合唱練習とポーズ
姉さんと話をしてから数日後。西日の差し込む教室で、私と保坂さんが合唱コンクールのために練習をしていた。
「青柳さん、リズムはこのくらいでいいでしょうか」
保坂さんはそういうと、前奏を様々なテンポで弾き始める。
ひとつひとつ聞いて行くうちに、次第に曲のイメージが私の中で完成し始める。
「……ん、このくらいの速さで!」
保坂さんにそう伝えると、「わかりました」と微笑む。私もつられて微笑んだ。
「そういえば、青柳さんはどうですか?」
突然、保坂さんがピアノから手を離して、私に尋ねかける。
「ん?」
私が小首を傾げると、彼女は両の手を均等に広げて指揮のポーズをとった。
私は彼女がなにを伝えようとしているかがようやく分かり、「うん、大丈夫」と答える。すると、保坂さんはそれならばと口を開いた。
「では、一度合わせてみませんか?」
急な提案だったけど、私も思っていたことなので、即了承した。
「それじゃあ、はじめるよ」
「はい。いつでも大丈夫です」
「うん、分かった。……1、2、3……」
指揮を始めて、4拍後に演奏が始まった。
私がリズムを作って、それを追いかけるように保坂さんの演奏が続いていく。この空き教室のなかに広がっていく音の世界。
誰にも邪魔をされずに、曲の持つ世界が展開されていく。
“あぁ、私、このまま融けてしまいそう……”
目を閉じながら腕を振って、同時に音を全身で聞いていると、私自身が曲と一体になったような感覚になる。
静かに進んでいくメロディー。
少し感情が出てきた。
気がつけば、主題に突入して、
名残惜しいけど、最後の主題。
長年愛した人形を捨てなければならないときのような感情に陥りながらも、私は指揮を振り終えた。
「青柳さん、今のよかったですよ!」
指揮が終わって目を開けてみると、保坂さんが珍しく興奮していた。
「そう?」
「はい、初めて合わせたはずなのに、かなりよかったですよ!」
「そっか……それはよかった」
目を閉じていたので、本当にうまくできたかは分からないけど、少なくとも、曲のテンポはぶれなかった。
それは指揮のリズムも変わらなかったということだから、自分なりには結構できたほうなのだと思う。
でも、まさか保坂さんがここまで興奮するとは思っていなかった。
「あ、青柳さん。もう一度合わせてみませんか?」
ある程度落ち着いてきたのか、保坂さんは深呼吸を一つつくと、私にそう提案してきた。私は再び即答すると、保坂さんはこくりと頷いた。
「じゃあ、いくよ?」
保坂さんに問いかけると、彼女は返事の代わりににっこりと笑った。
そうして、私は両手を顔の高さまで持ち上げて、右手を先に振る。
また、4拍おいてメロディーが始まる。
そこで気がつく。先ほどとは少し音の持つ質感が変わっていることに。
一回目は少し無機質な印象を受けたものの、今回はまるで、誰かに出し決められているかのような暖かさを含んでいた。
そのためか、展開してゆく曲の世界観は先ほどよりも鮮明になり、自分自身がこの曲の主人公のような錯覚を感じた。
“保坂さん、凄すぎるよ……”
彼女の持つすばらしい才能を切に感じながら、私は指揮を続けた。
曲も中ごろまで到達した頃だろうか。突如、この世界が二つに引き裂かれてしまった。
「たのもー!」
音の空間を破って空き教室に入ってきたのは、教室で合唱練習をしているはずの冬奈だった。
私と保坂さんはその手を止め、保坂さんは少し残念そうに楽譜を見て、私はこの気持ちのいい空間を 台無しにされたことで憤りを感じ、冬奈のことをじっと睨んだ。
さすがに冬奈は場の異様な空気を感じ取ったのか、先ほどとは比べ物にならないほどの小さな声で、ばつが悪そうに呟く。
「えーっと、なんか……ごめんなさい」
「……タイミング悪すぎだよ」
そんな冬奈の姿を見て、私の中で膨れ上がっていた感情は空気を抜かれた風船のように小さくしぼんで、後に残ったのは、彼女を哀れむ気持ちのみ。
仕方ないなと思いながら、私は口を開いた。
「冬奈、合唱練習はどうしたの?」
すると、小さくなっていた冬奈はいつもの冬奈に戻り、話し始める。
「少し抜け出してきたの。……ところで、コスプレ選手権のことなんだけどね」
「コスプレ選手権がどうかしたの?」
「うん。さっき詳しい内容の書かれた紙が渡されたから、伝えに来たの」
「……うん。続きをどうぞ」
「分かった。で、内容なんだけど、一つのグループ、持ち時間は4分ね。その中で、コスプレしながら何かをするの。その『何か』は自由だけど、そこで評価のよしあしが変わっちゃうから重要な部分なんだよね」
「そうなんだ……」
「4分間でいかにアピールできるかにかかっていますね」
先ほどまで楽譜を見ていた保坂さんがいつの間にか話しに加わった。
冬奈はその後も話を続ける。
「そうなのよ。そこで、その4分の間になにをしようか、今ここで決めようかと思うんだけど……」
「今?」
「ここでですか?」
私と保坂さんは顔を見合わせる。彼女の顔には少しためらわれるような気色が感じられた。
「そう、ここで」
そんな私たちを気にしていないかのように、冬奈は胸を張る。まるで、自分は王女様だぞと言っているかのように。
仕方なく、私と保坂さんは練習を一旦中断して、4分間の中身について話し合うことにした。
話し始めること数分。意外とすんなり内容が決まり始めていた。
まず、ステージ上に登場。その後自己紹介をして、ポーズを決めてお仕舞いという流れ。
枠組みは決まったけど、中身の意見が割れていた。
「だから、ポーズは右手を高く上げたほうがいいって!」
冬奈は右手を宙にぴんと伸ばして実演する。しかし、その姿は胸元に“S”の文字が燦然と輝く、あの世界的ヒーローのようにしか見えない。
「冬奈はいいかもしれないけど、私はいやだよ?」
「私も、少し……」
私と保坂さんが渋ると、彼女は頬を膨らませて口を開く。
「じゃあ、二人はどんなポーズがいいのさ?」
「そ、それは……」
保坂さんは視線を外し、私は黙り込んでしまう。
ポーズといわれても、そう簡単に思いつくものでもない。
どうしよう。簡単で、何かかわいらしいもの。そして、抵抗なくすんなりとできるもの。
……。よし、決めた。
「左の手のひらを見せるように頬の横へ持ってきて、ウインクするのはどうかな?」
私が言うと、冬奈はしばらく考える素振りを見せて、言った。
「それじゃあ、それにする?」
「……え、いいの?」
「うん。いいよ」
なんだかすんなり決まってしまった。
保坂さんにも説明すると、彼女も了承したので決定。このテンポのよさに、私は少し不安を抱いた。
話し合いも終わって、私と保坂さんが練習を再開しようとしたとき、冬奈が小学生のように瞳を輝かせて言った。
「ねえ、私、ここで見ててもいいかな?」
「だめ。戻って合唱の練習しなくちゃ」
「そうですよ。一人の欠落が、皆さんに迷惑をかけてしまいますからね」
冬奈の希望は私と保坂さんによって二つに分断された。しかし、彼女はそれでもその場をなかなか動こうとしない。
「でも、ちょっとくらいならいいんじゃないかな」
焦ったように言う冬奈をじれったく思い、私の声は次第に大きくなっていく。
「だめ! さあ、教室に戻って練習しないと!」
すると、冬奈も「嫌!」と駄々っ子モードに突入し、意地でも動こうとはしなかった。
着々と溜まっていくイライラ。一回目の限界を突破する刹那、空き教室の扉が勢い良く開いた。私たちはビクッと肩を震わせてそちらを見ると、そこにいたのは宮野先生だった。
「綾瀬さん、こんなところにいたの! さあ、教室に戻って歌の練習をしましょう」
先生は冬奈の手を持つと、彼女を立たせようとする。でも、冬奈はそれに従おうとしない。
「仕方ないわね……」
そう先生は呟くと、騒ぐ冬奈を引きずるようにして連行していく。その間、冬奈は私たちに助けを求めていたけど、私と保坂さんはそれを見ているだけ。
結局、二人は教室からそのまま出て行った。
扉が閉まってから、私と保坂さんは顔を見合わせて、静かに笑った。
五十一話目です。