午前中の授業
数学の授業が始まって早二十分。
大槻先生は流れる様に黒板に数式や公式を書き込んでいる。
まだ若き学年副担任は、自身の持つユーモアさを存分に出しつつ、しっかり授業を行うと学年だけでなく、学校全体から信頼されている。
正直、彼の授業は飽きることがない。
それは、他の人も思っていることだと思う。
「それでは、ここから重要な部分になってくるので、くれぐれも寝ないようにしてくださいね?」
大槻先生はそう言うと、黒板にあるグラフを書き込み始めた。
「これは一次関数y=ax+bのグラフです。来年出てくる放物線のグラフの礎となりますので、ここ、ちゃんと押さえて置いてください」
「はい!」
やはり、面白い。
分かりやすいというのもあるかもしれない。
でも、彼は“人を教える”為に生まれたのかも。
まあ、それはないか。
この後、時間がいつもの二倍の速さで過ぎてゆくような感覚に陥った。
そして、あっという間に授業が終わってしまった。
「それでは、また次回」
それが、大槻先生の決まり文句だった。
いつも彼は、そう言って教室を去っていくのだ。
あぁ……面白かった。
「ゆ、由紀さん!」
突如、名前が呼ばれた。
私は机の上に乗っかっていた教科書の類をしまう手を止め、顔を上げた。
前髪が目元を覆い隠す。
自然な動作でそれをどかすと、そこには同じクラスの男子、小西君がガッチガチに緊張して、挙動不審になっていた。
「どしたの?」
声を掛けると、彼がビクッと反応した。
だが、シャキっとすると、おぼつかない口を何とか動かして言葉を紡いだ。
「あ、あの! 次の時間、技術なんですが…よかったら、一緒に班組みませんか!?」
あ、そうか。次の技術は工作だったんだ。
それで、彼は私にこのことを言ってきたのね。
相当緊張しているのか、全体的に、言葉に力がこもっていた。
でも、それが彼の今の気持ちを代弁しているようで、私の表情は自然とほころんだ。
「私で良ければ…いいですけど」
私の答えに、彼は一瞬目を見開き、そして飛び上がって喜んだ。
その後、彼は「それでは、先に行っていますね」と言って、スキップで教室を飛び出して行った。
「なんだかいい感じになってるんじゃない?」
突如として掛かったのは、にやりと笑う冬奈の声。
「な、なによ!?」
私が問いかけると、彼女は「別に~?」と気楽に返事をして去って行った。
一体、何をしにきたのだろう。
あ、そうだ。教科書を片付けないと。
止めていた手を再び動かし、教科書の類をしまい始めた。
片づけを終え、技術の準備が終わった頃には休み時間も終盤に差し掛かっていた。
技術室は教室からさほど離れてはいない。
でも、これはギリギリかなぁ。
技術の教科書を持って立ち上がると、少し離れた場所からも椅子から立ち上がる音が聞こえた。
ふと、そちらを見る。
すると、そこには保坂さんがいた。
私はてっきり保坂さんはもう技術室に行ってしまったのだろうと思っていたので、彼女を発見してとても驚いた。
向こうも驚いたようで、空いた右手で口元を押さえていた。
でも、こうしている時間はない。
「急ごう!」
「は、はい!」
私と保坂さんは共に教室を飛び出し、技術室に向かって廊下を疾走した。
〝キーン…コーン……〟
「はい、起立!」
何とか間に合った。
技術室に到着すると、大急ぎで自分の席に座った。
その直後、技術担当の大平先生が技術室に入ってきたのだ。
まったく、寿命が縮まっちゃうよ。
そうして、いつものように授業が始まった。
始業の挨拶を終えると、先生は早速今日の授業内容を説明し始めた。
「今日から本棚を作る。各自、材料を持って、前から立てていた計画に沿って作り始めること。材料はここにあるからな」
それだけを伝えると、大平先生は前の椅子に座った。
私は材料を取りに前に向かった。
材料を取ると、次に工具の類を手に持つ。
それらを持ち、自分の席に帰ってくると、早速作業を始めた。
まずは、前回まで立てた計画表を見直す。
そこには、立派な本棚(せいぜい五冊程度が収まるくらいの小さな本棚)が描かれている。
「上手くいけばいいけど……」
ポツリと呟き、私は板を取り出し、計画表に沿って印を付け、それをのこぎりで切り始める。
あらかた切り終えた頃、教室で話しかけてきた小西君がやって来た。
「青柳さん。隣良いですか?」
そういう彼の小脇を見てみると、綺麗に切りそろえられた材料が目に付く。
私は「どうぞ」といって、席を設けた。
彼は礼を言い、そこに腰掛け、自身も作業を開始した。
私が切った断面を鑢で削っていると、彼が突然声を掛けてきた。
「青柳さん、好きな人っているんですか?」
……いきなりそんなこと聞く!?
彼の常識はどうなっているのかと驚いたが、ひとまず「居ないけど…」って答える。
すると、彼は作業しながら、再び私に問いかけてきた。
「それじゃあ、気になっている人っていますか?」
一体何なの?
そんなに個人情報を聞きたいのだろうか。
というか、気になっている人って何だろう。
「別に、いないけど……」
当たり前でしょう。
元男なんだから、好きな人も、気になる人もいるわけないでしょう。
逆に、居たら気持ちが悪いけどね……。
「なるほど……」
小西君はそう返事をすると、それっきり黙りこんでしまった。
そのままいいから、もう話しかけないでね?
そうして、何とか授業が終わった。
技術は二時間ぶっ続けで行われたため、給食まではあと一時間だけ。
教室に戻る時、冬奈がこちらに近寄ってきた。
「何?」
私が不機嫌そうに言うと、彼女は微笑んで言った。
「何をそんなにいらっとしてんの?」
何だか冬奈が私を小ばかにしている気がする。
「別に……」
そっけなく答えても、彼女は尚も言葉を続ける。
「そんなにカリカリしてると、はげちゃうよ?」
冬奈のその言葉に、それまで煮えたぎっていた怒り感情が急速になえ始めた。
流石に、はげるのは嫌だ。
それにしても、冬奈はこういうことがとても上手だと思う。
この怒り感情を抑えられなければ、今頃私は……
「おーい、戻ってこーい」
冬奈が私を呼ぶ声が聞こえる。
「由紀~!」
「は、はい!」
思わず、畏まった返事をした。
「…ぷっ」
「……!」
直後、とんでもない羞恥心が襲ってきて、すぐさま俯いた。
教室までの道のりが非常に長く感じられ、今の姿を誰にも見られたくなかった。
「ぷくく……」
途中、冬奈の失笑が聞こえてきたりして、余計顔が赤くなるのが分かった。
そして、何とか辿り着いた教室。
自分の席に座り、顔を伏せて周りからの干渉を受けないように、自分では「近寄るなぁ…」というオーラを出しているつもりだった。
でも、そのオーラは出ていなかったようで、すぐに声が掛けられた。
「青柳さん、お客さんが来てますよ」
ゆったりと顔を上げると、そこには同じクラスの女子、夏目さんが居た。
「お客さんって?」
私がのっそりと言うと、夏目さんは教室の前のほうに視線を移す。
私も視線をそちらに移すと、そこには比良が居た。
「分かった。ありがとう」
夏目さんにそう礼を言い、私は比良の元へと歩み寄り、言った。
「今度はどうしたの?」
私がそう聞くと、比良は再び声を潜めて言った。
「体育館って何処にあるんでしょうか?」
次は体育なのか…とぼんやり考えると、簡単に場所を説明した。
「あそこに見える大きめの建物があるでしょ? あそこが体育館だよ。行き方はここに書いてあるから」
素早く紙に学校の地図を書くと、それを比良に渡した。
「態々ありがとうございました……」
比良はお礼を言うと、足早に去っていった。
次の授業開始まであと二分。
私は、比良が無事授業に間に合うことを祈りながら、席に戻った。
四十五話目です。
※2011年10月1日…文章表記を改めました。
※2011年10月17日…表記を変えました。