水泳の授業
「それにしても、由紀のだけすごくない?」
一時間目が終了してから、改めてというように冬奈が机の前にやってきた。
「うん。なんか豪華だよね……」
困ったように笑って、私は溜息一つに思案顔。
「青柳さん。何を考えているんですか?」
と、そう言ってやってきたのは保坂さん。
「いや、保坂さん。次の授業がね……」
「次の授業がどうかしたんですか?」
「たしか次の授業は……保健体育だったよね?」
冬奈はクラスに張ってある時間割表を見て呟く。
「それなんだよ、問題は……」
頭を抱え込むようにして、私はそのまま机に突っ伏した。
「どうしたの? いつもの由紀じゃないよ? 保健体育って言ったらとても喜んでいるのに……」
「そうですね、不思議です」
頭上から聞こえてくる二人の声。私は彼女達が浮かべているであろう表情をぼんやりと考えた。
そんな私たちの周りでの会話。
「おい暁。次の授業は何だっけ?」
「たしか、保健体育だったぞ」
「うげぇ! 体育かよ……」
「水泳っつったかなぁ」
「水泳!? ……やる! 俺はやるぞぉ!」
「おいおい……急にテンション上がったな」
「だってそりゃあそうだろ? あの由紀さんの水着姿を拝めるんだぞ!?」
「……あっ!」
顔だけをもそっと上げると、二人は納得したように声を上げた。
ようやく分かってくれたのね。
「分かったでしょ? 私、見学しようかな……」
「でも、得意な種目でしょう? それなのに、見学したら先生に怒られちゃうんじゃない?」
「そ、そうですよ。由紀さん、私たちも泳ぎますから、一緒に泳ぎましょうよ。ね?」
二人は何とかして私をプールに入れようとしているのが手に取るように分かった。途端、心の中でぴくりとなにかがうごめき、それはすぐに私の口を突いて出た。
「でもウチのクラス、変態多いしな……」
私の一言に固まる二人。仕方ないと思う。こうしている間も、周りではいやらしい話が飛び交っているのは事実だし、カナヅチであるはずの男子数名もプールに入るなどといっているのだから、目的は簡単に察しがつく。
しかし、それを分かっていても思ってしまう。
「でも、泳ぎたいからなぁ……」
机に片肘を突き、頬に手を当てて呟いた。窓の外では、小鳥が気持ちよさそうに飛んでいた。
「泳ぎたいんなら、泳げば良いじゃん」
そんな私に、明るく冬奈は語りかけてくる。
「そうですよ。楽しめばいいんですよ」
冬奈に遅れまいと、保坂さんが続いた。
「あんな変態共は放っておいて、私たちだけで楽しめば良いじゃん」
冬奈はそう言ってグーのサインを私の目の前に掲げてみせる。
ここまでされたら、やるっきゃない。
私は口元を歪めて、席から立ち上がって言った。
「それじゃあ、泳ぎに行きますか」
所変わって、潮凪中学校屋内プール。水泳の授業はここで行われる。
「いやはや、大勢いますね……」
「本当。それにしても、ちょっと多すぎない?」
「ほとんど男子だし……」
私たち三人は、あの後すぐ支度を整えてプールにやってきた。そこで私たちを待っていたのは、濛々(もうもう)と立ち込める熱気だった。
「ねえ、急いで更衣室に行こう」
「うん、そうだね」
私たちは熱気を素早く通り抜け、平和な女子更衣室に足を踏み入れた。そこで見たものは、誰一人としていない、しーんと静まり返った寂しい空間だった。
「もしかしてだけど、私たち以外に女子っていないのかな?」
「あ、あははは……。そ、それはないとおもうよ」
「ちょっと、異常な感じですね……」
先程の熱気と正反対の空気に、私たちはそれぞれ驚いてしまった。
しかし、時計を見れば休み時間もあと僅か。
「とやかくしている場合じゃないね。さっさと着替えちゃおう」
私はそう言うと、一番手前のロッカーを開けて着替え始めた。
「あ、由紀。待ってよ!」
冬奈と保坂さんも続く。そうして、あっという間に着替えた私たち三人は、プールサイドに向かった。
その途中での出来事。
「それにしても、青柳さんと綾瀬さん。その水着カッコイイですね……」
保坂さんは、私と冬奈の着ている競泳用水着を見て呟く。
「え、そうかなぁ……」
長い髪の毛を団子状にまとめながら、冬奈が呟いた。
「そうでもないよ? 露出多いし……」
髪の毛を後ろでひとまとめに縛りながら、呟いた。
「あ、そう言われてみるとそうですね」
保坂さんはそう言って、私と冬奈の水着姿を凝視していた。
「ね、ねえ、保坂さん? は、恥ずかしいから、あ、あまり見ないでくれるかな?」
余りにも彼女がじっと見つめてくるから、恥ずかしくて身体が熱を帯び始めた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
私の思いが通じたのか、慌てて目を逸らす保坂さん。そんな二人を眺めて楽しそうに笑う冬奈。
「由紀は恥ずかしがり屋だね。……かわいい」
最後の一言が、余計だった。
「な、ななな……!?」
「冬奈さん! あまり言い過ぎると青柳さんが見学してしまいますよ!」
保坂さんが声を上げると、さすがに言い過ぎたと反省したのだろうか。冬奈は小さな声で「ごめん、由紀」と呟くと、僅かにその小さな肩をがっくりと落とした。
「あ、そろそろプールサイドですよ」
ふと、保坂さんが声を上げた。
「いよいよかぁ……」
冬奈は小さく身震いする。
「覚悟を決めて、行きますか!」
私はそのまま、プールサイドへと足を踏み入れた。
「うん。全員揃ったね?」
体育教師の梅宮先生《三年四組担任》があたりを見回して言った。……えぇ、揃っていますとも。いやらしい目的の元に集まった変態共が。
「男子は28人。女子は……3人ね。寂しいかもしれないけど、女子の三人はがんばってね?」
梅宮先生は私たちのほうを見て言った。
「あ、はぁ……」
やはりという空気が私たち三人の回りに立ち込める。
「それでは、水泳の授業を始めたいと思います。今日ははじめての授業なので、自由に泳いでください。それでは、どうぞ」
視線を全体に戻して、梅宮先生が授業開始の合図を掛けた。
所変わってプールの中。
「おい、見ろよ。由紀様と冬奈様の水着姿を!」
「うひょお! 俺、このまま死んでもいいや……」
「あぁ、俺たちの天使……」
何故だろう? 背筋がぞっとする。そして、ゆっくりと近づいてくる吐き気。
「由紀、大丈夫? 顔色悪いよ?」
同じく顔色の悪い冬奈が訊ねてくる。
「そういう冬奈こそ、顔色悪いよ?」
私は冬奈を見て言った。
「それじゃあ、お互い様って事ね?」
「うん。そうだね」
私と冬奈は互いの顔を見合わせ、少しばかり微笑む。
「あの、ちょっと良いですか?」
そこへ割り込んだのが保坂さん。彼女は少しばかり泳げるものの、25mは泳げないらしく、私と冬奈から少し離れた場所で悪戦苦闘していた。
「ああ、ごめんなさい。保坂さんは何泳ぎができるの?」
侘びを入れてから、私は彼女に尋ねる。
「えっと、クロールと平泳ぎです」
保坂さんは少し俯きながら呟いた。
「〝クロール〟と〝平泳ぎ〟かぁ……」
私の隣で腕を組み、考え込んでいるのは冬奈。彼女をどう指導して良いのか思案顔。
「それじゃあ、どのくらい泳げるのかやってみようよ」
ひとつの提案。保坂さんも冬奈も了承し、いざ、保坂さんの泳力テストが始まった。
「はぁ、はぁ……」
肩で息をする保坂さん。相当苦しそう。
「え~っと、結果は……」
冬奈は先ほどの保坂さんの泳いだ距離を確認している。
「クロールが〝21m〟で、平泳ぎが〝17m〟だね」
私は冷静にそれを伝える。
「あともう少しで25m泳げるじゃん!」
冬奈は少し興奮気味。保坂さんに対して、教え甲斐を見出したのだろうか。
「それじゃあ、練習始めようか?」
そうして、私と冬奈による保坂さん泳力アップ講座が始まった。
まず、『浮く』事から始まった。
「長時間浮くことが出来れば、きっと泳ぎも上手くなるはず……」
冬奈のそんな間違った見解から始まった。保坂さんはそれにしたがって、一生懸命〝浮いて〟いる。
「ふ、冬奈さん! ど、どのくらい浮いていればいいのでしょうか?」
「う~ん……もう少し?」
そんな二人を、私は半ばあきれるようにして眺めていた。しかし、同時に保坂さんの泳力アップのためのメニューを考えていた。
「これを組み込んで、あれを外して……」
まるで、蟻が歩くような、微かな声にもならないような声でブツブツと呟く。きっと、周りから見ればこの上なく怪しい人に見えているのだろう。
そうして、私が二人に声を掛けたのは、それからまもなくの事だった。
「ねえ、二人とも。ちょっといい?」
私の声に反応して、二人がこちらを振り返る。
「なに、由紀?」
「何でしょうか、青柳さん?」
私は二人の方へと泳いでいくと、先ほど自分が考えたプランを話し始めた。
「浮いていれば、確かに力はつくと思うの。でも、それだけじゃ泳げるようにはならないんじゃないかな。そこで、いっその事ひたすら泳がせたほうが良いんじゃないかなと思ったんだけど……。そのほうが自然と泳げるようになってくると思うし、それに、保坂さん自身も〝あ、私泳げるようになってきた!〟って実感が沸いてくるんじゃないかな?」
説明を終えて、私は相手の様子を伺うように首を左に傾ける。
「う~ん、どうしようかなぁ……。保坂さんはどうする?」
私の動作をなるべく見ないようにして、冬奈が言う。
「そうですね……。それじゃあ、冬奈さんには悪いのですが、変えても良いですか?」
バツが悪そうな表情を浮かべ、保坂さんが言った。
「あ、いいよ。大丈夫。保坂さんがいいと思ったのでいいんだからね?」
そういう冬奈は、少し悲しげな顔をしている。きっと、心の中は少し残念な気持ちなのだろう。
「それじゃ、がんばろう。ね?」
保坂さんを連れ、私と冬奈は再び指導を開始した。
「も、もう無理です……」
1コースの飛び込み台の下で、保坂さんがキツそうな表情を浮かべている。
無理もない。彼女は私が提示したプランを二十分もこなしていたのだから。
もう、体育の授業の残り時間はざっと五分くらいしかない。
「でも、一回だけ泳いでみようよ」
「そうだよ保坂さん。もう一回だけ」
私と冬奈が言った。だが、保坂さんは首を縦に振ろうとはしない。
「もう疲れました。今日はもう泳げそうにありません。……また今度でもよろしいですか?」
「う~ん……」
私は両腕を組み、考える。
「青柳さんたちには申し訳ないのですが、今日はご勘弁願います」
懇願するように言う彼女の姿に、私たちはそれ以上の泳ぎの強制はしなかった。ということで、第一回保坂さん泳力アップ講座はこれにて閉幕。
「さてと、今度は私たちが泳ぎますか」
私は25m先の飛び込み台を見つめて言った。
「そうだね。由紀、競争しない?」
冬奈が私を横目で見ながらニヤリと笑う。
「いいね、それ。それじゃあ、負けたほうに何かしらの罰ゲームってのはどう?」
「よし、決まり! 種目はクロールね。良いでしょう?」
「うん。それじゃあ、保坂さん。スタートの合図お願いね?」
あっという間に決まった競技の内容。保坂さんは突然のお願いにたじろきながらも反応する。
「えっ?…あ、はい! 了解です」
保坂さんが了解の返事をしたときには、私と冬奈はもうスタートの位置についていた。
「それじゃあ、いきます。位置について、よーい……スタート!」
保坂さんの合図を聞き、一斉に飛び出した私と冬奈。視線を瞬間的に横へ移すと、すぐ隣に冬奈がいた。
“負けるもんですか!”
再び視線を正面へ向け、私は最後まで泳ぎきった。
“ダンッ!”
勢い良く右手が壁にぶつかった。じんわりと全体に広がる痛みに、歯をかみ合わせた。
隣の冬奈も同様のようで、彼女は左腕を押さえている。
「や、やるわね……」
冬奈は目に涙を浮かべながら呟いた。
「ふ、冬奈こそ……」
声が震えていたけど、私はしっかりと言葉を伝える。
そこへ、保坂さんが近寄ってきた。
「おつかれさまです」
彼女は静かに水を掻き分けてくると、勝負の判定を行った。
「勝者は青柳さんです!」
途端、私の胸の中で嬉しさが爆発した。一方、冬奈は鼻まで水に浸かると、カニのようにブクブクとしていた。
二十六話目です。
※2010年6月28日…文章表記を一部訂正しました。
※2011年9月21日…文章表記を改めました。
※2011年10月17日…表記を変えました。