【 α嫌いのΩ 】3
如月と御堂が出会って、初めてのクリスマス。振られっぱなしの御堂と如月の、妙な距離感の不思議なイブは、もう一つ重要な意味があった。
「下心は置いてきた」と、年末は強引に神社へ連れ出して、御堂が如月からもらったものは。
「…で、結局高級店連れて行かれたの」
ビルの屋上のサンルームで、京都と二人で京都の夫が作った弁当をつまみながら、如月はため息がちに昨夜の様子を話していた。今日はよく晴れて、冬の青空が綺麗に広がっている。少し風があるようなので、ガラスの向こうは寒いのだろうが、サンルームの中は太陽の暖かさと、人工的な暖かさとでちょうど良い室温になっていた。
「個室なら行かない、って言ったら、カウンターにした、って言うし、確かに見せてもらったHPにはカウンターのみ、って書いてあったからそれならいいかな、って。少し距離があるから、タクシーで行く、って言うし。んで、行ってみたら」
「あ、私のだし巻き!」
「…ちょうだい。こっちのチキンあげる」
「好きよね、だし巻きにマヨトッピング」
「これだけで、ごはん、おかわりできる」
如月が頷く。
「貸し切りだよ?あんな高級店、移動時間の30分であっさり貸し切っちゃうって、ほんとに何者なんだろ」
「確かに、得体が知れないけど。でも、ゆっくり食べられたんでしょう?流石に、男性二人で高級店、って何かと要らない詮索されがちじゃない。特にキサ、首元にプロテクターしてないから、周りからはΩだって解らないだろうし」
「…そう言うことだったのかな」
「多少はあるんじゃないの?…で?御堂さんの本気さが伝わって、お付き合いすることにしたの」
如月が目を丸くして京都を見つめた。
「何言ってんの。ないだろ」
「は?電話とか聞いてないの?」
「プライベートでかけることないし。しつこく聞かれたけど、断った」
「…そっか」
「ごちそうさま!」
如月は満足げに箸をしまい、手を合わせた。
(まあ、…そうなっちゃうか)
弁当箱をしまう如月を見ながら、京都は心中で溜息をついた。
「笹原」
「御堂先生?」
如月の鍋騒動から2週間。
京都が仕事を終え、ビルを出ようとした所だった。
御堂に呼び止められ、京都が振り返った。
「珍しいですね。あ、キサならまだ上ですけど」
御堂は苦笑した。
「…何ですか?」
怪訝そうに京都が御堂を見上げると、
「これ、サイガの返却バッテリーだけど、フロントに渡しとけばいいの」
「わざわざ…というか、キサのことですよね」
御堂は更に苦く笑った。
「…聞きましょうか」
「いい?さすがの俺も、2週間振られっぱなしだと、心が折れそうで。あいつととことん仲が良さそうなのって、笹原くらいしか思いつかなくて」
「当たってますよ。仲がいいというか、腐れ縁というか、ですけどね」
京都が目を丸くした。この、天下無敵そうなオレ様男が、見たことがないような真っ暗なオーラを放出している。京都は少し思案すると、
「…ちょっといいですか」
「ん?」
京都が何やら電話をかけ始めると、
「先にフロントに置いてくるよ」
御堂はエレベーターのボタンを押した。
「…うん、そう。先生。…うん、じゃね」
エレベーターのドアが開く前に、京都が御堂に駆け寄って、ニッと笑った。
「今日、うちで食事しません?あとで、キサも来ますし」
「…え?」
眼を丸くした御堂に、京都が畳み掛ける。
「ハル…夫も居ますけど。夫なら、うまく取りなしてくれると思いますよ」
「あいつ、俺がいて嫌がらない?」
「御堂先生、真面目に悩んでるみたいだから」
御堂は僅かに頷いた。いつもとは違い、やや重いため息を繰り返している。
「ん。ここんとこで一番悩んでんな…」
ぷ、と京都が笑った。
「…笹原んとこ、車置ける?乗ってけよ」
「あ、いいです。私、夫以外の男性が運転する車には、一人で乗らないことにしてるの」
「…そうか、ごめん」
御堂は素直に引き下がった。
「いいえ」
京都は屈託なく笑った。
「いらっしゃい。用意できてるよ。うわあ、いい男だな」
にこにこしながら京都と一緒に玄関に出てきた、遥と紹介された京都の夫は、これといって特徴のない、穏やかそうな大柄な男性だった。一見「なぜこの派手な京都と」という思いが御堂の頭をよぎったが、
「どうぞ、上がって。狭くて悪いね、適当に靴は置いてもらって…、手はそこで洗ってね。タオルは新しいものが置いてあるから、どうぞ使って」
恐ろしく周りが見える、実は抜け目のなさそうな男であることを確信した。
「そんなに警戒しなくていいよ。これ、性分だから…。効率の悪いことや、無用な諍いは避けたいタイプなんだよ。だから、いつも喧嘩は京都の勝ち」
苦笑しながら言う遥に、
「どうかなあ。私が転がされてるんじゃない?」
京都があっさり応じた。
家は3LDKのマンションで、決して広くはないが、こざっぱりと家具もまとまっていて、清潔な印象だ。
「あ。醤油切れたんだった…」
「また?…ちょっと待ってよ、キサ、まだ間に合うでしょ」
なかなか、お似合いの夫婦だ。
笹原宅では、家事一般は遥がこなしているようだった。
遥は大学の非常勤講師かつ学習塾のオーナーで、塾に顔を出すことは多くなく、時間に融通が効くから、とのんびりと自分たちの日常を御堂に話していると、チャイムが2回鳴った。
「あ、キサ、お帰りーー」
当たり前に「お帰り」と言いながら京都が玄関へ出ていくと、
「キサ、週の半分はここにいるからね。最近なかったけど、今日みたいな週末はたいてい泊まってくんだ。でも、流石にもう寒すぎるよなあ」
遥は言いながら鍋をテーブルの上の上に置いた。
「え。何でいんの」
部屋へ入るなり、予想した通りの表情で、如月が警戒心剥き出しの状態で御堂を見た。
「みんなでご飯食べよう、って、私が誘ったの」
「京都が?何で」
「ハル特製、キサの好きな、ニラ多めのもつ鍋だよー。ほら、ビール一番に選ばせてあげるから、カリカリしないの。ね、どれがいい?」
半眼になった如月に構わず、京都が何種類かのビールを示すと、何だかんだと言いながら如月は好きな銘柄の缶を手元に置いた。
御堂が見ていると、如月と京都は職場にいる時の雰囲気とは全く違い、本当の姉弟のようだった。一歩引いてにこにこしながらやりとりを聞いている遥も、保護者のように肝心なところだけ穏やかにツッコミを入れている。
(いい家族、って感じだな)
結局、御堂がいてもそんなに特別扱いをすることなく、笑い声とともに、穏やかに鍋は減っていった。
「…もー…お腹いっぱい…お酒もいっぱい…」
もう満足、という様子でソファに倒れ込んだ如月に毛布をかけてやりながら、遥は如月の肩を軽く叩いた。
「キサ?御堂さんに、話してもいいよな?」
「んー…」
むずがる子どものように、クッションに顔を埋めた如月が唸る。焦茶の猫っ毛がサラサラと流れた。
「君の、今までのこと全部。御堂さん、キサがどうしてそんなにαに壁を作るのか聞きたいんだって。僕と京都で話してみてもいい?」
「うんー…」
「うん。違うところがあれば、ちゃんと言えよ」
ほぼ目は閉じている状態だが、如月は肯定したものだと遥は判断したようだ。
「大丈夫か?」
怪訝そうに御堂が言うとくす、と遥は頷いた。
「うん、大丈夫。これでもキサはね、ちゃんと聞いてるし、ちゃんと明日になっても覚えてるよ。さ、少し片付けてから話そうか。御堂さんは、コーヒー?紅茶?ハーブティー?」
「私、洗い物する」
「コーヒー…、ストレートがいい。ああ、テーブルの片付けは俺がするよ」
言いながら既に動き出し、テーブルの上をさっさと片していく御堂に、
「手際がいいなあ」
湯を沸かしながら、遥が目を丸くした。御堂が使っているものと同じメーカーのドリップ用のケトルだ。
「一人生活、それなりに長いから」
「そうなんだね。キサも少しは見習ってくれるといいんだけどなあ…。ちょっと甘やかされ過ぎたところがあるから」
テーブルがすっきりする頃には、コーヒーと茶菓子の用意ができていた。
「le brouillardのケーキじゃない。ハル、買いに行ったの?」
「御堂さんのお土産だよ。京都もキサも、le brouillardの大フアンだもんな」
「ありがとう、伝えとくよ。姉貴の作ったものは食べ過ぎて飽きてるから俺はいい。好きなのいくつでも食べて」
コーヒーのカップを受け取りながら御堂があっさり言うと、
「ほんとに?」
「le brouillard、俺の姉貴がパティシエやってるから」
そうか、と京都が笑った。
「これもらったら、拗ねちゃうかな、でも、これがいいな。ごめんね、キサ」
京都が素直に、フルーツのタルトを取った。店でも人気の一品だ。
目を細めてその様子を見ながら、遥が京都の前に香り高い紅茶を置き、その隣に座った。
「ハルは、どれをもらう?」
「ん、そっちのシュークリームがいいな」
「これも、おいしいんだよね。あ、限定の、キャラメルクリームのだ!」
「あ、でも半分にしようかな。僕、今日は食べすぎてるから。半分こしよう」
「うん。タルトも少し食べる?」
「美味しそうだなあ…、じゃ、ちょっとだけ。ナイフ持ってくるよ」
ごく自然なやりとりに、無意識に御堂の唇も緩んでいた。
「キサの、αへの警戒の異常さはね、ある意味、仕方がないんだよ」
遥が静かに話し始めると、京都の表情が少しだけ曇った。
「消して、変な家庭の生まれじゃないんだよ。βの両親と、出来のいいβの兄。あ、兄は大手の弁護士事務所で弁護士してるよ。父親は大手商社のまあまあの職位にあって、経済的にも裕福な家庭。ただ、母親に、男性Ωに対する偏見があってね、それがきっかけでキサは小さい頃に、父方の祖母に引き取られて、家族とは分かれて育ったんだ」
御堂の視線が、自然に如月に向いた。完全に眠っているようにしか見えない。
「京都は、そこからの幼馴染なんだよ」
何となく、御堂の中で合点がいった。
「中学の頃、まだHeatも起こしてない頃に、一度攫われて」
「…中学生で?」
「そう。Ω売買のプロ集団の一味だったのが後でわかったけど、αのフェロモンで無理やり半Heat状態にされて、訳がわからなくなったところで拉致されたらしい。ひと月ちょっとかな。ああいう組織では、Ωは完全Heatを起こす成体じゃないと、取引がしにくいそうだね。誘発剤まで乱用されたけど、キサは華奢だしね、身体がついていかなかったんだろう。当然警察沙汰で、祖母が必死になって探した結果、身体がボロボロになった瀕死の状態で救出されたんだ」
ぞ、と御堂は身体の血液が一気に床に下がっていくような感覚を覚えた。
視界に入る如月は、僅かに身じろぎ、毛布にくるまってしまった。
「キサを引き取った祖母は…聞いたことないかな、幸村みやびって言うんだけど、その昔有名な女優でね。それなりに各方面への影響力も経済力もあったから、キサの将来を懸念して、徹底的に事実を隠蔽してくれた。彼女が何をどうしたのかは全くわかっていないけど、キサが大学生の時、彼女が事故で亡くなって以降、今でもそのプレッシャーの効果で、キサの黒い過去は、一切外には漏れてない」
(幸村みやび…)
父親や母親から聞いたことがある名前だ。両親が幼かった頃に、毎年何かしらの演技賞を受賞し、テレビのCMにも引っ張りだこだった女優のはずだ。そういえば、何年か前に自動車事故で亡くなった、と言う報道を見た覚えがある。
「高校、大学とαに言い寄られることが何度もあったけど、どうも相手が悪くてね。ただΩを囲っていると箔をつけたいから番になれとか、興味本位で力ずくで体の関係だけを求めるような問題のあるやつばっかりで。幸い、その頃には祖母がキサに護衛までつけてたから、どれも未遂で済んだからよかったんだけどね。αって、たまにナルシストとか自信過剰なやつがいるけど、どうも何故かキサはそんなのに当たっちゃうんだよな。…誘発剤の後遺症とストレスでまともなHeatが起きなくなってるキサに、酷い言葉浴びせたやつもいた」
「…何て?」
御堂が低く聞く。
「…役立たず」
一瞬で御堂は、さっき下がった血が頭に逆流した気がした。
「そんな事が続いたら、誰でもおかしくなるだろう?僕たちもできる限りの援助はしてるつもりだけど、始終くっついていられるわけでもなく、もう、キサもそれなりに仕事のできる、いい大人だからね」
「…だから、α、ってだけでこんなに警戒するわけか」
「そう。αは、自分にとって害を生す生き物だと思い込んでるんだよ」
遥は、冷めてしまったコーヒーを一口飲んだ。
「俺は、真剣なんだけど」
御堂が、如月を見つめて呟いた。
「…キサを初めて見た時に、何かを感じたんだよな、多分。理由は解らないけど、勝手に目がキサを追ってた。次に会った時かな、間違いない、と思ったんだと思う。…思わず手を出してこんなことになってるけど」
御堂は小さく苦笑した。
「今まで、こんな経験したことない。勝手に視線持ってかれるとか、逃げられても嫌がられても、何とか手に入れたい、とか。…誤解がないように断っとくが、別に、力ずくで襲おうなんて一つも考えてねーから」
目の前の夫婦は、顔を見合わせた次の瞬間に、ふわりと笑った。
「泣かせないなら、協力しますけど」
京都がそっと言うと、
「泣かせるつもりなんて、全くない。…今はこっちが泣きそうだけどなー」
残ったコーヒーを飲み干し、ため息がちに御堂が呟いた。ふふ、と京都は笑い、夫を見ると遥も頷いた。
「お願いします。時間かかるだろうけど、懐柔してやって欲しいな。よかったねえ、キサ。ほら、起きて」
京都が、如月の肩を叩いた。
「…ん…」
間違いなく熟睡していただろう如月は、僅かに声を出したが、すぐにそのままもう一度眠りかけてしまった。
「キーサ!起きて!」
「…んー…」
むずがる子どものようだ。
毛布にくるまったまま、もぞもぞと如月は起き上がると寝起き特有の視線で周りを見回した。
「話、終わった?」
「終わったよ。御堂さんに、キサの携帯電話番号、教えてあげて。御堂さんとお付き合いするの、私は、賛成!」
隣にストンと座った京都が飛び跳ねた焦茶の髪を撫でてやりながら言うと、
「やだ…」
「大丈夫だから」
「やだ!」
「ほら、御堂先生の隣に座って」
「何で?」
「ほら」
すとん、と御堂の隣に座った如月は、不思議そうに御堂を見上げた。
「まだ、俺の電話聞くの?何で」
おかしな日本語だが、御堂は微笑して頷いた。
「仕事以外で、話をしたいから。電話番号、教えて欲しい」
子どもを諭すように答えてやれば、助けを求めるように如月が遥を見た。
「御堂さんはね、大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「本当よ。キサが泣くような事があったら、ハルと私が叩き潰すから」
「…おい」
「ふふ。大丈夫。キサのこと、ちゃんとわかってくれると思うよ」
じ、と如月が真っ直ぐに御堂を見つめた。
今まで見たことがないような、曇りのないその澄んだ視線は、御堂の中を見透かしていそうで、御堂は逆に気持ちが良かった。やがて、
「…うん」
こくりと如月は頷くと、コートのポケットから自分の携帯電話を取り出した。
「…御堂さんの電話かして」
このあたりは、話が早い。さっさと自分のデータを転送すると、
「御堂さんのも、もらっていい」
相手の顔も見ずに抑揚のない声で小さく如月が言ったのを聞き、笹原夫婦が顔を見合わせた。ふ、と二人が微笑む。
「入れてくれんの?」
「…知らない番号からかかってくるの、気持ち悪いだろ」
呟くように返事をすると、如月はさっさとデータ転送を済ませ、そっとスマホを御堂に返した。
「仕事中の、私用電話は受けないから」
「わかってる。こないだは悪かったって」
御堂が苦笑した。
「で、ここで、明後日のクリスマス誘いたいけど、予定ある?」
「誘われません」
「即答かよ」
「予定なんてない。けど、絶対に、行かない」
京都が呆れたように如月を小突いた。
「いいじゃない、誘われなさいよ」
「やだ。別に付き合ってる訳じゃないし」
ふい、と如月は立ち上がると、またソファに倒れ込んでしまった。
「付き合っちゃいなよ」
「も、寝る。明日、休みだから、…泊めてよ、ハルー…?」
「あんまりよくない。風邪ひくぞ?今日は冷えるし、来客用の布団が無いの、知ってるだろ」
「ふふ、大丈夫…」
す、とそのまま如月は眠りについてしまった。
「まだ、何かありそうだな」
御堂がちらりと遥を見れば。
「まあ、色々とねえ…。あとは、少しずつ本人から聞くといいよ。これでも…、ほら、珍しくこんなに穏やかな顔して」
遥のそれに、京都がそっと如月に視線をやった。
「今日は、随分といいお酒だね、キサ」
唇に柔らかな笑みを乗せ、眼を細めて如月を見つめる京都は、本当の姉のようだ。
「あ、話は変わるけど」
「?」
御堂が顔を上げた。
「遥って呼んでもいい?」
遥は穏やかに笑った。
「うん。好きに呼んでもらっていいよ?」
「じゃ、俺のことは香哉斗って呼んで。苗字で呼ばれんの、どうも違和感があって」
「私は無理ですからね」
「でも、先生はやめて欲しいんだけど」
「じゃ、御堂さん?」
「じゃあそれ」
御堂は、如月の眠るソファに近づいた。
子どものようなあどけない表情で如月は静かな寝息を立てている。
一瞬手を伸ばしそうになったが、
(ここは、我慢か…)
ここで如月が気がつきでもしたら、大変なことだと咄嗟に自分を抑えた。
「…時に、香哉斗?」
「ん?」
遥が御堂の隣に立ち、にっこりと笑った。
「車で来ただろ?」
「ああ、駅前に置いてきたけど」
うん、と遥が頷いた。
「悪いけど、やっぱり、送ってやってくれない?」
御堂が半眼で遥を見返す。
「それ、無理だろ。やっと電話番号聞いたとこなのに、俺が車で送ってったら、完全削除されるやつだぞ、それ」
そうなんだけどね、と遥は苦笑した。
「やっぱりこのままじゃ絶対に風邪引くから。キサ、喉弱いから暖房つけれないし、カーペットだと低温やけどになりそうだし」
どれも充分に考えられるパターンで、御堂が返答に一瞬迷うと、
「大丈夫。叩き起こして、ちゃんと言い含めるから。キサ、起きろ。こら!」
平素、遥は穏やかだが、こういうところもあるらしい。
「お前、暗いって」
駅前で信号待ちをしていると、ポンと肩を叩かれて、如月は飛び上がった。
「み、どうさん!も、びっくりさせないでくださいよ!」
「んな、驚くなよ。こっちが引くわ」
声をかけた本人まで、目を丸くしている。
「…と言うか、何でいつも出会うんですか。待ち合わせしてるわけでもないのに」
信号が青に変わり、待っていた人たちが一斉に歩き始めた。
今夜はクリスマスイブ。金曜日であることも手伝ってか、相当数の人が歩いている。その中でこの如月の雰囲気は、異常この上ない。
「こんな時間まで仕事かよ。飯、どーすんの」
そういう御堂も、やっと帰ったところなので他人のことは言えないのだが。
「いつも通り、コンビニごはん。…というか、疲れたし面倒だから、やっぱりこのまま帰る」
横断歩道を歩きながら、二人で今更な会話になった。
「俺も一人だけど。誘ったら、食いにいく?」
じ、と右上の御堂の顔を見上げ、
「行かない」
如月は、あっさりと断った。
「俺、何度フラれんの。…どうせ、予定ないんだろ?」
「いいんです。そんな気にならないから」
僅かに視線を伏せた如月の様子は、いつもよりもどんよりと重たい雰囲気を纏っていることに気づき、
「そうか」
御堂はそれ以上は聞かなかった。そのまま無言で歩き、御堂の自宅の前まで来ると、
「ちょっと待ってろ」
「何ですか」
「いいから」
御堂は家の中に入って行った。カタカタと何か音がして、玄関の横に置いてあるベンチで5分ほどそこで待っていると、
「悪い。寒かったな。持って帰って」
手渡されたのは、大きめの紙袋だった。
「…何ですか、これ」
「焼鳥セットと、熱燗と、おでんと、青菜のおひたしと、おにぎり。居酒屋風ディナー。温めたから、帰ってすぐ食えば大丈夫だろ。そんなに距離ないんだろ?」
「自宅の住所知ってるのに、調べてないんですか」
「アホか。んなストーカーみたいなことするかよ」
「…いいです」
如月が無表情で返そうとすると、御堂は苦笑した。
「いつも言ってるけど、下心なんてねーから。こう言う時は、ありがとう、って持って帰るの。今朝、葉月が山ほど持ってきたんだよ。気に入らないのは置いといて、助けると思って持って帰ってくれると嬉しいんだけど。…な?」
如月は、じっと御堂を見つめ、ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます。いただきます」
「ん。ついでに、マカロンが何種類か入ってるから」
まあ?「葉月が山ほど持ってきた」のは、マカロンだけだけど。
如月は、もう一度頷くと、
「あったかいうちにいただきます。ごちそうさま…。おやすみなさい」
小さく笑い、くるりと背を向けた。
「…おやすみ」
御堂が小さく応じた。
どうせこんな日でも、ろくなものを食べないんだろう、と、御堂は帰りに出会わなければ、電話をしてでも如月に夕食を渡そうと思っていた。
本当ならば、フライドチキンとケーキくらい持たせたかったところだが、先日の笹原家で如月の様子を見ていて、敢えてクリスマスを連想させないメニューにした方が良いのではないかと思い直した結果だが、どうやらそれは正解だったようだ。
「今年は、間に合わなかったなあ…」
ぼやきながら空を仰げば。
ちらり、と雪が舞って来た。
「…寒いと思ったら」
この辺りは積もることはないだろうが、それを除いてもロマンチックなクリスマスは、来年以降にお預けとなった。
髪とニットにかかった雪を払い、ダイニングへ戻って自分の食事の用意をする。
熱燗、焼鳥、おでん。と、le brouillardでは数量限定の、ブッシュドノエル。
もし、万が一一緒に食事ができたら、デザートに出そうなんて、思ってみたけれど。
「ま、これはこれで、いいな」
和風のお気に入りの角皿に、見た目よく串を盛る。
御堂が好むのは、スタンダードなももと、皮。酒を飲むときは、炭水化物は欲しくならない。
如月には、もも、ねぎま、皮、ハツを入れておいた。おでんは、大根と、こんにゃく、はんぺんに、たまごと、スペアリブ。
テレビを付けて、熱燗を飲みながら皮を一口齧ると、テーブルの上でスマホが震えた。画面を見ると、
『スペアリブって、おでんにあうんですね、ものすごくおいしい!』『ハツと鶏皮、大好き。塩、いいですね』『焼き鮭のおにぎり、って言うより、ご飯で鮭を包んである!めちゃくちゃおいしい!』
いくつか続けて如月からメッセージが入ってきた。
離れているのに、同じものを食べているなんて、と少し不思議な気分を味わいながら、
『辛子入れるの忘れたな。ある?』
『俺、辛子使わない。大根、味染みてる!』
『飲み過ぎるなよ』
『明日は休みだから、いいんです』
『ああ、そうか』
『マカロンも、いい香り』
『嘘だろ。お前、食事中に菓子食うの?』
『あれば食べる』
『ありえねーわ』
『俺、普通だけど』
ぷ、と御堂が笑った。
如月は酒が入ると機嫌が良くなるようで、今も多少酒が入ったのか、敬語でなくフレンドリーにメッセージを入れてくるのが、少し新鮮だった。
『電話してもいい?』
『嫌だ』
即答。
「そこは、固いのな…」
その後しばらくスマホは動かなかった。
またしくじったかな、と思っていると、
『ごちそうさまでした。すごく、おいしかった!』
最後に、よくわからない動物らしきキャラクターが飛び跳ねるスタンプ。
「…何だこりゃ…」
ふふ、と思わず笑い、
『どういたしまして』
送信。
すぐに既読がつき、返信は無かったが、御堂は冷めかけた酒を飲みながら、穏やかな表情でスマホを見つめていた。窓の外は、まだ雪がちらちらと舞っている。
「ひとりのクリスマスなんて、初めてだけど」
ひとりのような、そうでないような。
相手が如月なら、これはこれで悪くはないか。
別に、恋人でも何でもなく、まだ友達にすら数えられていなさそうだが。御堂は最後に、送信ボタンを押そうか迷い。ちらりと時計を見て、
「ま、いいか」
送信。
それでも、何故だか今までで一番嬉しいクリスマスイブ、な気がした。
如月はといえば、コタツに突っ伏した状態で、既に寝入っていた。
洒落た、とはお世辞にもいえない部屋の中、エアコンとコタツのおかげで、暖かさだけは保っている。時折、僅かにエアコンの音がする23:50分。
微かにスマホが振動したが、既に如月は完全に夢の中だ。
ロック画面に表示されたメッセージは、しばらく光ると、既読にならないまま、静かに光を落とした。
『誕生日、おめでとう』
業績が上がっている企業は、ギリギリまで忙しい。
特に、医療系システムとなると、休みもあってないようなもので。
家族や恋人がいる後輩たちは30日で年内の仕事はクローズさせ、後の雑務は如月が一手に請け負っていた。京都は、普段はほぼ取れていない有休の消化も兼ね、既に25日から業務命令で休みに入っている。如月にも一応命令こそ降りていたが、本人は全く頓着がない。後輩を優先的に休ませると、結局如月以外に業務を締められるものがいない。もともと生活能力のかけらもない如月としては、とにかく空腹でなければいい、くらいの感覚だ。食事の世話をしてくれる者も叱る者もいないため、如月は紅茶と大好きなチョコレートだけでここ数日を過ごしていた。
31日の夕方にもなると、流石に「とりあえず年越しは自宅で迎えたい」と何となく思っていたところ、18時の、社内の終業チャイムと同時に電話が鳴った。
「何」
そっけなく応答すれば、相手が苦笑いしたのが伝わってきた。
「相変わらず、愛想も何もねえな」
「愛想必要?」
「まあ、たまに恋しくなるけど、いらない。今のお前に愛想なんて、逆に不気味」
「だろ」
スマホをスピーカーに切り替え、デスクに置くと如月はキーボードを静かに叩き始めた。あと、数枚の書類を仕上げたら終了だ。あと1時間もあれば何とかなる。
「お前。まだ仕事してんの」
「仕方ないだろ、もう誰もいないんだから」
「何で一人でやってんだよ…。会社はもう休みだろ」
「表向きは、30日で年内クローズです」
後輩たちを先に終わらせるため、とは、如月は口が裂けても言わないだろう。
「今何時か知ってる?31日の18時だぞ」
「何の電話?雑談なら切っていい?」
「食事誘おうと思ったんだけど」
「行かない。…てか、行けないから」
若干声に棘が感じられるようになったのを察し、
「あとどれくらい?」
「長くて一時間。もういい?」
「ああ、悪かったな。お疲れ」
御堂はあっさりと電話を切った。
ひっそりとしたオフィスの中、ノートのキーボードを押す音だけが僅かに響く。
当然窓の外は真っ暗だ。喉が渇いた気もするが、電気ケトル用のミネラルウオーターは、既にペットボトルの底に少し残っている程度。防犯のため、ビル内の自動販売機は既にシャッターでロックされている。コンビニは大通りの反対側にあるが、まだそれなりに交通量があるので少し先の交差点まで行かないと渡れない。こうなると、それを買いに出るのすら面倒に感じられ、如月は小さくため息をつくとペットボトルの僅かな水を飲み干した。
「…あれ。計算が合わない…」
更に、ため息。
時々伸びをしては、一つ一つ検証する。
伸び、数字。
伸び、数字。
「イライラしたって、どうしようもない、か」
時計を見ると、18時半だ。
仕方がない。あと、1時間延長で考えよう。
と、腹を括った時。
宅配用の電話が鳴った。
「?…はい?」
『お疲れ』
いつの間にか聴き慣れた御堂の耳障りの良い低音が受話器から滑らかに聞こえて来ると、ほぼ反射的に如月の眼が半分になった。
「…何してんの」
『どうせまだ終わらないんだろ。差し入れ持ってきた。上げて』
「αお断り。切るよ」
『待て待て待て!あのな…お前の部屋ん中、録画できんだろ。そんなに信用できないなら録画しとけって。ついでに笹原へライブで送っとけ。…メニューはホワイトシチューと、サラダと、バタールな。le brouillardのガトーショコラは葉月から』
葛藤は、ほんの一瞬で。空腹の誘惑には、勝てなかった。
「…どうぞ…」
カシャ、とエレベーターのロックが外れると、御堂は受話器を置いた。
「あー…」
流石にここ数日、まともな食事をしていない如月には魅力的過ぎた。溜息をつきつつ、それでも目は数字を追っている。ほぼ無音の部屋の中で、キーボードの音すらせず、人間がモニターだけをじっと見つめている様子はかなり異様だ。
微かな足音のあと、ドアがノックされた。
「キサ?」
「…どうぞ」
リモコンでドアのロックを解除すると、相変わらず完璧な男がペーパーバッグを二つほど持って入って来た。如月のデスクを通り過ぎ、来客用のソファの前のローテーブルに、その中身を並べ始めた。
容器の蓋を開けるとふわりといい匂いが広がり、如月が思わず溜息をついた。
「ほら、あったかいうちに食っちまえ」
「だって」
「?何?」
御堂が如月の後ろから画面を覗き込む。
「これの、数字が合わなくて」
「関数で計算してるなら、入ってる数字の…ああ、ここ」
ひょい、と御堂が指した指の先を見て、別のデータを照らすと、正解だ。
「…何で?」
如月が目を丸くして立ち上がった。
「ここが違うんだろ。これとこれで消去法。とりあえず、見つけたからメシ。…ん?…ちょっと」
御堂が目を細めた。
「お前、顔色悪すぎる。…最近、まともに食ってねーだろ」
「ここんとこ、チョコと、紅茶?」
「…は?」
明らかに、御堂の目が座り、一歩如月が後ろに下がった。
「…逃げんな。いつからだ」
「25日、から…?」
「あほか!!」
「っ!!」
首根っこを掴まれた猫の状態で手洗いにつれて行かれ、そのままソファに放り込まれた。
「さっさと食え!!」
「はい…」
小さくなっていただきます、と手を合わせ、スプーンを取った。
まだ湯気が上がっている見るからに具沢山のホワイトシチューの器を手に持ち、小さく掬って口に入れると、自然に如月の表情が和らいだ。ゆっくりと噛み締める。
もうひと匙。
もうひと匙。
きれいにトーストされた、厚切りのバタールを小さく齧ると、自然に笑みが溢れた。
いつもは最後に回るサラダも、コールスローなら食べられる。
会社であることを忘れてほっこりと食事モードになり、
「おいしい」
ほわ、と幸せそうにもくもくと口を動かしながら自分を見上げる如月の表情を見た途端、御堂は完全に毒気を抜かれてしまった。
「お前…」
どうして、こんなお子さまに、自分はこんなに惹かれるのだろう。
頭にいっぱいになった小言もあっさりと白紙になってしまい、こめかみに指をやりながら、御堂は如月の正面に座ると、シチューの器をもう一つ如月の前に置いた。
「こっちも食える?」
「御堂さんのでしょ」
「いいから。食えるの食えないの?」
「食べれる」
「なら、食っちまえ」
最後のひと匙を掬い終わった器とまだ暖かいシチューが入った器を入れ替えてやる。
「ありがとう…。いただきます」
のんびりと二人分のデザートまで皿と器を綺麗にすると、
「ごちそうさまでした…」
手を合わせて如月は満足そうに食事を終えた。
時計は20:45。
「キャラメルラテもあるけど、飲む?」
「甘いやつ?」
「激甘」
「飲む」
如月仕様にキャラメルソースを相当量増量した、コーヒーはストレートで飲む御堂にとってはラテなのかキャラメルドリンクなのかわからないような飲み物が入ったほの暖かいカップを渡すと、ありがとう、と如月は素直に受け取って一口飲んだ。
「おいしい」
「…本気で?」
「何で。これにホイップとチョコソーストッピングしてあっても、全然イケる」
「何飲んでるのか解ってる?」
「キャラメルラテだろ」
「…一応、コーヒーの風味はするのな…」
恐るべし、という表情で御堂は如月を見たが、すぐに時計に視線をやった。
「腹が落ち着いたら、仕上げろよ。日付変わる前に帰るんだろ」
如月が、目を丸くした。
「あ、そうだった」
好きなもの食べると、頭の中がそれでいっぱいになっちゃうんだよな、とぶつぶつ言いながら立ち上がり、パソコンのスリープを解除すると、途端に如月のスイッチが切り替わった。チェアにかけ、キャラメルラテをデスクサイドに置くと、先ほどとは全く別人の表情で画面を静かに見つめ始めた。
ととととん、と、ととん。
キーボードを押す、独特の音が部屋に少しだけ響く。
時折、如月が小さく何かを呟いているが、何を言っているのかまでは御堂には届かない。
ととととととととん、ととん、とん。
エンターキーも文字キーも全部が同じ力加減で、耳障りの良いタッチ音がしばらく続いた。
御堂は何となくその様子を見ながら、ローテーブルの上を片付け始めた。と言っても、テイクアウト用の紙食器なので、小さく畳んで匂いが出ないように袋に入れるだけだ。一緒に持ってきた携帯用のウエットティッシュでざっとテーブルを拭き、それも袋に放り込む。
とととととととととととんとととん、ととん、と、ととん。
少しずつデスクの書類の束が減っていく。
結局、チェックまで含め、如月が終了を宣言したのは23時を少し回ったところだった。
「あ゛ーーーーーー…疲れた…」
パソコンの電源を落とし、ばったりとデスクに伸びながら、如月が低く唸った。
むくりと起き上がり、資料をまとめて引き出しにしまって鍵をかけると、
「…ま、これで、年始の佐々と京都の仕事は半分くらいにはなるか…」
小さな独り言は、背後にいた御堂の耳に届いていた。恐らく、御堂が後ろに立っている事に気がついていないだろう。
(このギャップ。…こういうところ、なんだろうな)
御堂には普段見せない表情だ。いつもよりもやけに年長に見える表情は、いつもの彼とはまるで違う。
「帰れるか?」
「へ?わ!そんなとこに…」
思った通りだ。御堂の存在すら忘れている。
「初詣?今から?」
「着く頃にはギリギリかな。駐車場から少し歩くから」
送る送らないのいつものやりとりの末、渋々如月が折れて車がスタートすると、御堂が早速提案をして来た。
「…や、いい!」
「いいだろ、行こう。そんなに遠くない」
言いながら、御堂は左折をして駐車場に入った。
「ちょ…っ!」
「下心は置いてきたから。初詣だけ。何。怖い?」
ム。
「…怖くなんてない」
「じゃ、いいだろ」
真っ直ぐにじっと瞳を覗き込まれ、今度も数秒で如月が折れた。
「わ…わかった…から!」
ぐ、と両手で御堂の顔を押し返すと、あっさりとその手首を掴まれた。
「冷たい手してんな」
御堂が眉を顰めた。
「その、整いすぎた顔で近づくなっての…」
呟くその耳は、僅かに赤い。
ちらほらと雪が舞う、大晦日の深夜。
引かれる手を振り解くのも忘れ、如月は空を見上げた。下から見上げると、雪が、放射状に落ちてくる。
「…ない」
「え?」
「きれいじゃ、ない。虫が落ちてくるみたいで気持ち悪い」
ぷ、と御堂が笑った。
「ロマンチストじゃねーなー」
「…うるっさい!」
周りにも、人が増えてきた。人に触れないように、御堂が如月を引き寄せる。彼にとってはごく自然な行動なのだろう。ふとその顔を見れば、特に表情はなく、前方を見つめている。
人は、どんどん増える。
「わ」
「ん、こっち」
何故、こんなにスマートにエスコートできるんだろう。
不思議に思うほど、御堂の行動は自然で、無駄がない。嫌味もなく、自然体で如月を人混みからうまく守ってくれている。
何、これ。
「ん。寒い?」
顔を覗き込まれ、首を振った。
「大丈夫」
「ほら、もう少し」
「…人が多すぎて、…見えない」
くす、と御堂が笑った。
「かわいいな」
「かわいくない」
「背が」
「…るさいんだよ」
くく。
ベタなやりとりをしていると、向こうでわ、と声が上がった。
「カウントダウン?」
如月が呟くと、
「今年最後か、年明け初の雷、覚悟した。ごめん。先に、謝っとくな」
「は…?」
く、と引かれた顎。
目の前に、銀色。
ふわりと香る、柑橘の。
ちゅ、と頬に、冷たい唇。
向こうで、わあ、と声が上がった。
「明けたな。おめでとう」
耳元で、甘い低音。
「何…」
ちゅ。
反対の頬に、もう一度。
くすぐったくて肩をすくめると、顎を上げていた大きな掌が背中に回り、後ろからきた参拝客から如月を離すようにそっと押した。
何が起こっているのかわからないまま、誘導されるがまま、気がつけば目の前に本堂があった。
「賽銭、ある?」
「…大丈夫…」
お札を、一枚。
そっと箱に入れ、如月は手を合わせた。
年末になってばたついた年は、あっさりと変わってしまった。12月になって突如現れ、恋人でもないのに最近常に自分の隣にいるこの男は、今まで出会ったαとはまるで違っていて、いつの間にか、この距離感が普通になりつつある。
そして、
(それが、嫌じゃないと思い始めてる自分が少し怖い)
そっと眼を開き、隣を見ると、ちょうど御堂も手をおろし、一礼したところだった。
「行くか」
「うん」
やはり、如月を周りから守るように、さりげなく引き寄せ、周りとの間に自分が体を入れる。
「ぼーっとすんな」
人混みを抜けると、御堂はあっさりとその手を離した。少しまばらになった人の間を、ゆっくりと歩く。
「ちょっと待ってて」
ふと御堂が、その場を離れた。
「?」
カップルや、夫婦、子どもを連れた保護者、友達同士。年末、大晦日だけは、こんな時間でも出歩くことが許される。雪はまだちらついている。毎年のことだが、年が明けた、という実感はいまいち感じない。
「寒…」
無意識に手を擦り合わせ、空を見上げると、そっと掌に温かいものが触れた。
「…あつ。…へ?鯛焼き…?」
「焼きたて。そっちが、カスタード、こっちが小倉。どっちがいい?」
「こっち」
「どうぞ」
思わず、如月は熱いくらいのそれを手で包み込んでいた。そう言えば、御堂は夕食を取っていないのだった。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
教科書通りの返事をすると、御堂は鯛焼きを小さく齧った。
「いいね、こういうの」
「ちょっとな」
御堂にならい、がじ、と焼きたての鯛焼きを頭から齧ると、分厚い、ふわふわした皮に、少しだけクリームがついて来た。そういえばこんなふうに屋台で買う鯛焼きは初めてで、何だかとても嬉しくなり、自分はこう言う経験が少ないのだ、と思うと、
「おいしい…」
とてもおいしく感じられ、如月は思わず呟いていた。暫く無言で口を動かしていたが、ふと
「天然鯛焼きの店、知ってる?」
御堂を見ると、御堂は不思議そうにこちらを向いた。
「一匹ずつ焼くってやつだっけ?」
御堂の表情は、如月が初めて見るもので、何だか子どものようだった。
「聞いたことはあるけど、食ったことねーな。店があるの?」
「あれも、美味しいよ…今度、一緒に、行く?」
小さな声は、周りの喧騒に掻き消されそうだったが、御堂の耳には届いていた。御堂は嬉しそうに微笑み、
「行く」
最後の一口をぽんと口に入れた。
「コーヒー欲しくなるな…」
「缶でも、いい?」
「え?」
「…自販機、あっちにあった」
如月が歩き始めると、御堂がそれを追いかけた。
人通りが増えてきた、駐車場の入り口の自動販売機。温かいブラックのコーヒーと、ミルクティーを一本ずつ。
ごとごとと音がして、缶が落ちた。
如月がそっとそれを拾い上げ、黙って手渡す。
「キサ?」
怪訝そうに自分を覗き込む、整いすぎている顔を上目遣いに見、
「今年も、よろしく」
如月は小さく年始の挨拶をした。