休んだ分、授業は少し大変だった。しかし、周りのフォローがあったおかげで、なんとか乗り切ることに成功。板書ノートは、休んだ部分を冬奈や保坂さんに写させてもらい、補充完了。あまり進んでいなかったのが本当に良かったと思う。放課後になると、無事に乗り切った安堵感からか、体から力がふっと抜けた。小さな右手をぎゅっと握ろうとしても、なかなかうまくいかない。何度か挑戦していると、遠くから冬奈が近寄ってきた。
「大丈夫そう?」
心配そうな彼女の声色。私はどうってことないと笑顔を作る。
「うん、大丈夫。ありがとうね、冬奈」
すると、彼女はこくりと頷く。と同時に、忠告するように人差し指を立てた。
「それを言うのは私だけじゃなく、保坂さんにも言わないとだめだよ」
「そうだね。お礼言ってくる」
「行ってらっしゃい」
文化祭が近づく放課後の校舎内は、そこかしこから準備に追われる生徒のあせった声が聞こえてくる。そんな中、私は保坂さんのいる音楽室を目指した。
音楽室の扉がぴたりと閉じている。にもかかわらず、漏れてくる心地よい旋律は、私のクラスが歌う自由曲の伴奏。この部屋の中に、保坂さんがいるのは確実だった。もし、なにも用事がないのなら、私はここでこの音色に聞き入っていたのかもしれないけど、残念なことにそうはいかない。私は仕方なく、扉の取っ手に手をかける。
「失礼します……」
きぃ、と小さな悲鳴を上げた扉を押し開け、音楽室の中に入ると、予想通り、保坂さんがグランドピアノと対面していた。よく見ると、瞳はぱちっと閉じているものの、鍵盤の上を、まるで踊っているかのようにかわいらしい十指がゆったりと、時折せわしなく動いている。彼女は私が入ってきたことに気づいた様子もなく、美しい旋律は途絶えることがなかった。
“さすがに今声をかけるのは反則だよね……”
私は彼女の邪魔をしないように足音を忍ばせ、静かに音楽室の端っこに置かれている椅子に腰掛けた。そして、ゆっくりと目を閉じる。すると、それまで耳でしか感じられなかった音の波が、一挙に私の元へと押し寄せてくるのが分かった。曲の持つ心。それがなんなのかは私は知らない。でも、聞いていると心が温かくなって、頬を何かが伝うのを感じた。それは曲が進むにつれて勢いを増し、止まらなくなる。
「いい……」
思わず漏れた言葉。途端、音楽が止まった。
「あ、青柳さん!?」
突如として、音楽室に悲鳴のような甲高い声が広がる。反射するように瞼を開ければ、両の手を胸元で合わせ、肩で息をする保坂さんがいた。彼女は大きく深呼吸をして、荒ぶった心を落ち着かせ、少しの後に口を開いた。
「いるのなら言ってくださいよ。本当にびっくりしました……」
「ごめんなさい。凄く気持ちよさそうに弾いていたから、声を掛け辛くて」
「気になさらなくていいんですよ。……でも、次からはちゃんと声を掛けてくださいね」
困ったように笑う彼女に、わたしはこくりと頷く。そして、もう一度「ごめんね」とつぶやいた。
しばらく音楽室で彼女の演奏を聞いていたが、ここにきた目的を私はようやく思い出した。
“保坂さんにお礼を言わなくちゃ……”
「あ、あのさ」
演奏が止まり、こちらの様子を伺う保坂さん。頭の上には疑問符が浮かんでいるらしく、首を若干右に傾けている。
「今日のことなんだけど、いろいろとフォローしてもらって本当に助かったよ。だから、お礼を言いに来たんだけど、今まで忘れちゃってたんだ。……今日は本当にありがとね」
少しこそばゆいような、胸の奥がむずむずした。十月のはずなのに、音楽室の中は七月の暮れそのもののような暖かさ。背中をなにかが伝う感覚に、私は肩を震わせる。視線はさっきから言うことを聞かなくて、いろんなところを行ったり来たりしている。
「そ、そんなことないですよ。私、お礼を言われるようなこと、し、してないですよ……」
ぽつりと呟くように音をつむぐ保坂さんは、両の手をバタつかせている。頬は、今の時期特有の綺麗な夕日に負けないくらいに赤い。彼女の頭上からは、白く立ち上る湯気が、忙しなく溢れていた。
教室に戻ると、冬奈がにっこりと笑いかけてきた。親指を立ててみると、彼女もそれを同じように返してくれる。
「保坂さん、顔真っ赤だった?」
「うん。赤かったよ?」
「それなら良かった」
「え、何で?」
冬奈笑って答えない。その代わり、合唱の練習を始めよう、と私の背中を軽く叩いた。
五十四話目です。