姉さんとの二つの話
スカートが無事復活した。
皺という皺が取り除かれたそれをハンガーにかけると、私の心に“達成感”というものが湧き上がってくる。
安堵の溜息をひとつ吐くと、アイロンのコンセントを抜いた。途端、帯びていた熱が次第に冷めていく。
しばらくして、それはおさまった。
「……よし、返しにいかなくちゃ」
静かになったアイロンを慎重に持ち上げると、私は部屋の扉を開いた。
廊下はしんと静まり返っていて、まるでこの家に渡し一人しかいないような感覚に陥る。でも、階段を下りていくと、リビングからは陽気な声が聞こえてくる。
リビングの扉を開くと、姉さんが某お笑い番組を見ていた。
一瞬、私は彼女に話しかけるのがためらわれたけど、意を決して口を開いた。
「姉さん、アイロンありがと」
すると姉さんは、状態をこちらに向けて「ん」と応じる。
「いつものところに置いておいてね」
「うん、わかった」
こくりと頷き、いつもアイロンを収納している場所、リビングの隅にある収納スペースへと足を進めた。
そこには少し埃がたまっていた。……後で掃除でもしよう。
そんなことを思っていると、姉さんが私を呼んだ。
「由紀、ちょっといい?」
「なに?」
アイロンを収納すると、すぐさま姉さんの元へと急いだ。すると、「隣に座って」と言ったので、私はそれに従うようにこくりと頷くと、静かにソファに座った。
テレビでは、今話題のお笑いコンビがネタを疲労している。テレビの中はなんだかあったかそうだった。
「ところで姉さん、突然どうしたの?」
呼ばれた理由について問いかけると、姉さんはゆっくり息を吐く。そして、ひとつひとつ懸命に選んだかのように言葉を紡いだ。
「由紀……女の子になってから、来た?」
「……えっ?」
突然なにを言うのだろう。
ポカンとしていると、今度は私の耳元へ顔を近付けて、小さな声でささやいた。
「女の子になって来るものといったら、生理でしょ」
「……えっ!?」
今度は驚いた。うん、本当に。
まだ私が男だったころ、保険の授業で習ったけど、他人事だと思って聞き流していた。
今も、こうして言われるまですっかり忘れていたし。
そんな私を見て、姉さんが言葉を続ける。
「まだ来ていないのね。……でも、来たらちゃんと教えてね。多分、由紀は初めてだから驚いちゃうかもしれないからね」
私の顔をじっと見つめ、「分かった?」と囁く姉さん。吸い込まれそうな瞳に、私はこくりと首を縦に振った。
正直、生理というものがどんなものなのかは分からないけど、姉さんの話を聞いていると、心の中に恐怖が湧き上がってくる。
……できればこないでほしい。そう思った。
ところで、私はなにをしに来たのだろうと思案を巡らせ、目的のものを思い出す。
「あ、あのさ!」
重くなった空気を吹き飛ばすかのように、語調は自然と強くなる。姉さんは少し驚いた様子を見せ、そのままで口を開いた。
「どうしたの? 怒っているの?」
「……いや、怒ってはいないよ?」
姉さんの心配そうな表情に、私は出鼻を挫かれた心地がした。
……でも、話さなくては。
意を決して、私は口を開いた。
「姉さん、私……文化祭で指揮者をすることになりました!」
思い切り言い放った刹那、恥ずかしさから頬が熱を帯び始めるのを感じる。
“は、恥ずかしい……”
何で言ったのだろうと後悔の念が湧いてくる。急いでこの場から立ち去りたいと思った。でも、足が動いてくれなくて、私はその場に立ちすくんだままの状態だった。
しばしの沈黙が漂った後、ゆっくりと姉さんが口を開く。
「……そう」
それは投げやりでも、興味を抱いていないわけでもなく、何か感慨深そうに見て取れた。私がぽかんと呆けていると、姉さんは顔に笑みを湛えると「頑張ってね」と私の背中をぽんと叩いた。
私は気がつくと、視界が若干かすんでいた。
それが涙だと分かるまではさほど時間はかからなかった。
「うん……がんばる」
涙声で返すと、姉さんが右拳を私の目の前に突き出してくる。それは何かの魔法のように、頼もしくて、そして暖かさを持っているように見える。私も右拳を差し出し、姉さんの拳と触れ合わせた。
「恥をかかないようにね」
「うん」
「気負いはだめよ?」
「うん」
「どうせなら、一生の思い出にしちゃいなさい」
「うん!」
問答を繰り返しているうち、私の涙は止まっていた。
今晩から、早速指揮の練習を始めようと思った。
五十話目です。
※2011年11月12日…表記を改めました。