8
音楽会が終わり、かけ足をするように十二月に入った。
その十二月もあっというまに半分がすぎたころ、ある朝。
教室に入るなり、クラスメイトの視線がぼくに集まっていることに気づいた。ふだんからだれかに注目されることなどほとんどないぼくは、気持ち悪いやら居心地悪いやら、いぶかりつつも席に着く。
美和はまだ登校してなく、この状況を問う相手もいない。どうかすると、あまり健康的でない笑い声さえ聴こえてきそうだった。
そんなとき、なに気なくまえの黒板に目をやった。とたんに目が点になる。
黒板には大きく相合傘が書かれていた。
傘の下、片方に森田。もう片方には柿迫とあった。
一瞬サァーッと血の気が引いて、次に頭めがけていっせいに血液がかけ上がってきた。しばらく頭の中の回路がグッチャグチャに混線して、なにが起こっているのか正しく認識できない。
やっと、多少なりとも気をとり直すと、この落書きのせいで教室に入ったときからみんなの視線が自分に集中していたんだと悟る。
でも、なんで? 柿迫さんって?
そうだ。これが、相手が美和ならまだわかる。腕相撲の一件があるから岡村のグループのだれかがいたずらで書いてもおかしくはない。それが柿迫さんって、いったい――。
知らず立ち上がっていた。足は黒板に向かう。黒板消しをつかんで必死で忌まわしい落書きを消していた。
われに返り、黒板消しを持つ手がこきざみに震えていることに気づく。それを放り出すようにおくと、自分の席に引き返した。もちろん、だれが書いたのか問い質すことなんて、とても無理だ。そこへ、
「森田ぁ、オマエ、柿迫のこと好きなんだって?」
からかうような声。その主に顔を向けるとクマキチがニタニタと嫌らしく笑っていた。まわりにいた数人の男子も同じような顔でこっちを注視している。もしかすると、教室中がそんな視線を送っていたのかもしれない。
「なっ、なにを――」
否定しようとしたけど言葉が繋がらない。耳がジーンとしびれるようで自分の言っていることすらよくわからなかった。ところどころ「あついあつい」や「ヒューヒュー」と冷やかす声が届くけど、それが自分に向けられていることにまで気がまわらない。まして当の柿迫さんがどうしているのか、うかがう余裕もなかった。彼女だっていい迷惑だろうに。
そのざわめきが急におさまったと思ったら、美和が横に立っていた。
「おはよモリハル、なにかあったの? 朝から難しい顔して突っ立って」
不思議そうな顔でぼくを見る美和。席にもどったのはいいけど座ることを忘れていたらしい。
「ううん、なんでもない」
視線をそらしながら席についた。
「そう」
美和もそう言って座ったけど、直前の教室の空気やらぼくの態度からなにかしら感じていたはずだ。それでも追及してこなかった。
その日の授業はいっこうに身が入らず、相合傘についてずっと思いめぐらせていた。
そもそも柿迫さんとぼくの接点を考えてみても、ほとんど思いあたらない。あるとすれば、少しまえの音楽の授業だろうか。
音楽会の合奏曲の練習で、早く演奏を完成させた生徒は遅れている生徒を指南するのだけど、このときぼくは教える側にまわって数人の生徒を担当した。そのうちのひとりが彼女だった。
でも必要以上の会話をかわした記憶はないし、これまで特別意識したこともない。
ただ柿迫さんの名誉のためにいうと、ぼくが意識してなかったからといって、彼女はけっして目立たない生徒というわけじゃない。
おとなしいけどいつもオシャレで雰囲気は明るく、ちょっとぽっちゃりしていても、アイドルみたいな可愛さをそなえた女の子だった。ただ単にぼくと接点がなかったというだけ。いや、本当は、ぼくの関心は美和にしかなかったからだけど。
柿迫さんは今年の九月に転校してきたばかり。だからぼくに限らずクラスメイトとのなじみもまだうすい。それでも仲のいい友だちもできていたし、ぼくなんかよりよっぽどクラスにとけこんでいた。そんな彼女とぼくを結びつけて根も葉もない噂を立てたヤツがいる。この教室の中に。
いちばん怪しいのはクマキチか。わざわざあんなふうに声をかけてきたことが最たる証拠だ。それじゃぁ理由はなんだろう。面白半分?
岡村といっしょになって腕相撲についてからんできたとき、ぼくのことをにらみつけていたのがクマキチだ。その延長の嫌がらせだろうか。それにしたってぼくの相手がどうして柿迫さんなんだろう。
ともあれ、あれこれ悩んだところで真相にたどり着くはずもなく、ひとまず静観する以外なさそうだ。そのうちぼくに関する噂なんかみんな忘れてしまうに決まっている。
と、まだ楽観視していた。でもこの展望は大間違いだった。
それから、ぼくが柿迫さんを好きだ、という噂は、忘れられるどころか逆にどんどん広まっていったのだから。それも予想以上に広い範囲に。
クマキチやそのほか数名の男子がぼくの顔を見るたびに意味なく「かぁきぃさぁこぉ」とはやし立て始めた。また、なにかのはずみでぼくと柿迫さんが近づこうものなら、ここぞとばかりに「よっ、ご両人、おあついねぇ」「ごちそうさまぁ」と冷やかされる始末。こんな状態で数日もすると、このありえない噂はクラス中の知るところとなった。当然、美和の耳にも届いていたはず。
ただし、美和はいっさいそのことに触れてくることはなかった。これだけあからさまに噂になって気づいてないはずもないのに。美和がどう思っているのか知りたかった。きちんと否定する機会がほしかった。
ぼくはぼくで柿迫さんの顔を変に意識してさけてしまう。これが自分でもわかるくらい不自然な態度になっていた。
一週間がすぎ、終業式目前の放課後、帰り道のこと。いっしょになったフクショーが、
「あ、あのさモリヤン、ちょっと言いにくいんだけどさ、教えておいたほうがいいのかなぁって思うことがあるんだけど……」
「な、なんのこと?」
足下から立ち上がるように嫌な予感がした。
「いやそれがさ、モリヤンのことがちょっと噂になっててね」
やっぱり。大方の予想をしながら、
「どんな?」
「それがね、モリヤンが柿迫って子のことを好きだっていう噂なんだけど。知ってた?」
「うっ、うん。自分のクラスでもそんな感じで噂になってるから。で、でもぼく、まったく身におぼえがないんだよ」
「そーなんだろうなぁとは思ってたけど、やっぱりそうか。だれだろうね、そんなくだらないこと言いふらすヤツは――」
まさかよそのクラスにまで広まっているとは思ってもなかった。
さいわい、ぼくにとって救いだったのは、数日後はもう冬休みで、ひとまずこのゴタゴタでメンドークサイことから解放されることだった。
冬休み中はフクショーに数回会っただけで、ほかの生徒と顔を合わせる機会はなかった。
毎年クリスマス会なるものに無縁のぼくは、母さんが買ってきたケーキを食べただけ。プレゼントは事前に好きな本を買ってもらっていた。
大晦日には、市内に住む母方の親戚の家に行った。母さんが、毎年恒例の親戚中で協力して行うお節作りに参加するためだ。また年が明け正月二日は、いとこたちと長田神社へ、これも恒例の初詣でに出かけた。
そうやって例年と変わらない平穏で短い冬休みがすぎ――そして始業日。
ぼくにとって小学生最後となる学期の始まり。
これまでわりかし平坦に送ってきたはずの生活が、去年、特に二学期はなにかしら高揚を感じる日々だった。女の子みたいな言いまわしをすれば、今までにない胸の高鳴りをおぼえる瞬間が何度かあったってこと。これもひとえに美和と席を隣合わせたことから始まった関係性があったからこそ、だ。
それが三学期になると当然席替えがあるわけで、偶然また隣り合わせる可能性などないに等しく、美和と離れるのは必至だった。
新聞係のほうは、去年最後の壁新聞を作った際、美和から引き続きいっしょにやることを誘われ、ぼくも続けるつもりなので、まったく関係がなくなるわけじゃなかったけど。
「あぁあ、これでモリハルとも離れちゃうねぇ。残念だなぁ」
席替えのくじ引きが始まるまえ、美和はそんなふうに言ってくれた。こんなときくらい気のきいた返事をすればいいのに、ぼくはここでもうなずき返しただけ。
結果、ぼくと美和の席は教室の端と端ほど離れてしまった。でもそれがどうでもよくなるくらい大問題がふりかかった。
ぼくの斜めまえの席が柿迫さんになったこと。しかも同じ班になった。
だれのせいでもないけど、よりによってこんな近くになるなんて。お互いにとって悲劇だ。案の定、ホームルームが終わって小路先生が退室すると、
「森田、よかったな。恋人の近くになって」
帰り支度をしたクマキチがわざわざ近づいてきてへらず口をたたく。
「だからなんでもないんだって……」
ぼくは今まで通り効力のないセリフで言い返す。クマキチはそれを黙殺すると、今度はぼくのまえの遠藤に、
「遠藤、オマエきぃきかせて、森田と席、かわってやったら」
そう言ってまわりの注意を引くように馬鹿笑いした。遠藤は愛想笑いを返しただけ。かわりにぼくの隣になった平木さんが、
「熊野、そういうこと言うのやめなよ。智ちゃんが嫌がってるでしょ。ぜんぜん関係ないのに」
柿迫さんをかばうように抗議する。ぼくだって関係ないのに。
「しょうがないじゃん。柿迫は森田にすっごく気に入られてんだから、なぁ」
クマキチは近くにいたナータンと肩を組んで、ふたりしてまた馬鹿笑いしながら教室を出ていった。
柿迫さんはまえを向いてうつむいたまま。平木さんがぼくをにらみつける。ぼくはなにも言えずランドセルを持って教室を出た。
平木さんがぼくに向けた非難の意味はわかる。もし噂が事実無根ならどうしてクマキチたちに対する怒りを表に出さないのか、それをしないで言われっぱなしというのは噂を認めていることになるんだぞ、結果柿迫さんに嫌な思いをさせているのはオマエだ、ってことだと思う。
でも平木さんはわかってない。だれもが彼女と同じように思ったことを口に出せたり感情をぶつけたりできるわけじゃないってことを。
美和はさっきのやりとりを見ていたのかな。そう思うと肺にたまった空気がズンと重たくなった。