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モルスの一日

作者: kuroe113

モルス=イラクの都市

ダーウィッシュ=中東でのイスラム国の呼び名

クルド人=国を持たない世界最大の少数民族

 イラク第二の都市、モルス。

 人類の文明の起源。四大文明を育んだチグリス川に面したこの都市に暗い影が迫っていた。



「まったく、戦争とはいやなものだ。働こうにも相手がいないのだからな」


 朝食の席であるにも関わらず

 ミシュアの目はスマートホンに釘づけだ。

 画面から日時が6月6日であることが分かる。

 

 ここ最近、食事のマナーにうるさかった彼もそんなことで取り繕う余裕が消失していた。

 ちょっとした情報の差が生死を分けるかも知れないのだ、ゆっくりと食卓を囲む余裕が無いのだろう。


 心なしか平たいパン、ホブスが硬く感じてしまう。


「しょうがないわ。戦時だもの。お客様が来ないもは当たり前だわ。むしろ、戦渦に巻き込まれることなく暮らしていけるのを祝うべきよ。

 それに……」


 それだけ言うと、彼女は夫の携帯を手に取り、あるページを見せた。


 最新ニュースだ。

 ここからほど近い都市、サマラからダーヴィッシュが、政府の攻撃によって追放されたとあった。

 だからだろう、空には白いハトが舞い、妻の顔も明るかった。


「近場だったから心配だったけど、一安心ね」

「どうだかな、新しい獲物を求めてこっちに来ているかもしれん」

「あんたは悲観的に考えすぎよ。

 注目すべきは、見方が勝ったていうことよ」

「味方か、やつらにとっては我々はただの異教徒だ。敵の敵というだけさ。ほんの少しの違い、紙一枚程度の差でわれらも標的になるだろうさ。

 お前だって何度も経験しただろう。

 フセインに追い詰めていく中でこの国のだれが俺たちを助けてくれた」


 ミシュアには過去の情景が、父や親戚に聞かされたものも多いがしっかりと思い出せた。

 毒ガスによって同胞が殺された時、この国で自分たちを助けてくれる存在はいなかった。

 隣国イランは助けてくれたが、単なる利害関係であることを皆が理解していた。


「まったくチュニジアの時は、世界が変わると期待したが、この有様とは」


 思いだすのは2010年に起こった革命だ。

 アラブの春と呼ばれる民主化運動は終わってみればさらなる混乱を世界にもたらしただけ。


「アメリカがやってきてからすべてがおかしくなった!」


 無論、自分たちがアメリカから支援を受け戦っているのはわかる。

 フセインのことは嫌いだが、二代ほど前の大統領がやった戦争が正しかったかと問えば、それこそ主に向かって間違っていたと断言してもいいくらいだ。


 怒りのあまり叩きつけられた拳が、食器類を揺らした。

 まだ幼い、息子がそれをおびえたように見つめている。


「あなた」


 静かな、それでいて芯がある妻の声に夫はしまったという顔をして拳をひっこめた。


「悪い、ついかっとなってしまった。

 しかし、な……」


 フセインは多くの同胞を殺した。

 けれど、彼の統治時代の方が住みやすかったというのは厳然たる事実だ。


「その話はもう何度も聞きました」


 腕の中に抱いた赤ん坊をあやしながら、もううんざりだと夫に言った。


 気まずさもあってか、それ以降は、食卓は無言だった。

 皆が紅茶を楽しみそれを飲み干したところで食事は終わった。






 少し後、チグリスを渡る橋の上に彼等親子はいた。

 川に糸を垂らし釣りをしているのだ。

 このご時世、食うにも困る有様で、少しでも食料を浮かせようとの行動だ。


「やはりドイツに向かうべきか……」


 しかし、ミシュアは上の空だ。

 目の前の竿ではなく、懐から取り出した世界地図と絶えずにらめっこしていた。


 ドイツの首相は難民の受け入れを受諾した。

 つい最近でも、彼の近所に住まう住人がヨーロッパに出発したばかりだ。


 身重な妻がいるせいで出発に二の足を踏んでいたが、出発は今しかないと思った。

 空爆によってダーヴィッシュどもが拠点を喪失して宙に浮いている今しか。

 安全にヨーロッパに渡る手段がない。


 川でのんきに釣をできているのはそういった理由もあった。

 本来なら彼もそこまで暇ではなかった。

 街の防備を固めたり負傷者の救護の手助け、軍事訓練をはじめやることは無数にあった。

 それでも、こうして時間を潰しているのは気持ちを整理するためだった。

 故郷から離れる覚悟を決めるために思考を整理したかったのだ。


 加えて、もう一つの選択肢があった。

 ここよりも後方にあるクルド人自治区へと向かいそこで戦うのだ。

 

 何もかもが巧く行けば、この子たちに国という大きな未来を勝ち取れるかもしれない。

 そんな迷いがあった。



 しかし、結論から言おう。彼の選択は少々遅すぎた。



 釣の時間は短かった。思いのほか成果が上がったので早めに切り上げたのだ。


 帰宅の途中。見知った通路の中で、


「パパどうしたの」


 父の顔色が険しくなったのをヨシュアは感じ取った。


「シッ!?」

 

 しかし、言葉が終わる前に口をふさがれ物陰に身を隠した。


 眼前には見慣れない男の姿が。

 小麦色の肌に黒い巻き毛。

 そして頭部にあるのは特徴的な帽子。

 一見して、ごくごく普通のクルド人だが頭部に違和感があった。

 クルド民族の伝統衣装、ピーチ・オ・キャルーラウは頭部をさらすことを好ましくないとされるクルド人たちの伝統二のとった帽子だ。

 その帽子にはクルドの伝統の細工が編み込まれるのだが、ミシュアはあんな模様見たことがなかった。

 とはいえ、既製品かもしれないし、知らない紋様、個人の趣味かもしれない。

 怪しいと断言できるほどの物ではない。


「まったく、戦争とは嫌なものだ。こうも疑心暗鬼になるとは……」


 感じた小さな違和感を飲み込み、足を進めようとした時、男が電話で話をしているのが聞こえた。


「それで、showの準備はまだか。

 こちらに向かってんだろう。

 そうか、もうすぐか。

 こちらでも準備にかかる」


 遠く、声も大きくなかったので、はっきりとは聞き取れなかったのだが、父の背にスーッと、冷たい汗が流れた。


 杞憂だと思うし、速く帰りたいが、放置することもできなかった。

 ミシュアは息子に一人で家に帰れるかと聞くと、ヨシュアは素直に頷いた。

 かごいっぱいに積まれた魚が七歳の子供の小さな体には重そうだったが、それ以上の重圧が自分にはのしかかってきているのだ。


 感じた違和感のままに男を尾行することにした。

 諜報員活動をしたことが無くても、戦時を生き抜いてきたのだ。

 手慣れたとは言えないまでも、不自然さはは無かった。




 ☆



 尾行中、男は空家へと足を向けたり、警察署、市役所、病院、空港などといった重要な拠点を写真にとっては送信していた。

 まるで、物語に登場するスパイのように!!



 後になって思えばミシュアはタイミングを逸したと語るだろう。

 ゆっくりと振り返った男と目があったのだ。

 しまったという顔をして、男は肩にかけてあった銃器を抜きにかかる。


「くそっ!!」


 来ると身構えるも、その銃は地面に置かれた。

 ―――どういうことだ、本当に過激派ではないのか。


 銃を置いたまま男はこちらにゆっくりと近づく。

 男の顔には薄い笑顔があり、こちらに敵意がないことを示すように両手を挙げていた。

 怪しいと思い後をつけていたのにッミシュアは警戒を緩めてしまった。


 それはあまりにも致命的だった。


「やあ」


 気軽な挨拶と共に、男は蹴りを入れた。

 訓練を積んだ者特有の鋭さがあった。


 男の銃には消音装置が取り付けられていなかった。

 取り付けられていても、全ての音声を消せるものではない。

 隠密厳守のスパイ活動で、騒音を出したくなかったのだろう。

 だから近づいて殴り掛かった。




 殴り、殴り返され、顔に幾つもの青あざを作ったが、最終的には男は勝利していた。

 同じくらいの体格だったせいか、最初の一撃が大きかった。

 自分の下で首を絞められている男を見つめ……。


「あばよ」


 一声だけかけた。

 別に返事など期待してはいない。

 それでも……。

 天がお前はまだ死ぬべき時ではないというように、奇跡が舞い降りた。


「あ、お父さん」


 死にかけ、全てをあきらめかけていた男の顔に生気が戻った。

 視線を向けると息子は狭い路上片隅からこちらへと走り、向かってきていた。

 こっそりこちらについてきたのか、それとも帰りが遅い自分を心配したのか。

 

 それだと、どうやって自分の居場所をと思って、携帯のGPSを使ったかもと思った。

 死にかけているせいかやたらと思考の回転が速くなる。


 ―――来るな。


 思考がその一念に塗りつぶされているというのに、頭は冷静にそんな無駄なことを考えてしまった。


 危惧していた最悪の事態だ。


 せめて息子だけでも。


 そして……



 ☆



「息子は、ヨシュアはどこだ」


 一瞬意識が飛んだ。

 なにが起こったのか理解できなかった。


 周囲を見回し、周辺の民家に大きな、そして見慣れた破壊後があるのを目撃した。


「何が、どうなって」


 意識からの混濁からようやく立ち直り、周囲を冷静に見れるようになってようやく状況を理解できた。

 男は反射的に周囲を見渡した。

 だが、息子の姿はどこにもなかった。

 静かだったこの場所も今では喧騒に満ちていた。

 避難しようと走り回る人、戦いに出向く人、混乱し右往左往している人物。

 人、人、人。

 けれど、そこに愛する息子の姿は無かった。


「そうだ、こんな時こそ」


 電話を取り出して、仲間に連絡する者のつながらない。

 何かよからぬことが起きたと男も理解していた。

 であるから、二度三度と違うメンバーにも連絡するが誰も出ない。

 もしや、電波塔が破壊されたかとも考えて、五度目にしてようやくつながった。


「聞いてくれ、ダーウィッシュの」

「そんなことはどうでもいい、今すぐこちらに来い、緊急事態だ」

「俺はスパイらしき人間に襲われたんだ、それ以上に重要な」

「なら、今俺が見ている景色を言ってやる。黒い旗を掲げた装甲車や戦車やらが砂煙をあげ名がこっちに走ってきている。

 つべこべ言わずにこっちにこい」


 ―――ナッ!!


 報告を聞いてミシュアは絶句するしかなかった。

 敵が来るかもしれないとは思っていた。

 それでも、ことが動くのはもっと先だと、そう思っていたのだ。


「やつら、新しい拠点にここを選びやがった」


 思わず、そばにあった壁に拳をたたきつけた。

 じんわりとした痛みを感じるが、今はそれどころではなかった。

 

 中間か、息子か。

 男として行動するか父として行動するのか。

 男は今人生の岐路に立たされていた。






 六月九日。


「すまん、本当にすまん」


 男は誤っていた。

 誰に対してかは本人にすら分からない。


 クルドにおいて勇猛さが尊ばれ、臆病という風評は最大の侮辱である。

 それでも、ミシュアは自分の選択が正しいとはとても思えなかった。

 

 彼は結局、父としてではなく男として戦場に立つことを選んだ。


「あなた、もう……」


 そう、悲しげに、半ば泣きながら自分を引き留める妻に対して、彼は悲しげに首を振ることしかできなかった。


「いいかよく聞きなさい、私たちは世界から見放された民族だ。自分たちの身は自分で守るしかなく、誰かが助けてくれることなど考えてはいけない。


 それでも……。






「糞が!!」


 男は思わず、壁をけりつけてしまった。

 目の前にはまだ幼い男の子が自分の服を心細そうにつかんでいた。

 上目遣いでこちらに目を向ける姿は子犬のようだった。


 だが、男には時間がなかった。

 彼は街の外に出て仲間たちとともに戦いに参加しなくてはならないのだ。

 故に、この小さな少年を助ける暇などなかった。


 さらに言えば、この子は異教徒だ。

 自分の敵側に立っている人間だ。


 理性は見捨てるべきだといい、

 感情は……。


ある光景を映し出した。


「言ってらっしゃい、パパ」


 まだ幼い娘の姿だ。

 心細そうに、今少年がしているのと同じように自分を見上げながらも自分を気丈に押し出したあの姿がちらついてしまう。


「ああ、くそ」


 男は少年の手を持って歩き出した。






「どうにも、不審者が捕まったそうだ。そいつが、お前が言っていたスパイに瓜二つでな。本人かどうか確認してくれないか」


 それは戦争の合間にできる休戦時の出来事だった。


 その言葉にミシュアは砂糖がたっぷり入った紅茶のカップを置くと足早に報告があった場所に向かった。


 そこには多人数によって拘束されている一人の男と、そんな彼を心配そうに見つめる一人の男の子がいた。


「ヨシュア」

「パパ」


 もう二度と会えない。そんな悲壮な覚悟を決めていたのに、再会できた二人は熱い抱擁を交わした。


 そんな二人に水を差すのは悪いと思ったのだろうが、それでも今は。


「それでこの男は」

「嫌、人違いだ。間違いない」


 父は、戦士としてではなく、一人の人間としての言葉を出した。

 知らないはずがないのに、自分の街を絶望に追いやった憎き怨敵であるというのに、それでも息子を守ってくれた恩人として男を見たのだ。


「そうですか」その一言とともに男は拘束から解放された。

 しかし、感謝の言葉を述べることはなく。

「達者でな」


 背にその言葉を向けるだけで、二人の男を歩き出した。


 男は父としての旅路(ヨーロッパ)へ。

 父は男として泥沼の戦場へ。


 しかし、忘れることなかれ。

 彼等もまた人であると。

 同じ赤い血を持つ強大であることを。

 同じ神を信仰する啓典の民であることを。


知識の不足のせいでいろいろ間違いがあったと思いますが読んでいただきありがとうございます。

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