記録測定
水泳の授業が終わると、私と冬奈はすぐさま保健室へと向かった。
更衣室でも感じた違和感を確かめる為……放課後に待っているタイム測定に支障があるかどうか。
生徒用昇降口で、保坂さんには先に教室へ戻ってもらった。
そうして私と冬奈は、肩から水泳バッグを提げたままで、保健室の清楚な扉を開いた。
「失礼します」
「同じく失礼します」
私に続いて、冬奈が足を踏み入れた。
「いらっしゃい。どうしたの?」
入って右手のカーテンの先、若い女性の声が聞こえてくる。
「すいません。体育の授業で手を痛めてしまって……」
「うん。それじゃあそっちの椅子に座っていてね」
「分かりました」
事務的な会話のはずなのに、どこか温もりが溢れていた。
数年前に両親を亡くした私にとっては、どこか懐かしい心地がした。
「はい、お待たせ」
ベージュのカーテンの向こうから、若草色のエプロンをした、小奇麗な若い女性が姿を現す。それがここの主、潮凪中学校養護教諭の若草春妃先生だ。
「どれどれ、痛む手はどっちかな?」
まだ幼さの残るその顔に、非常に良く合う柔和な口調。この学校内では“天使”として有名だ。
「私は右手です」
「私は左手」
私と冬奈は、ほぼ同時に手を先生の前に差し出した。途端、先生は困ったように微笑むと、つぶやく。
「はい、順番に見てあげるから、待っていてね?」
その顔は、うっすらと微笑んでいた。
教室に戻ってくると、保坂さんが心配そうに近寄ってきた。
「青柳さんと綾瀬さん、大丈夫でしたか?」
「うん。なんとか大丈夫」
彼女に冬奈は元気そうに返事を返した。
「大丈夫だよ。心配掛けちゃって、ごめんね」
冬奈の後に続いて、私は保坂さんに頭を下げる。
「いえいえ、お二人の無事を確認したら、なんだかほっとしました」
そういうと、彼女はにっこりと微笑む。つられて、私たちも微笑んだ。
その後すぐ、清掃が始まった。
私たち三人の割り当ては教室だったので、掃き掃除を中心に教室内を掃除していった。
一箇所に集められたゴミをみて、冬奈はぽそっと呟く。
「それにしても、凄いゴミの量……」
確かに、と私は思った。なんせ、塵取り一杯のゴミは、そう簡単には出ないと思う。
塵取りをぼんやりと見つめていると、保坂さんが私に囁きかけてきた。
「これだけゴミが出ると、達成感がありますよね」
「そうだね」
二人で囁き合っていると、冬奈が寄ってきて、訝しげに言った。
「何を話していたの?」
その問いかけに、私と保坂さんは声をそろえた。
「秘密」
時間が経つのは、いつも早いと思う。
今は放課後、プールサイド。
もちろん水着に着替えている。
何故ここにいるかというと、昨日、宮城先生に言われたとおり、200mと400m個人メドレーのタイム測定を行うため。
傍らには、同じく水着姿の冬奈、そして、制服姿で裸足の保坂さんがいた。
「準備は出来ているのか?」
そんな私たちを見て、先生がストップウォッチ片手に言った。
「はい、大丈夫です」
冬奈が言う。
「いつでもいけます」
私はこくりと頷いた。
「そうか。それじゃあ、青柳から始めるから、準備してくれ」
「はい!」
私はゴーグルとキャップを装着すると、スタート台に登って準備完了の旨を伝えた。先生は了解の意志を示すと、ストップウォッチを右手に握り、スタートのコールを始める。
「位置について……」
スタート台に引っ掛けた足の指に、力を僅かに掛ける。
「よーい……」
全神経を集中させ、その時を待った。
「スタート!」
その瞬間、私の身体はスタート台から勢い良く飛び出した。
それから、400m泳ぎきるまでの記憶が無い。
気がついたら、泳ぎきっていた。
ゴールした途端、私を迎えたのは、とめどない疲労と吐き気。
少々無理をしたかな。
「おう、おつかれさん」
顔を上げると、宮城先生が笑顔で私を見下ろしていた。
「あ、ありがとうございます……」
呟きながら、なんとかプールから脱出する。
「青柳、タイムは4分49秒66だ。これなら全国も狙えるかもしれないぞ?」
そういう宮城先生の表情は驚きに包まれている。
「は、はぁ……」
微妙な返事をして、私は先生にお礼を言った。
その後、プールサイドにビート板を持ってきて、それに座り込む。
「お疲れ様です」
すると、保坂さんが近寄ってきた。
「あ、ありがとう」
疲れているものの、笑顔でそれに応じた。
「次は綾瀬さんですね」
彼女は、準備を終えてプールに飛び込む冬奈を見て言った。
「そうだね。……冬奈は背泳ぎか」
「背泳ぎって、プール内から始めるんですよね」
「うん。私はあんまり好きじゃないかな」
「そうなんですか……」
そうこうしているうちに、冬奈のタイム測定が始まった。
見ていると、凄いなぁとつくづく思ってしまう。
なんせ、その泳ぎはテレビで見る一流選手のそれと良く似ていて、一切の無駄が無いように見えた。
彼女はあっという間に100mを泳ぎきると、苦しそうに先生に尋ねていた。
「先生、た、タイムは……」
私も気になり、聞き漏らすまいと耳を済ませた。
「あぁ、凄いタイムだ。1分05秒42だ。綾瀬、お前も全国標準切っているから、全国行けるかもしれないぞ?」
「ふ、ふぁあ……」
冬奈はそれを聞いて安心したのか、プールサイドに上がるとその場に座り込み、そのまますやすやと眠ってしまった。
「……」
それを見ていた私、保坂さん、宮城先生は互いに顔を見合わせ、それぞれ溜息をついた。
「さて、青柳。200m測定するが、大丈夫か?」
「はい、いけます」
「そうか。よし、準備してくれ」
「はい!」
私は再び、ゴーグルとキャップを身につけた。
二度目のスタート台。先程と同じように準備を整えた。
「位置について……」
チラッと25m先を一瞥して、視線を戻す。
「よーい……」
軽く深呼吸。その時を待つ。
「スタート!」
先程よりも、勢い欲飛び出した。
400mの時と比べて、泳いでいるという実感があった。
今度は距離も短いため、今出せる精一杯の力を使って泳ごうと思った。
100mの中間地点。まだ。まだいける。
最後のクロール。乳酸が溜まってきているのか、身体が少し重く感じる。
そうして、200mを泳ぎきった。
「先生、タイムは……」
疲れがピークに達していて、私は身をコースロープに預けた。
先生はストップウォッチを片手に、驚愕の表情を浮かべたまま。
「青柳、お前……泳力あがったのか?」
「先生、もったいぶらないで、タイムを……」
ある程度呼吸が落ち着いてきて、心拍も正常に戻りつつあった。
「ああ、すまん。タイムだが、2分17秒61だ。400m同様、全国標準を切っているぞ」
「よ、よかった……」
「お疲れ。さぁ、プールサイドに早く上がれ」
先生は満面の笑みのまま言うけど……
「先生、プールサイドに上がれません」
私はもう疲れて、プールから上がるだけの力は残っていなかった。
「仕方ねえな……」
先生は溜息をつきながらも、私をプールから引き上げてくれた。
保坂さんは私を見て笑っていた。冬奈は相変わらず、彼女の隣ですやすや眠っていた。
二十七話目です。
※2011年9月25日…原文を元に、一から書き改めました。
※2011年10月17日…表記を変えました。




