雨の日
翌日。
私は気持ちの良い朝を迎え…『サアァァァ……』…ていません。
朝から不機嫌。
外は大雨。これといって出かける用事は無いけど、気分が乗らず、テンションが大変なことになっていた。
「はぁ……気だるい」
こんな調子で、私は一階リビングに降りて行った。
というわけで、一階リビング。
ソファーには姉さんが動き出したばかりのゾンビみたいに凭れ掛かって…ていうか、あれ、生きてるんですかね?
「ぐえぇ……」
あっ、生きてた。
ちょっとリビングの隅に目を向けると、比良が膝を抱え込むようにして座っていた。
「眠い…眠くない…眠い…眠くない……」
あぁ、比良が壊れてる。
どうやら我が家の住人は雨の日になると、ある意味壊れてしまうみたいです。ええ。
ちなみに、私は大丈夫…なハズ。
「……由紀ぃ~近くで爆弾が爆発した後に発生する爆風でブワってなったみたいになってるよぉ?」
姉さんがゾンビ状態のままで言った。
えっ、何? ブワって。
もしかして……
私は急いで鏡のある洗面所に向かった。
飛び込むや否や、鏡の前に直行。そして、絶叫。
「なにこれぇ!!!」
私の髪の毛は、爆発していた。
「うぅ…直らない……」
リビングのソファーに身体を預けて、私は落ち込んでいた。
あれから計五回も寝癖に挑んだけれど、みな敗北。
どれだけ強いの、寝癖!
そして、六回目の寝癖直しに向かおうとした時に、ゾンビ状態から幾分回復した姉さんが「別にそのままで良いんじゃない? 今日は何処にも行かないわけだし……」と声を掛けてきたので、またソファーに座りなおしたのだった。
でも、やはり気になってしまう。
座ってからも、何度も手櫛で整えようとしたけど、それをしたせいで余計酷くなってしまった。
何だって、寝癖はできるのだろうか?
そんなに自己主張したいのなら、どこか他のところでして欲しい。
「それにしても、なかなか直らないのねぇ。その寝癖」
「姉さん、それ以上言わないで。結構気にしてるんだから」
「あら、別に良いじゃない。減るもんじゃないんだし……」
「だからといって言っていいと言うわけじゃないからね!?」
「そこまで気にしなくても良いじゃない。あまり気にしすぎると、ストレスで脱毛が始まっちゃうよ?」
「そこまで深刻に考えては無いから」
「……む? 由紀。言ってることが矛盾してるよ?」
「ぐっ……と、とにかく! 放っておいて!」
姉さんとの小競り合いに負け、私は負け犬の遠吠えみたいに言葉を吐き捨てると、リビングを後にした。
「そんなにカリカリしてると、友達居なくなっちゃうよ?」
リビングから出る間際、姉さんが私にそう言った。
「大きなお世話!」
私は怒鳴るように言うと、リビングを足早に去っていった。
「はぁ…なんでこうなるかなぁ……」
自室に戻るや否や、私の口をついて出たコトバ。
「最近、すぐイラッとしちゃうんだよね。どうすればいいのかなぁ……」
誰もいないのは分かってる。でも、自然と口が動く。
本当は、この位どうでもいいの。
でも、最近はどうでも良くないの。
気に食わないことがあると、すぐにイライラしてしまう。
ダメなのは分かってるんだよ?
でも、攻撃的な言葉を言ってしまう。
「私なんか…嫌い……」
ベットに身を預け、私は目を閉じた。
“サアァァァ……”
暫くの間、目をつぶっていた。
私はゆっくりと目を開いた。
視線を外に向けると、相変わらず雨は降っている。
多分、今日中には止まないことだろう。
空が濃い鼠色の雲に覆われてしまって、私の大好きな青い透き通るような空を隠してしまっている。
「はぁ……」
溜息を一つ。
「この溜息で、雲がどっかに飛んでいってくれればいいのに……」
叶わぬ希望をポツリと呟いて、机の近くにあった椅子に腰掛けた。
そして、お気に入りの小説を本棚から取り出すと、パラパラとページを繰り始める。
目的のページを探して、ひたすら繰って……見つけた。
私はそこに書いてある文字をゆっくり頭の中に書きとめるように目で追った。
『苦しい時、ひたすら苦しめばいい。
楽しい時、ひたすら楽しめばいい。
悲しい時、ひたすら悲しめばいい。
苛つく時、ひたすら怒ればいい。
きっと、人間誰しもそんなものだ。
苦しみ、それを乗り越える。それが人間だ。
その時、その場所で、感じ、思う。それができないものは人にあらず。
私は、そのような人にあらざる者なり。
もう、戻ることもできまい……』
「……」
何度読み返しても、深いと思う。
どうして作者はこんな文章を書いたのだろうか?
これまで十回以上考えたけど、分からず仕舞い。
姉さんに聞いたら、「私は分かったけど、教えてあげないよ? 自分で考えなさい」と笑顔で突っぱねられたっけ。
それからだ。この本を開かなくなったのは。
でも、今日こうして久しぶりにこの本を開いた。
そして、この文章を読んだ。
なんとなくだけど、分かった気がする。
ただ、それが正解だとは分からないけれど。
「私は、人じゃないのかなぁ……」
虚空を見つめ、私は呆然と椅子に座っていた。
「ご飯だよぉ!」
階段下から、姉さんの大きな声が聞こえてきた。
一体、どのくらい呆然と座り込んでいたんだろう。
お尻が痛いくらいだから、きっと一、二時間は座っていたんだろうと思った。
私は椅子から立ち上がると、お尻に走った激痛に思わず顔を顰めた。
「イタタ…。これも不用意に姉さんを怒鳴った罰かな……」
痛みが残るお尻を擦りながら、私はよろよろと歩き出した。
リビングの扉を開けると、姉さんと比良はもう既に席についていた。
「早くしなさい。冷めちゃうわよ」
姉さんは隣の開いている席を指差し、無言で「座れ」と言っていた。
迷惑を掛けるのは好きではないので、私はこくりと頷いてそそくさとその席に座った。
「さて、全員揃ったね」
姉さんが私、そして比良を見て言った。
「それじゃあ、頂きます」
「頂きます」
そして、食事が始まった。
“サアァァァ……”
相変わらず、雨が止む気配は微塵も感じられない。
今日の食事は、いつもと違って美味しくなかった。
多分、この雨の所為で家中の雰囲気が沈んでいるからだろうと私は思った。
ご飯茶碗と味噌汁の入っていたお椀を重ねて、流し台へ運び出そうとした時、ふと姉さんが口を開いた。
「由紀、さっきはごめんね。私、少しやりすぎた……」
虚空を見つめ、感情の籠もっていないのは分かりきっている。
でも、私はその言葉を聞くと、不思議と楽になった。
なんというか、心の中に溜まったもやもやが、綺麗に消えていく感じ。
多分、私はその言葉が聞きたかったんだと思った。
「うん? 別にいいよ。もう過ぎたことだし……」
もう怒りは完全に冷め切ってしまっていたので、私はぶっきらぼうにそう言った。
姉さんは「良かった」と意味ありげに微笑むと、椅子から立ち上がり、私の元へとやって来た。
どうしたんだろうと思っていると、姉さんはいきなり後ろから抱き付いてきた。
「ね、姉さん!?」
私は突然の事にびっくりする。
姉さんは、何だかいつもとは比べ物にならないほどおっとりとした調子で言った。
「由紀、大好き……」
「なっ…ちょっと姉さん! 一旦離れて! 茶碗を置きに行かないといけないんだから!」
そう言って姉さんを引き剥がそうとしても、なかなかどうして、姉さんはより一層私をギュッと抱きしめてそのまま。
「絶対離さないんだから……」
正直、かなり迷惑。
「姉さんお願い! 少しの間だけでも離れてもらえます?」
懇願するように言ったつもりだが、それでも姉さんは抱きつくのをやめない。
仕方が無いので、そのまま姉さんを引きずって流し台のところまでやってきた。
トスッと茶碗を置くと同時に、私をガシッと抱きしめていた姉さんの腕が取れる。
どうやら限界らしく、「疲れたぁ…」とさも気だるそうに呟いた。
私はそんな姉さんを避けるようにして、リビングを出る。
後ろのテレビでは、二十年くらい前に流行ったといわれる洋楽が軽快なリズムを刻んでいた。
再び部屋に戻ってくると、幾分小雨になっているのが分かった。
「早く止まないかなぁ……」
私はそんな事を思いつつ、机に向かった。
勉強するわけでもなく、ただ座りたかっただけ。
そもそも、ここが私のベストプレイス。
何でか分からないけど、この椅子に座って机とにらめっこをしていると、気持ちが和らいでくる。
何か不思議な力でもあるのだろうかと思ったけど、そんなことあるはずが無い。
私はその後十分ぐらいそこでぼんやりと過ごし、出されていた宿題を消化することにした。
それ程の量じゃないから、きっとすぐに終わるだろうと甘く見ていた。
実際、あっさりと終わった。
……ごく一部を除いて。
「な、なにこれ……」
思わず呟いた。
こんな問題があってはならない。
これは中学二年生に与えてはいけない問題だと思った。
その問題を前に、私は頭を抱えていた。
その問題というのが……
《週末課題・社会(Ⅶ)》
『1』次の問いに答えなさい。
(7)タイの首都、バンコクの正式名称を書きなさい。
「バ、バンコクじゃないの……!?」
私の中で、何かが砕け散った。
今まで私はタイの首都=バンコクというイメージを持っていた。
でも、この問題が無残にもそれを否定していった。
「一体、どうやって解けばいいの?」
ちなみに、この問題プリントは一問でも空欄があった場合、忘れたと同等の扱いをされてしまう。
それだけは、どうにかして避けたかった。
と、私に一筋の希望の光が差し込まれた。
「そうだ、パソコン!」
そう。パソコンで調べればいい話じゃないかと私は考え付いたのだった。
早速部屋に家族共用のノートパソコンを持ってきて、タイの正式名称について調べてみることに。
すると、物凄い長い名前が出てきた。
「うわっ、長!」
あまりの長さに、私は度肝を抜かれた。
でも、長いから書かないというわけには行かないので、問題プリントの大きなスペースの中にその全てを書き写した。
「この問題作った人、きっとドSなんだろうな……」
そんな事をポツリと呟き、ノートパソコンの電源を切った。
外を見ると、雨が止んでいた。
四十二話目です。
※2011年10月1日…文章表記を改めました。
※2011年10月17日…表記を変えました。