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水の中の少年

作者: くまいくまきち



「久しぶり」

 彼女は言った。

「久しぶり」

 私も応えた。

「少し背が伸びた?」

 彼女の声、高くて澄んだ感じがする。紗英は精緻なガラス細工、切子のグラスを連想する。そう、彼女の声はこんな声だった。ショーカットに切りそろえた髪、かわいらしい子猫を思わせる目が覗き込む。

「かわんないよ。もう十八だからね」

「でも、ほら久しぶりでしょう、会うの」

 私はうなずいた。微笑んでみせた。ひどく懐かしい感情が心の奥の方から湧き上がってくる。その感情はたちまち私の心を埋めてしまう。

彼女は手を差し出す。私たちは互いに手を取り、歩きだす。いつもそうだったように。

ここはどこだろう?

足元は白っぽいコンクリートタイル、その先にブランコやすべり台の遊具が見える。知らない場所だ。

私たちはたわいのないおしゃべりをして、ブランコに乗り、背比べをした。私の方がほんの少しだけ高かった。

 お母さんが笑っている。籐のバスケットを片腕にひっかけている。おにぎりじゃなく、頼んでおいたサンドイッチを作ってくれただろうか?彼女が好きな、ハムとチーズを挟んだサンドイッチ。私は不安になる。お父さんはいない。今日も仕事なんだ。お父さんはいつも仕事。今日ぐらいいてくれてもいいのに。お父さんのことを思い出して、私は少し不機嫌になる。でも、そんな想いを私はまるで重い荷物を降ろすように追い払った。

 だって今日は彼女がいる。

 ショートカットの髪、子猫のような目、私は彼女が本当に大好きだ。

 空を見上げる。陽の光は弱く曇っている。深い緑の山々、その向こうに海が見える。海は静かで、神秘の鏡のように灰色がかった空を映している。そう、今日はあの海で彼女と遊ぶんだ。すごく嬉しい。こころがうきうきするのを感じる。

 白い列車が見えた。そう、あの海へ行くためにはこの列車に乗らなければならない。白い車両はよく見ると細かい彫刻が施してある。なんて豪華な列車だろう。

 発車まで、時間はあまりなさそうだ。

 振り返る。お母さんがゆっくりゆっくり歩いている。このままでは乗り遅れてしまう。私はとたんに腹が立ってきた。あの人はいつもそうだ。いつも私の邪魔ばかりする。

「もう、いいかげんにしてよ。」

 私は大声で叫んでしまう。ふと、彼女が私の手をきつく握ってきた。彼女を見る。彼女は短く顔を左右に振った。「お母さんにそんなことを言ってはいけない」彼女はそう言いたいんだ。私はとっさにあることを思い出し、彼女にとても悪いことをしたと思った。

(彼女にはお母さんがいないんだ)


 目を覚まして、紗英はしばらくその夢の余韻の中にいた。ふわふわした、実体のない奇妙な幸福感が紗英を包んでる。

 ふと、紗英は我に返った。

(――あの夢だ!) 

 紗英はベッドのサイドテーブルから小さなノートを取る。それは夢日記だ。

『彼女の夢、見知らぬ公園、静かな海または湖、お母さん、白い列車』

 紗英は手早くそれらの短い言葉をノートに書き込んだ。夜、床についてからその書付を見れば朝方に見た夢を思い出すことができる。

 子どものころから寝付きがひどく悪かったが、思春期を迎えるころから不眠症となった。寝付けないまま朝を迎えてしまったりすることもよくあって、今度は眠れないことが怖くなった。精神生理性不眠症という診断だったが、わかりやすく言えば不眠恐怖症。眠れないことへの恐怖感が、精神的な緊張を作り出し眠れない悪循環となってしまう。

 一時は睡眠導入剤なども服用していたが、臨床心理士によるカウンセラーを定期的に受けることで少しずつ改善している。規則正しい生活、適度な運動、起床後必ず朝陽を浴びること、などを行っている。症状が改善したことで心の余裕が生まれたからか、紗英は臨床心理士という仕事と心理学、特にユングの夢分析に興味を持つようになった。最近は区立中央図書館に通って、心理学関係の本を読み漁っている。その中に夢日記のつけ方を記したものがあったのだ。

 夢について調べるうち、紗英は自分が不思議な夢を繰り返し見ていることに気づいた。

 いつのころからか記憶もあいまいだが、自分と同じくらいの年頃の少女が登場する。その子とは知り合いで夢の中で二人は楽しい時間を過ごす、ただそれだけだ。不思議なことは、そうした夢を何年かに一度くらいの割合で見て、その間少女は自分と同様に成長していることだった。現実には、その少女に該当する、またはイメージさせるような知り合いはいない。

 夢について学ぶようになる以前、そうした夢はみんなあることで別に珍しいこととは思わなかった。しかし、紗英はその話を母親も含めて誰にもしたことはなかった。

 ユングの夢分析について学ぶうち、夢に登場する知らない人物には深い意味があるらしいことを知る。例えばアニマとアニムスだ。男性の無意識の女性的な傾向があらわすのがアニマ、女性の無意識の男性的な傾向をあらわすのがアニムス。いずれも異性だ。アニマ、アニムスは理想の異性像でもある。ところが紗英の夢に出てくるのは明らかに女性であり、同性だ。アニムスのようには思えない。調べるうち、同性愛者の夢には同性のアニムス(アニマ)が出現することがあるという。

 ――しかし、実りはしなかったが紗英も人並みに恋愛経験はあり対象はもちろん男性だった。それともこころの深いところで実は同性に惹かれているのだろうか? また不眠恐怖症とどこかでつながっているのだろうか? いまは明らかになっていないが、幼少時に恐ろしい体験を持っているのではないだろうか?

 そうしたことを考えると、不安は募った。

(あまり深く考えないほうがいいですよ)

 不思議な夢のことを唯一相談した臨床心理士の言葉だった。同じ女性であるその臨床心理士を、紗英は尊敬し信頼していた。

 その言葉に従い、紗英は今はただ、夢を記すことだけを実行している。そしていつかそれを自分で分析してみたいと思っていた。高校三年生である今、紗英は漠然とではあるが自分の将来について考える。臨床心理士としてカウンセラーになってみたいと思っている。そのためには、今通っている私立女子高からエレベーターで進学できる女子大ではなく、心理学科がある他の大学を一般受験しなければならない。難易度はかなり高い。

 紗英はベットから起き上がると網戸を開けて、庭に出た。

 狭いながらも大きな石なんかが置いてある庭は、おじいちゃんが丹精していたものだ。庭はおじいちゃんが亡くなって荒れ放題になっている。紗英は大きく伸びをしながら、全身で朝日を吸い込むように浴びた。

 身支度をして居間へ。ちゃぶ台の上にラッブに包まれたおにぎりがある。夏休み、でも不規則な生活はできない。紗英は好きなアールグレイの紅茶をポットから淹れておにぎりを食べる。そそくさと食べ終え、紗英は居間を抜ける。その先は店舗になっている。

「あら、起きたの」

 母の智子が帳面から顔を上げた。年季の入ったガラスケースにカメラや様々な写真が収まっている。紗英の家、遠山写真館は昭和のはじめから四代続く写真屋だった。

 ちりりん、と鈴が鳴る。お店の引き戸が開く音だ。

「早くからごめんね」

 近所の酒屋のおばさんだった。もっとも今はコンビニになってしまったが。

「あら、紗英ちゃん、お手伝いかい。これ、お願いね」

 紗英はコンパクトサイズのデジカメを受け取る。デジカメの普及でフィルムを現像する仕事は無くなったが、デジカメをパソコンに繋いでプリンターから印刷することが面倒な人たちが印刷を頼んでくることが多い。もっとも、写真館の収入の多くは記念写真の撮影で、これは駅前の大型商業施設内にある出店のスタジオが主だった。父の正明はいち日の大半を出店で過ごしている。写真屋は盆暮れ祝日が忙しく、かと言って平日もなかなか休めない。紗英の記憶の中では父親はいつも不在で、家族そろっての旅行も少なかった。

 紗英はデジカメからメモリーを取り出すと、プリントシステムにセットする。印刷する写真を確認すると、ほどなくプリントされた写真が吐き出されてくる。

 おばさんは智子と世間話しをしている。話題は近所のお店の廃業のことだった。この日光御成街道沿いの赤羽西地区は古くからの商店が多い。しかし赤羽駅の再開発によって大型商業施設ができてから、かつての賑やかさは失われていった。そこへ街道の道幅の拡張工事が始まり、後継者のいないお店はこれを機に廃業することが多い。

「はい、お待たせしました」

 紗英はプリントした写真を袋に入れ、おばさんに渡した。財布からお金を出しつつ、おばさんは「遠山さんところはいい後継者がいてうらやましいわね」と言った。

「どうだか」

 母は笑いながら応える。

 紗英は一瞬どきっとしながらも、微笑みながらおばさんを見送る。紗英にはきょうだいがいない。両親とも口には出さないが、紗英が結婚してその相手とともにこの写真屋を継いでもらいたいであろうことは、想像できる。できるからこそ、臨床心理カウンセラーになりたいことを言い出せずにいる。

 午前中店番をして、午後は外出した。北区中央図書館に向かった。

 夏の日差しを受けて芝生が輝いている。その向こうに古いレンガのたたずまいが見える。芝の緑とくすんだ紗レンガ色のコントラスト、紗英はこの景色が好きだ。お昼から心理学関係の本を読み、その後大学受験のための塾の情報を集めようと思った。高校3年の夏、遅すぎるスタートだ。



「ぼくの夢を分析してくれる?」

 ユング心理学関連の本を読んでいたとき、声をかけられた。

 紗英は芝生に突き出たウッドデッキにいた。木製の大きなテーブル、暑かったがこの時間はちょうど木陰になって風が心地いい。紗英のお気に入りの場所だった。

 紗英はメガネの顔を上げる。少年がいた。紗英は、普段は掛けないが読書や勉強の時には乱視の入った近視用メガネを掛けている。

「夢分析の本でしょ、それ」

 紗英は読んでいた本の表紙を見せる。(ユング心理学入門)だ。少年は自分の持っていた本を示す。こちらは(夢判断)、紗英も読んだことがあるフロイトの著作だった。

 ふたりは互いの書名を見比べて、笑った。

 少年は紗英の向かいに座った。

「中学生?」

 紗英はどちらかといえば童顔で、年齢より下に見られることが多い。

「ううん、高三。君は?」

「五年生」

「心理学が好きなの?」

 少年ははにかむように笑って見せる。

「同じ夢を何度も見るんだ」

 紗英は息を呑んだ。思わず身を乗り出してしまう。少年は続ける。

「ほら、夢が本当になっちゃうやつ、まさ夢っていうの?」

「怖い夢なの?」

 少年はうなずく。

「聞かせて」

 少年は落ち着いた様子で話しはじめた。


ぼくは崖のてっぺんにお母さんとふたりで立っている。場所はジンボーなんとか、誰かが言ってた。目もくらむような高い崖。覗き込むとほるか下に海が見える。荒れていて、白い波が散っている。ぼくは恐ろしくてたまらない。落ちたらぜったい助からない。突然、お母さんはすごい力でぼくの腕を取る。腕が千切れるように痛い。ぼくはお母さんの顔を見上げる。「やめてよ!」って叫ぶ。でもお母さんはやめてくれない。気づくとお母さんの顔が変わっている。お母さんの顔が鬼のお面? 般若っていうの? みたいに変化している。ぼくはお母さんに突き落とされてしまうんだ。


少年は口をつぐむ。

「落ちたの?」

 紗英は訊く。少年はゆっくりうなずいた。

「いつも落ちるところで目が覚めるんだ」

 紗英はノートを取り出して、夢のポイントになりそうな単語を書き付ける。

(高い崖、ジンボーなんとかという地名、荒れた海、お母さんとふたり、強い恐怖、お母さんが般若に変わる、突き落とされるところで目が覚める)

 自分が見た夢ではないので、なるべく詳しく書いた。

 目を閉じる。自分の中で夢を再構成してみる。これまで読み漁った心理学関係本の断片的な知識を当てはめてみる。

(海は無意識の象徴と言われる。崖は何だろう、母子ふたりで何か困難なことに立ち向かおうとしていること? 般若は何の象徴? わからない。それにしても恐ろしい夢だ……)

 ふと、大事なことを忘れている気がして、考える。すぐに気づいて目を開いた。

「どうして、この夢が予知夢だと思うの?」

 少年は一瞬怪訝そうな表情を見せる。紗英は言い直した。

「予知夢は予知する夢、まさ夢のことよ」

 少年は、ああそのことか、と言うようにうなずいた。

「地名だよ、ジンボー何とかは東尋坊、福井県にあるんだ。お母さんと田舎に行くときいつも寄って、甘エビを食べるんだよ」

 明るい表情で少年は言う。「毎年お盆に行くんだ」と付け加えた。   

「今年も行くのね」

 少年はうなずく。そして微笑んで見せる。屈託の無いその表情は、少年が抱く衝撃的とも言える危惧にそぐわない印象を受ける。が、そんなことはどうでもよかった。

 夏休みに入ったばかりの7月末、お盆までは二週間ばかりだ。

 少年はこう言っているのだ。


(お盆休みの帰省の途中で、ぼくはお母さんに東尋坊の崖から突き落とされるかも知れない)

 

 しばしの沈黙が流れる。降るように蝉の鳴く音がする。紗英は、何かを言おうとするが舌が空回りするようで、言葉にならなかった。まるで、目覚める直前に見る、もどかしい夢の中のよう。

(それともこれは、夢?)

「行くよ、塾があるんだ、夏季講習」

 少年は立ち上がる。

「――ちょっと待ってよ」

 少年は脇に置いていたリュックを背負う。塾に通う小学生が背負うネーム入りのリュックだ。中学受験をするのだろう。その塾にはかつて紗英も通っていた。

「夢の解釈はどうするの」

「明日、同じ時間、この場所、いい?」

 紗英はうなずいた。

 少年は背を向ける。その背に向かって紗英は言う。

「ねえ、きみ名前は?」

 少年はウッドデッキから芝生に降りていく。

「ねえ」

「さかいそうた、お酒の酒井に、爽快の爽、太郎の太」

 少年は芝生を駆けていく。その背中を紗英は目で追っている。爽太の姿はすぐに見えなくなった。

「酒井爽太……」

 紗英は小さくその名をつぶやいてみる。こんな短い時間に、見ず知らずの自分にこんなとてつもなく重い宿題を置いて行った不思議な少年。紗英はためいきをついた。どうしたらよいか、見当も付かなかった。夢判断というより、何か事件と言うべきかも知れない。

 幸いにして、お盆まではまだ時間はある。夢だというのだから、この爽太が見たという夢について調べてみようと思った。

 調べるとしても、何を調べたらよいのか?

 紗英はうつむいた。目を閉じた。

(わかってるはず、あなたはわかってるはずよ)

 紗英は自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやいてみる。

 紗英はバックを肩に掛けて、立ち上がる。ウッドデッキから図書館の建物内に入る。図書検索端末に文字を入力する。

(児童虐待)  

 

 ――翌日。

 爽太は先に来ていて、昨日と同じ場所に腰を降ろしていた。紗英は向かいの席に座る。爽太は本を読んでいる。紗英をチラっと見やって、再び本に目を落とす。

(あんな宿題を押しつけておいて、その態度は何なの!)

 紗英は思うが、そんなことは表面には出さず、口の大きく開いたトートバックからノートを取りテーブルの上に拡げて置いた。

「フロイトより、ユングの方が好きだな」

(なんて生意気な言い方)

 と思いつつ、「その本は」と静かな口調で聞いた。爽太は本を立てて、表紙を見せた。

(ユング心理学入門)

 昨日、紗英が読んでいた本だった。

「どうしてそう思うの?」

 爽太の生意気さはさておき、紗英はその答えを知りたかった。

「フロイトは何でも理詰めで答えを見つけようとするけど、ユングは人間のこころに中には分からない不思議なことがたくさんあるって言ってる」 

 紗英は思わずうなずいてしまう。ただ本を読み漁っているだけの自分だが、まったく同じ感慨を持っていた。何でも性的なリピドーに結び付けるのは無理があると思う。一方、ユングには神話の共通性から人類に普遍な共通無意識など、スケールも大きくて共感が持てた。

「医者になるとすれば、精神科医がいいなあ」

 爽太は本を閉じる。

「爽太くんは医者になりたいの?」

「お母さんがね、医学部に行きなさいって、しかもウチは母子家庭でお

カネがないから、国公立大学の医学部を目指せって言うんだ」

 ふーん、と紗英は相づちを打つ。

「それで中学受験なのね。どの学校を目指してるの?」

 爽太が口にした学校は東大合格者数で全国屈指の名門校だった。

「大変ねえ。でもお母さんはどうして医学部にこだわるのかなあ」

 爽太の表情がくもる。目を伏せた。少しして、小さな声で言った。

「お父さんがぼくに医学部に行かせたかったんだって」

「お父さんは?」

「……離婚した。ぼくが幼稚園の年長の時に」

「お父さんとは、会ってるの?」

 爽太は首を左右に振る。

「最初は時々会ってたんだけど、お父さんの方に新しい家族ができてからは、ぜんぜん」

 暗い表情、紗英は爽太が泣き出してしまうのではないか、と思った。

 いかに生意気で、きっとアタマもいいんだろうけど、やっぱり子どもなのだ。

「それで、夢の方は?」

 爽太は急に表情を変える。屈託のない笑顔だ。   

「それがねえ、よく分からないのよ」

 虐待を受けた子どもの夢についていろいろ調べてみた。虐待そのものの情景を繰り返し見るケースが多いようだった。爽太の夢のように、何かを象徴するような夢は、あるのかもしれないけれど、調べた中では出てこなかった。

 加虐する親から引き離された子どもが、自らの体験をフラッシュバックするように夜毎に絶叫する。子どもたちは虐待から逃れた後も、その残像に怯えて暮らさなければならない。そして、虐待を受けた子どもは自分の子どもにも同じことを繰り返す傾向にある。つまり、加虐する親は自らも虐待の被害者である可能性が大きい。

 虐待は連鎖する。

 虐待を受けた子どものこころの奥底でその体験は静かにしているが、自らの子どもの誕生を期に再び叫び声を上げる。まるで時限爆弾のように。虐待はそれ自体大変な悲劇だが、世代を超えて引き継がれることにさらに大きな悲劇があるのだ、と紗英は思った。

「高い崖はお母さんとふたりで何か困難なことに立ち向かおうとしていることの象徴かな。はるか彼方に見える海は無意識、爽太くんは本当は水の中、お母さんのお腹の中の羊水にいた時のように、ただただ安心して静かに暮らして生きたいんだけど、現実はそうも行かないことをよく分かっていて、その困難に立ち向かおうと思っている」

 爽太は紗英を見つめている。真摯な表情は、驚いているようにも見えた。

 この解釈は、まったくのこじつけだった。

 紗英は爽太を見つめ返す。

「……びっくりした。当たってるよ」

 爽太は言った。

 紗英は目を逸らす。うつむいた。つぶやくように言った。

「違うの、違うのよ、問題はそんなことじゃないはず」

 紗英は顔を上げる。爽太の目を見る。

「ここは行ったことがある場所なのよ。東尋坊でこの場所にお母さんと一緒に立って怖い思いをしたことがあるんじゃないの?」

 紗英は爽太の手を握る。意を決して口を開いた。

「――爽太くん、あなた、虐待を受けてるんじゃないの?」

 紗英は爽太の手を取ったまま立ち上がる。爽太のTシャツの袖をまく

る。白い二の腕が見える。素早く爽太の背後に回る。Tシャツをまくっ

て背中を見る。

「何すんだよ!」

 爽太は小さく叫ぶ。

(無かった……) 

「ごめんなさい」

隣の席の大学生くらいの男性が、驚いたような顔つきで紗英たちを見

ている。

「痣が、虐待の痕があると思った?」

 爽太は立ち上がった。塾のリュックを背負う。

「もう行くよ」

 授業がはじまるから、と言いつつ、爽太は立ち上がる。紗英に背を向けた。

「――ちょっと待ってよ、今度はいつ」

 爽太は応えず、軽く片手を上げた。ウッドデッキから芝生に降りていく。紗英はその背中の、リュックのロゴを見ている。

 と、爽太は振り返る。

「高い崖のことは、その本にあるよ」

 そう言って爽太はまた背を向けて、芝生を駆け出して行った。紗英はその姿が見えなくなるまで見つめていた。


 午後は予定とおり赤羽や池袋の予備校を回った。

 高校三年夏からのスタートについては「ぜんぜん遅くありませんよ」とどの予備校の担当も口を揃えて言うけれど、その分追いつくためには受ける授業のコマ数も多く、また個人授業など量と質の充実が必要になるという。要はおカネ次第ということらしい。

 貯めているバイト代やお年玉なんかで払える額ではなく、やはり近々にお母さんに相談しなければならないと思った。それにしても想像より相当の金額がかかる。 

 そうしつつも、紗英の思いは爽太のことから離れなかった。

 夕方になった。

 夏の夕暮れはまだ明るい。赤羽駅東口から少し離れた雑居ビルの前のガードレールに軽く腰を掛ける。塾の看板が見える。ビルの出入り口からは、ロゴ入りリュックを背負った子どもたちが出てくる。

思いついて紗英は、爽太の通う塾で彼を待ってみることにした。塾の場所は、かつて自分も小学生のころに通っていたのでよく分かっている。出入り口からはやや離れた場所にいるので、爽太が出てきても見つかることは無いだろう。

爽太を見つけたら跡を付けるつもりでいる。自宅を突き止めたとして、その後どうするという考えもなかった。しかし、ここで何もしなければ爽太とのつながりが切れてしまう。

(もし爽太が虐待で死んでしまったり、それこそ本当に福井へ帰省途中立ち寄った東尋坊で、母親に突き落とされたり、無理心中の犠牲になったりしたら……自分だけが唯ひとり爽太の危機に気づいていたのに。私はもう、臨床心理士なんて目指す気持ちになれない)

 紗英はそう思っている。

 爽太が出てきた。紗英はガードレールに腰をおろしたまま、爽太を見送る。区立中央図書館は十条駅と王子駅の中間にある。赤羽駅の塾からはひと区間だが電車に乗って移動するはずだ。

 爽太は駅の方向へ歩いて行く。変装用(?)に百円ショップで買ったキャップを目深に被り、紗英は少し離れて駅へ向かった。

 爽太は東口から北改札を通る。同年代の少年からしても、どちらかというと小柄な方なのだろう、爽太の姿は人ごみに紛れて見え隠れする。塾のロゴ入りリュックは目立って分かりやすいのが幸いした。紗英も跡を追う。最寄駅は王子か十条だろう。左へ行けば京浜東北線、右へ行けば埼京線だ。爽太は右へ向かう。七番ホーム、埼京線で十条へ向かうのだろう。それが分かれば近づいて見つかるリスクは避けたい。紗英は十分距離を取って埼京線ホームへ向かう。

 ほどなく電車が滑り込んでくる。銀色に深緑色のライン、見慣れた車体だ。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯、電車は込み合っていた。

紗英は十条駅を思い浮かべる。埼京線新宿方面行きは十条駅二番線に入線する。改札は二箇所あって、賑やかな十条商店街は北口、ここから出るには線路をまたぐ跨線橋を通らなければならない。南口は小さな改札で二番ホームからそのまま出られる。中央図書館は南口の方が近い。

ひと駅区間なので時間は短い。電車は十条駅の見慣れたホームに到着する。降りる人は、そう多くはない。大半の人々は池袋か新宿へ向かうのだろう。

周囲を気にしながら、紗英はホームに降りた。少し前に例のリュックがある。跨線橋の階段を通り越していく。南口から出るのだ。それがわかると、紗英はゆっくり跡を追うことにした。

口改札を出ると右手に踏み切りがある。爽太は踏み切りを背にして大きな通りを歩いている。この通りをまっすぐ進むと自衛隊の駐屯地があり、その隣が中央図書館となる。

爽太はゆっくり歩いている。時刻は七時を回ったくらい。お腹がすいている時間帯だろう。紗英は自分のころを思い出す。塾の帰りはお腹がすいて、いつも急いで帰った憶えがあった。

(帰りたくないのだろうか……)

 爽太の背中を見ながら、そんなことを思う。考えはどうしても虐待の方向へ向かってしまう。

(虐待は事実なのだろうか?)

 爽太は結局否定はしなかった。しかし、証拠は何もない。

(そもそもあの東尋坊の夢は、本当に夢なのだろうか?)

 虐待を受けた児童の夢は、もっと直接的だ。爽太に指摘した通り、児際に東尋坊で怖い思いをした記憶があるのなら、まだ理解できる。さらに分からないのが、なぜをこの夢を自分の中で予知夢と決め込んでいるのか。その前提として、母親に殺されるかも知れない、という恐怖感があるのではないか。

 爽太の身体に虐待の跡はなかった。いや、本当にないのだろうか。腕や背中に跡を付けるだろうか。いや違う。爽太の聡明さからして、母親も頭がいい人に違いない。離婚して、息子とともに超難関私立中学を目指し、決して安くはない塾代を捻出している。爽太の身なり服装もきちんとしていた。

 殴るとすると、お尻ではないか。紗英は思う。しかし、それを確かめるすべはない。

(まさか爽太をトイレに連れ込んでパンツを脱がせるか? それ自体がまさに性的虐待になってしまう)

 また、虐待は暴力だけとも限らない。言葉による虐待も子どものこころに深い傷を残すのだ。

 自衛隊駐屯地の大きな門が見えてきた。陽はすっかり落ちているが、空には余韻のようなわずかな明るさがある。門はくすんだレンガ色をしている。もともとこの地に旧陸軍の施設あって、この地域のレンガはその時代の遺構だと聞いたことがあった。レンガ造りの中央図書館と同じ時代を生きてきたのだ。

 その門の向かいに白いマンションがあった。爽太はそのマンションの裏側へ入っていく。紗英は足を止めた。

 爽太はマンションの中へ入ったようだ。

 向かいの自衛隊駐屯地の隣が中央図書館のある芝生の公園だ。歩いて五分もかからない。

(何だ、こんな近くだったんだ)

 紗英はマンションを見上げる。数えていくと十階建てだ。マンション名を確認する。一応部屋番号までを確かめておこうと思った。

(どうやって?)

 やはり一階の端から確認して行くしかなかった。

 紗英はドア横のネームプレートを確認しながら、マンションの外廊下を歩いていく。階段は両端にあって、フロアの確認が終わると階段で上へ上がった。

 酒井の文字はなかなか見つからない。六階から七階に上がるあたりで息が苦しくなった。喘息の発作が起きた。トートバックをまさぐって、吸入薬を持っていないことに気づいた。夏場は例年調子がよかったので、油断していたのだ。

 大きく息を吸う。気管が狭まっていて、思ったように肺に空気が入らない。紗英は外廊下の壁に凭れて目を閉じた。ゆっくり息を吸って、吐いた。息を吐くたびにヒューヒューと喘鳴がする。まるで濡れたタオルで口と鼻を塞がれた感じがする。

 紗英は未熟児として生まれ、呼吸器が脆弱で入退院を繰り返していた。一才の誕生日を迎えるころから症状は改善してきたが、呼吸器の障害は気管支喘息として残ってしまった。小児喘息は成長するとともに症状が改善することが多いというが、紗英の場合は今にいたるまで続いている。

「大丈夫ですか?」

 背後から声を掛けられる。紗英は目を開ける。スーツを着た、セミロングの女性がいる。

「喘息の発作ね、吸入薬は?」

「……忘れちゃったんです」 

 女性は黒い小ぶりのショルダーバッグから小さなL字の形をしたものを取り出した。喘息の吸入薬だった。紗英が使っているものと同じタイプだった。

「これ、使う?」

 紗英はうなずいて、吸入薬を受け取った。口に当てがって、後ろのボタンを押す。同時に息を大きく吸って、薬を気管支に送り込む。

 すうーと、呼吸が楽になった。タオルがなくなった。

「ありがとうございます」

 紗英は礼を言って、吸入薬を返した。

 女性は吸入薬を受け取って、微笑んだ。

「このマンションの方?」 

「いえ、友人を訪ねるところです」

 紗英はとっさに嘘をつく。いろいろ聞かれて、怪しまれても困る。

「そう、お大事にね」

 女性はそう言って、背を向けて歩いていく。これから夕食の支度をするのだろうか、スーパーの買い物袋を下げている。だがその姿も何となく上品な印象だ。紗英はその姿を目で追った。一番遠い、反対側の階段の近くだろうか、ドアが開いて女性はその中へ入っていった。

 階段の踊り場あたりで少し時間を潰す。五分も経っただろうか。紗英はまたネームプレートを見ながら外廊下を歩く。該当者ないない。そしてそのフロアの最後のドアの前、紗英は息を飲んだ。

 <酒井由紀 爽太>

 丁寧な文字で書かれている。戻りながら、その隣室も確認する。

 <山上>

 とそっけない印象の手書き文字。単身の男性を想像させた。





(あの優しそう女性が、虐待なんかするのだろうか?)

 芝生を歩いていく。真夏の午後の鋭い日差しが、肌を焼く。

 翌日。午前中はお店を手伝って、午後は中央図書館へ自転車で行く。何となく日課のようになっている。この後は予備校へ。昨日印象がよかったところに再度行って話しを聞こうと思っている。お母さんにはまで言っていない。いずれにしても今週中にけりを付けなければ、と思う。

 そしてこの件も。

 隣の部屋、<山上>を尋ねてみようと思っている。

 虐待の客観的な証拠、物音、悲鳴を聞いたという証言があれば、児童損段所へ通報するつもりだった。

 夢だけの根拠では説得力がない。説得するにも、そもそも本当に虐待なのか自信がない。しかし、このまま放ってお盆になって、爽太の身にもしものことがあったら……。

 紗英の思考はどうどうめぐりだ。

(友達に相談しようか?)

 とも思う。しかしその根拠が夢とあっては、友だちたちも真剣に取り合ってはくれないだろう。心理学に興味を持ち出したころ、友だちの夢分析をして面白がられた。アニムス=理想の男性像の話しは占いにも似て、割合と受け入れられやすかった。だが、それも最初だけだった。傘を忘れると「(その場所に)戻りたいという深層心理が働いたんじゃない」などと言われるとやはり嫌がられてしまう。いつしか「紗英の心理学、マジでウザイ」という評価に落ち着いてしまったのだ。

 もともと人との付き合いが上手ではなかった。高校の同級生は内部進学組と外部受験組に分かれてしまっていて、紗英の数少ない友だちはみんな外部受験組だった。勉強で忙しいこの時期に夢判断のことで相談する気には、どうしてもなれなかったのだ。

 <山上>のドアの前に立つ。

 電気メータを見る。表示部分の下の円盤が結構な速さで回っている。クーラーが動いているのではないか、と紗英は直感する。

 隣の、爽太の家のドアを見やる。平日の午後、爽太は塾へ、お母さんは仕事に行っているはず。

 深い息をひとつする。紗英はドアフォンのボタンを押した。

 ピンポーンと音がする。待ってみる。一、二、三……十まで数えてもう一度押してみた。

(留守なのだろうか?)

 不在でもペットのために空調を付けている家があるという。しかし、犬の鳴き声もしない。出直そうかと思いつつ、もう一度押してみる。

 ――すると、「はい」と声が聞こえた。男性の声、若そうだ。不機嫌そうな印象が伝わる。

「あの、ちょっとお尋ねしたいことがありまして」

 短い間がある。

「だれ?」

 不機嫌さがアップしている。

「あの、遠山というものですが」

「宗教?新聞?どっちもお断りだよ」

 ドアフォンが切られる。

 紗英は一瞬ためらってから、またドアフォンを押す。一度、二度、三度、怒られてもいいと覚悟を決める。

「――しつこいね、おタク!何なの?」

 不機嫌はマックスに達してる。

「宗教でも新聞の勧誘でもないんです。お隣の――」

 紗英は声をひそめる。

「――酒井さんことで、ちょっとお伺いしたいことがあるんです」

「――お隣、はあ?ぜんぜん付き合いないよ、無駄なんじゃない」

「――すぐ済みますから、開けて話しをさせてください。お願いします」

 気配がする。覗き穴からこちらを見ている。紗英は帽子を取った。小さな穴の前で、つくり笑顔を浮かべて見せる。必死だった。

 施錠が外れる音がする。ドアが開いた。

 以外にも、割合と嘆声な顔立ちの若い男性だった。クーラーの効いた空気が漏れてくる。

 紗英はアタマを下げる。

「あの、酒井さん息子さん、爽太くんていうんですが家庭内で虐待にあっているんじゃないかという情報がありまして」

どういう情報だよ、と思いつつ、紗英は一気にしゃべった。

男は紗英を吟味するように見る。その視線に紗英は萎縮してしまい、この場から逃げ出してしまいたい衝動に捕らわれつつも、何とか堪える。 

「区役所のヒト?」

 紗英は首を左右に振る。

「じゃなんなの?」

「遠山といいます」

「それは聞いたさ、どういう立場のヒトなの?」

 紗英はうつむいてしまう。

「キミ、中学生?」

「違います、高校三年です!」

「高校生がどうして、こんなことをやっているわけ?」

「――爽太くんの知り合いなんです!」

 つい、大きな声を出してしまう。

「彼、爽太くんか、認めた訳?虐待のこと」

「……いえ」

「そういうことは児童相談所とかに言ってみたらどうなの。こっちはさ、関わりになりたくないのよ、そういうことに」

 男は鋭く投げつけるように言い放って、紗英の顔をのぞきこむ。紗英はたまらず目を逸らしてしまう。

「OK?わかりましたか」

紗英は、うなずくしかなかった。

「……はい」

 ドアが大きな音を立てて閉まる。紗英はドアの前に取り残される。 

エアコンの室外機が唸りを上げて、熱気を吐き出している。まるで怒っているように。しかし、紗英は二の腕のあたりをさすった。寒気がする思いだった。おとなの男性から、こんなに強い口調で言われたことがなかった。

ふと、視線を感じる。

横を見る。隣の家のドアが少し開いていて女性が顔を覗かせている。見覚えがある上品な顔だち、爽太の母、酒井由紀だった。

(最悪だ……)


「どうぞ、召し上がれ」

 テーブルの上にアイスティーが置かれた。ベランダに面したリビングのダイニングテーブルに紗英は座っている。ベランダ側の窓は開け放たれて、風が通っている。芝生の公園が広がっている。その向こうに区立中央図書館のレンガ色の建屋が木々の間から見え隠れしていた。

「クーラーが苦手なの。爽太がいる時はつけたりするんだけど。暑い?」

 紗英は首を振った。アイスティーに口を付ける。紗英の好きなアールグレイだった。こんなに緊張しているのに、紅茶の味が分かったのがおかしかった。

「それで、説明してくれるかしら、どうしてお隣りの方を訪ねたりしたのか」

 紗英は、黙り込んでしまう。空気がどんどん重くなっていくのを感じる。

「喘息の発作を起こさないでね」

 由紀は笑って見せた。紗英は由紀を見上げる。キッチンを背にして、もたれるようにして立っている。細いジーンズに明るい色のブラウスをゆったりと着こなしている。地味な格好なのに、どことなく気品があった。いったいいくつなんだろう、と紗英は思ってみる。まだ四十まではいっていない感じ。

(うちのお母さんとはぜんぜん違う)

 こんなおとなの女になりたい、紗英は置かれた状況はともかく、そんなことを思った。

 そう思っていると、腹が据わってきた。この人に全部話してみようと思った。アイスティーをもうひと口、今度はごくりと飲んだ。

「きっかけは、そうユングでした」

「ユング?」

「精神科医で心理学者のユングです」

 ああ、というように由紀はうなずく。

 紗英は、区立中央図書館でのこと、爽太が繰り返し見たという夢のことを話した。そしてなぜか予知夢だと思っていること。 

 由紀は紗英の話しをじっと、ほとんど身じろぎみせず聞いていた。

 ようやく話し終わって、紗英はアイスティーを口に含んだ。

 由紀はキッチンの引き出しから何か小さな箱を取り出した。紗英はそれがタバコであることに気づくまで、ちょっと時間がかかった、何となくイメージに合わなかったからだろうか。

「いいかしら?」

 紗英はうなずく。由紀はキッチンのファンを付ける。すんなりした指に細めのタバコと挟んでいる。引き出しを少し捜してライターがないことに気づいたのだろうか、ガスレンジに点火して、そこからタバコに火を付けた。

 由紀は深く吸い込んで、ゆっくりと煙を吐きだした。

 由紀のタバコの匂いがした、ハッカのような匂い。かすかに甘く、悪い匂いではなかった。

「喘息なのにねえ、これだけはやめられないの」

 そう言って、由紀は微笑んだ。そしてくすくすと笑い出した。

「爽太はね、夢想癖があるのよ。小さいころからそうなの。変な作り話を拵えて、おとなたちを煙に巻くの」

「夢想癖、ですか」

 由紀はうなずく。タバコを灰皿に押し付けた。まだ半分も吸っていない。その上から、蛇口の水を掛けた。

「そうね、東尋坊は毎年寄ってるわね。甘エビを食べるのも本当。でもあの崖から飛び降りるなんて」

 由紀は眉間にしわを寄せる。

「――とんでもない。怖い思いなんてさせたくことなんてもちろんないし、虐待だなんて、あなたの思い過ごしよ。予知夢っていうのもあの子の作り話。言ったでしょう、夢想癖があるのよ。それがけっこう手が込んでるものだから、まわりのおとなたちが騙されちゃうのよ。いっそ医者じゃなくて小説家を目指せばって言ってるの」

 由紀はまくし立てるように、一気にしゃべった。

「わかってもらえたかしら?」

 両手を広げてみせる。外人のような仕草に見えた。きっとこの人は英語もうまいんだろうな、と紗英は関係ないことを思った。

 由紀は壁掛けの時計を見る。午後3時になろうとしていた。

「さあ、もういいかしら。夕方から爽太の塾で三者面談があるの。それで今日はお休みを取ったのよ。私がいたのはあなたにとって計算外だったでしょうけどね」

 由紀に促されて、紗英は立ち上がる。

 思いついたように由紀は言った。

「そうそう、あなたのお名前を聞いていなかったわ」

 紗英は自分の告げる。由紀はテーブルの上から何かを取って紗英の前に置いた。見ると由紀宛のダイレクトメール。横にはペンが置いてある。

「あなたは私の名前も住所も知っている。でも私はあなたのことを何も知らない。これってフェアじゃないでしょう」

 由紀は紗英の目をまっすぐに見た。

「ここに名前と住所を書いてもらえるかしら」

 ダイレクトメール、酒井由紀と書いてあるすぐ下の余白を指で示す。

 紗英は一瞬ためらうが、促されて仕方なく書いた。由紀と自分の名前住所が並んでいる様が、とても奇妙に見えた。

 書き終えて振り返ると、由紀の視線があった。今までにはない厳しい目つきだった。

「あなた、通報なんてしないわよね」

 紗英は答えられない。

「根も葉もないことで通報なんかされたら迷惑なのよ。あの子も今はとても大事な時期だし、わかってくれるわね」

 由紀の目がまっすぐに紗英を見つめている。

恐ろしかった。逃げ出したかった。が、紗英はやっとのことで堪えている。

(この人は私を脅している、やっぱりやましいことがあるのでは?)

 疑念が芽生え、それはあっという間に膨らんでいく。

 言葉はすっと出てきた。

「虐待は連鎖するんです」

「――え?」

「あなたは幼いころ虐待を受けたことがありませんか?」

「何を、何を言ってるのあなた!」

「もし虐待を受けていたのだったら、自分のところで食い止めて連鎖を断ち切る覚悟を持ってください」

 自分にもこんなに気の強いところがあったのかと、紗英は驚いた。

 由紀は、一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに体制を立て直した。

「――冗談じゃないわよ。ちょっと心理学をかじっただけで他人のこころに土足で踏み込むなんて、あなた、やっちゃいけないことをやってるのよ。何がユングよ。笑わせないで。そういうのをね、『生兵法は怪我の元』っていうの。大体あなたがやったことは何なの。息子の跡を付けて住所を調べ、近所にありもしないことを触れて回って、ストーカーと同じじゃないの」

「ストーカー……」

「いい、もう二度と付きまとわないで。このあたりをウロついたり、息子に近づいたりしたら、警察を呼びます」

「警察……」

「――出て行きなさい、早く!」

 もう堪らなかった。スニーカーを突っかけたまま玄関を出た。そのまま逃げるように外廊下を歩く。

 涙が出た。最悪の気分だった。

(紗英の心理学、マジでウザイ)

 そう言ったクラスメイトの顔が浮かぶ。

 こんなところに来なければよかった。

(私は、最低だ……)



 お盆明けから塾の集中講座に通うことにして、それまでは自宅でひたすら勉強を続けた。塾も新宿や池袋ではなく、地元赤羽の小規模な塾だった。母には臨床心理士になりたいことは、言えなかった。中学からずと同じ学校ではなく、外の世界が見てみたい。そんな説明をした。特に反対する理由もなく、塾代もすんなり出してくれることになった。

 紗英は久しぶりに、といっても二週間ほどだが、区立中央図書館を訪ねた。酒井由紀のマンションから近かったので、足が遠のいていたのだが、自室に篭っていると気が滅入ってしまう。身体のリズムが崩れて、また眠れなくなってしまうことが恐ろしかった。

 お気に入りのウッドデッキの木陰の席へ座る。水筒には氷をたっぷり入れたアールグレイのアイスティー。塾の推薦の分厚い問題集をどんと置く。背伸びをしてみた。それだけでだいぶ気分がよくなった。

 爽太のことは気になった。しかし、もう自分にできることはなかった。

(そういうのをね、『生兵法は怪我の元』って言うのよ)

 由紀のこわばった表情が浮かぶ。

 紗英は目を閉じて首を大きく振った。何かを振り払うように。

 爽太のことで、気になることがあった。

 別れ際の言葉だ。

(高い崖のことは、その本の中にあるよ)

 その意味が紗英にはわからなかった。さっき心理学関連の書棚からこの本を抜いて持ってきた。

 <ユング心理学入門(河合隼雄著)>

 パラパラとめくっている。ふと、中ほどのページに付箋紙が貼ってあることに気づく。

 付箋紙には鉛筆でこう書いてあった。

 (お姉ちゃんへ  やっと見つけたね   そう)

 紗英ははっとする。そこは<夢分析>の項、そして、小項目として<予知夢>とあった。

 紗英は慎重に読んでいく。

 そこには、予知夢として有名だというS夫人の夢が紹介されていた。

 

 息子のFが見知らぬ人と高い崖の上にいる。するとFは急に崖からすべり落ちてしまう。S夫人はその男に向かって「どなたですか?」と尋ねる。男は「ヘンリー・アーヴィンです」と答える。夫人はさらに「俳優のアーヴィンですか」と尋ねると男は、「俳優ではありませんが似たような職業です」と答えた。

 夢から覚めて夫人は息子Fのことが大変心配になる。その八日後、Fはある崖の上で殺されてしまう。後日夫人はその場所を尋ねる。そこで夫人は夢で見た男に出会う。名前を尋ねると、男は、ヘンリー・デベレルというが、コンサートで歌をうたったりしていて、そのときは、ヘンリー・アーヴィンと名乗っていたと告げる。

 

 夢の解説によればこの夢は、息子の死だけでなくその場に居合わせた人(犯人ではない)の姿や名前まで予知している不思議な夢だという。

 紗英はゆっくり息を吐いた。

(あれは夢じゃなかったんだ)

 でもなぜ、あんな夢を見たと言ったのか。わからない。由紀の言うように夢想癖があるのだろうか?  

 もうひとつ分からないこと、それは紗英の解釈に「当たってる」と言ったことだ。崖の下の海から水、無意識という連想だった。「当たってる」というからには、別の夢、爽太が本当に繰り返し見た夢があるのではないだろうか。

 そのとき、誰かが紗英に呼びかけた。

 紗英はメガネの顔を上げる。

「遠山さん、だよね」

 若い男性だった。顔を近づけてくるので、紗英は驚いて思わずのけぞってしまう。

 男は笑っていた。

「ごめんなさい、びっくりさせて」

 紗英はようやく気づいた。端正な顔だちに見覚えがあった。

「この間は済みませんでした。仕事でテンパってたんで、ついキツイことを言っちゃって」

 男は軽く頭を下げた。酒井由紀の隣室の山上だった。

 打って変わって礼儀正しい態度に紗英は戸惑ってしまう。

「お仕事中だったんですか?」

 山上はうなずきながら、ベンチの向かいの席に座った。

「プログラマーなんですよ。在宅勤務の。ぼくらの世界はネット環境さえあればどこでも一緒だから。会社に行かない分、通勤ラッシュとか、無駄な人間関係とかに煩わされずに済むでしょ」

 紗英はうなずきながら、いろんな職業があるものだと思った。

 山上もこのウッドデッキが好きで、時々来ては本を読んだりお茶を飲んだりしていたのだという。たまたま紗英を見かけて声を掛けてきたのだ。

「実はあれからいろいろ考えてね。通報したんですよ。児童相談所に」

「――え?」

「調べたら、匿名でもできるって言うし、今は通報は義務だってさ」

「やっぱり虐待は、あったんですか?」

 山上はコンビニで買ったらしいアイスコーヒーのストローを口に付け、コーヒーをすすった。大きくうなずいた。

「あのお母さん、息子さん、爽太くんだったかな、彼の勉強のことになると人が変わるんだよね。怒鳴る、叫ぶ、わめき散らす、もう大変。マンションの壁を通して聞こえてくるんだよね。暴力はないのかも知れないけど、あれはある意味で言葉の暴力、いや暴力より悪質かも知れない」

 山上によれば通報したのは、紗英が尋ねた翌日。児童相談所が酒井由紀にどういうアプローチをしたかは分からないが、最近は怒鳴り声もないという。

「爽太くんのお母さん、私が(通報)したって思ってますよね」

 山上はストローを軽く噛んで、「たぶん」と言った。

「でもあの時ぼくが本当にことを喋ってたら、遠山さん通報してたでしょ。おんなじじゃない」

「まあ、それはそうだけど」

 紗英はマンションの方向を見上げる。茂った木々の間から、わずかに白いマンションの一部が見えている。

 腕時計を見て、山上は「じゃあ、また」と言って席を離れていった。真夏の日差しの中、芝生を歩いている。在宅勤務でも昼休みは社内と同じ時間帯らしかった。

 紗英の思いは複雑だった。爽太のことが心配だった。

 お母さんを苦しめてしまったと、自分を責めたりしなければいい。そう思った。

 そう、夢のことだ。

 紗英は爽太が書いた付箋紙を見ている。ふと思いついて、自分のペンケースから付箋紙を取り出した。

 ――『生兵法は怪我の元』――

 由紀の台詞がよみがえってくる。それを振り切るように、紗英は付箋紙に書き込んだ。

(ごめんなさい、お母さん。もう解釈はしません。ただ知りたいだけ)

 別な夢が、きっとあったはず。

紗英はこう書いた。


 そうくん   本当の夢、教えて   お姉さんより

 

 紗英はその付箋紙を、爽太が貼った同じページに貼った。<ユング心理学入門>を閉じた。


 そういえば自分の夢のこと。大学受験、心配だった爽太のことがいい方向へ進んで安心すると、忘れていた自分自身の不思議な夢のことが気になってきた。

(お母さんに聞いてみよう)

 紗枝は思った。もしかしたら、自分が幼くて覚えていないことを知っているかも知れない。

 朝、お店の手伝いをしている時、思い切って尋ねてみた。

「お母さん、私、昔しから不思議な夢を見るのよ」

 母の智子はガラスケースを雑巾で拭いている。ケースの中にいろんな記念写真のサンプルが額に入って飾ってある。私の写真も幾つかある。幼稚園、小学校、中学校の各入学式の記念写真。以前は恥ずかしくて仕方なかったが、最近はそれはそれでいいかなとも思っている。今度はここに大学の入学式の写真が載ればいいけど。

「そう、どんな夢なの?」

 智子は何気ない感じで応える。紗英もカメラやレンズの陳列ケースを拭いている。

「夢に出てくるのは女の子なんだけど、その子は会うたびに私と同じように成長しているのよ。この間に夢にも出てきて、やっぱり十八歳くらいになってた。でも実際にはそんな女の子、知らないのよ。不思議じゃない」

 拭き終わって雑巾をバケツの中へ水へつける。絞っていると、智子の声が聞こえないのでふと、見やる。智子がじっと紗英をを見ている。その表情が凍り付いている。

「お母さん?」

 紗英は雑巾を置いて、智子の方へ近寄る。

 ちりりん、と鈴がなる。酒屋(今はコンビニ)のおばさんだった。

「ごめん、ちょっと出直してくれる」

おばさんは面食らったように立ち尽くし、「あ、はい」と言った。

「紗英、ちょっと」

 智子は紗英の手を取る。店の奥へと向かう。居間を抜け、短い廊下がある、寝室、紗英の部屋と、昔風の商家なのでこの家は奥行きが意外に広い。

「お母さん、ちょっと待って、どうしたのよ」

 ここは仏間だった。おじいちゃん、ひいおじいちゃんの写真が飾ってある。

 仏壇には小さなご飯とお花が供えられている。智子の毎朝の日課だった。

智子は黒い位牌を一つ取って、仏壇の真ん中に置いた。そして正座して手を合わせ、目を閉じた。

「紗英、あなたも拝みなさい」

「お母さん、どういうこと? 教えてよ」

 智子は何も言わない。紗英は仕方なく両手を合わせて目を閉じた。

 智子の声が聞こえた。

「紗英、あなたは本当は双子だったの。七ヶ月目でひとりが亡くなってしまって、あなたの方にも影響があるかも知れないというので、月足らずだったけど帝王切開で産んだのよ」

「私は双子だった……」

 智子はロウソクに火を灯し、線香を付けた。線香の落ち着いた香りが漂う。

「死産だったから、役所にも届けず、この位牌だけは作ってあげたのよ。紗英の夢に出てくるなんて、かわいそうに成仏できなかったんだ。紗英、今まであなたにも言えなかった。ごめんなさい」

 智子は静かに泣いている。泣きながら、お経を唱えているようだ。

「お母さん、これは私の夢の中の話しだから」

 智子は一心に拝んでいる。

 紗英は気になったことを尋ねてみる。

「その子は、どっちだったの?」 

 智子はゆっくりと目を開ける。

「だから、女の子よ。二卵性の双子だから、もし生まれていれば姉妹と同じで似ていてもそっくりではないはず」 

彼女の容貌を思い浮かべてみる。似ているところがあるといえば、そうかも知れない。背格好はほとんど一緒だった。

 ただ……

(あの子の方が、美人だ)

 紗英は位牌を見つめる。もちろん衝撃は受けた。しかし、嫌な感じではなかった。夢の中で彼女と会う時のように、懐かしい想いがした。紗英は目を閉じて、今度は真剣に祈った。

(あたしたち、姉妹だったんだ。また夢で会おうね)

 


 セミが鳴いている。紗英は中央図書館のウッドデッキにいる。水筒から直接、冷たい紅茶を飲んだ。今はお盆休み。もちろん受験生の紗英にはお休みはない。お盆が明ければいよいよ塾の集中講座が始まる。スタートが遅い分のおくれを、少しでも取り戻さなければならない。

 でも今は、ちょっとだけ勉強をお休みする。爽太から『別の夢』について返事があったのだ。<ユング心理学入門>を図書館に来るたびにチェックしていたのだが、今日例の予知夢の項に返事が挟んであることに気づいた。書ききれなかったからだろう、付箋紙ではなくノートのぺージを一枚破って書いている。

 

お姉ちゃんへ 本当の夢を書きます。     そう

 ぼくは海の中にいる。海は静かだ。砂浜にお母さんがいるのが見える。ぼくは本当は泳ぎが得意じゃないのにどうしてだか、水に浮いている。お母さんはぼくに気づいていない。男の人とその家族が来た。男の人はお父さんだ。お父さんが新しい家族を連れて来たんだ。お母さんは、でも笑っている。どうしてなんだろう、あんなに嫌っているのに。お母さんはお父さんの家族とどこかへ行ってしまう。ぼくは寂しさでこころがいっぱいになってしまう。風が吹いてきた。海が荒れてきた。風はだんだんと強くなってくる。でもぼくはいつの間にか宙に浮いている。なんだ、ぼくは飛べるんだ。


 ひどく悲しい夢だ。自分だけが海の中にいて、砂浜には母親と離婚した父親がいる。両親は自分がそこにいることすら気付いていない。

 自分の夢を思い出してみる。たとえば先日の彼女との夢。遠くに静かな海が見えた。海は砂浜側から見るか、海の中にいるとすればだれかと一緒に遊んでいるとか、そんな夢が普通なのではないだろうか?

こんなふうに自分だけが水の中にいて、砂浜で楽しそうにしている家族をただ見ているだけなんて……。そこから読取れるのは、深い孤独感、疎外感だ。

紗英はお父さんのことを話す爽太の、今にも泣き出しそうな暗い表情を思い出した。

そうすると、紗英のこころに悲しみが満ちてきた。涙が溢れてくる。紗英はハンカチで濡れた頬を拭った。

ただ、この夢には救いもある。「なんだ、ぼくは飛べるんだ」というところ。以前の東尋坊の夢のことで紗英はこう言った。

「爽太くんは本当は水の中、お母さんのお腹の中の羊水にいた時のように、ただただ安心して静かに暮らして生きたいんだけど、現実はそうも行かないことをよく分かっていて、その困難に立ち向かおうと思っている」

 その解釈に対して爽太は「びっくりした、当たってる」と応えた。孤独を感じつつも、爽太は困難、直近は難関の中学受験、そしてその後人生に立ち向かって行こうとしていて、かつ自分にはその能力があることを無意識のうちに自覚しているのだ、と紗英は思った。

 ただ、この夢では虐待に結びつかない。虐待をイメージさせるものがあるとすると、母親が本来共通の敵であるはずの父親と、自分を裏切って仲良くしていることだろうか。しかしそれも、虐待の事実が判明した今だから分かることだ。

 やはりあの東尋坊の夢は、爽太が必死の思いで考えたSOSのメッセージだったのだ。

 紗英は芝生の広場の先を見つめる。木々の間から白いマンションが見え隠れしている。

(今頃は東尋坊で甘エビをたらふく食べているだろうか?)

 紗英は付箋紙を取る。こう記した。


 そうくん そう、キミは飛べるんだよ。がんばって! お姉さんより


 紗英は<ユング心理学入門>に付箋紙を挟んで、本を閉じた。

 夢は本当に興味深い。だから人間ははるか昔から、夢をさまざまに分析して理屈をつけ、評価してきた。

 お母さんが彼女の夢を、死産の子が成仏できなかったから、と考えたのも夢を霊的なことと結びつけて考えやすい日本人的な発想が根底にあるからだと、紗英は思う。

 紗英も彼女の夢についていろいろ考えてみた。

 紗英には言わなかったというが、幼子を前に両親や祖父がそんな会話をしていたことがあって、それを無意識のうちに記憶としてインプットしていたのかも知れない。もっとありそうなことは、胎内の記憶だ。双子は母の胎内、羊水の中で長い時間を共に過ごす。その時の記憶が、今はいない自分の文字通り血を分けた姉妹を探して、夢に出現させているのかも知れない。

 彼女との夢に必ず出てくる静かな海か湖、これは胎内の羊水をあらわしているのだろう。そして、今回初めてだったけれど(見たことがあるのかも知れないが、記憶に残っていない)白い列車。これは病院のイメージだろうか。そして列車は時を超えて移動する。羊水の海で、ふたりで遊ぶために。かつてそうだったように。

 紗英はベンチに腰掛けたまま、大きく背伸びをした。深く呼吸をする。新鮮な空気が身体じゅうに満ちていくのを感じる。

 心理学のことはしばらく封印しようと思った。どうせ希望通りの進学ができれば、イヤというほど勉強することになる。それと、これも親には言っていないが、臨床心理士になるためには修士課程の修了、つまり大学院への進学が必要なのだ。

 ふと、紗英にあるイメージが浮かんだ。

 精神科医になった爽太と臨床心理士の紗英が、ともに白衣を着てカルテを挟んで何やらやりとりとしている。

 紗英は微笑む。

(爽太くんはアタマがいいみたいだけど、私はなれるだろうか?)

 分厚い問題集を広げた。

「さて、やるか!」

 自分に言い聞かせるように、紗英は言った。

                           (了) 

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