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数日後の朝、ホームルームが始まるまえ、サッシが美和の席までやってきた。
「美和ごめん。今日、急に家の用事ができて早く帰らないといけなくなったから、わたし、新聞係のほう、休むね」
「あ、いいよ。今日はモリハルとふたりでやっておくから。レイアウトはもう決まってるし、先に文章の清書をしておくよ。いいね、モリハル?」
「うん」
それを聞いてもサッシの家庭の事情などまるで想像もできない。彼女はふだん必要最低限のことしか話さないし、ましてプライベートなこととなると皆無だ。美和はどこまで知っているのか、特に頓着もしないで応答していたけど。
なんにしろ、三人のうち、だれかが新聞係の活動を休むのは初めてのことだ。
そして放課後、お約束がなくなって以来、初めて美和とふたりきりになった。
西日の射し始めた教室にはなんとも微妙な空気が流れる。どこがどうというわけじゃなく、ふたりのあいだがラップ一枚でへだたっている、そんな微々たる違和感。気になるだけで居心地が悪くなるほどでもない。ぼくはただ作業に没頭した。
サッシがいない分、進められる作業も限られていたのでいつもより早く終わった。
鍵をかけて教室を出る。一階まで下りて校舎を出ると運動場わきの水飲み場のまえ。いつもならそこで美和の「お疲れさまっ」の声でぼくは北校門へ、美和とサッシは南校門へと別れるところだ。
ぼくはいつものように足をとめ、いつもの美和の一声を待った。
「モリハルお疲れさま。ねぇ、今日は早く終わったし、わたしも北門から帰ろぉっかな」
「なんで? すごく遠くなるよ」
「なんでだっていいじゃない。サッシもいないし、ただの気分転換。それに早く帰ったってなにかあるわけじゃないもの」
「そう……」
「そうなの。さぁ行こう」
美和はぼくのまえを歩き出した。追って横にならぶ。
美和は早く家に帰りたくないのかな。それでわざと遠まわりするつもりかも。サッシと帰るときも、もしかすると寄り道しているのかもしれない。今日は特にいつもより一時間以上早く終わったわけだし。そして、帰りたくない理由なら心あたりがある。
昼間から酔っぱらっている父親。不良の姉とそのカレシ。このふたつの要因のどちらかが彼女の足を家から遠ざけているに決まっている。
校門からバス道に出る。一応バス道だけど坂の多い小さな町のこと、道幅もせまく交通量も少ない。子どもたちは車道歩道を気にせず歩く。
たまに通る車をよけながら五分も行くとハイカラ堂という駄菓子屋があり、この先からぼくの家へはわき道にそれる。果たしてここからどうするのかと美和をうかがった。これ以上ぼくについてきても彼女の家から遠ざかるばかりだから。
「ぼくはこっちの道から帰るけど、美和はこのまま真っ直ぐ進んだほうがいいんじゃないかな?」
「わたしもモリハルといっしょに行くよ。このまま行ったら結局グルッとまわって南門から出るのとそんなに変わらなくなるじゃない。言ったでしょ。気分転換だって」
「うん……」
そう言われてしまうとなにも言い返せない。もちろん美和といっしょにいる時間が長ければそれだけ嬉しいけど、この場合素直に喜べない引っかかりがあるのもたしかだし。
「それに、モリハルの家の近所も見てみたいな」
「ウチの近くまでくるの?」
「ダメ?」
「いや、別にダメじゃないよ。でも遅くならない?」
「平気だよ。新聞係で放課後残らない日でも、亜澄やヒィちゃんの家に寄り道してしょっちゅう遅くなってるから」
そんなわけで、さらにぼくには慣れ親しんだ道を美和とふたり歩いた。
美和はさっき名まえを出した自分のグループの女子についてたわいもない話をした。長野さんの飼っている犬がまるでパンダのようなカラーリングだとか、平木さんの一年生の弟がやんちゃですぐ戦隊ヒーローになりきってキックしてくるとか、次々と、まるでなにかの話題から遠ざけるように。ぼくはいつも通り相づちをうった。
そのうち、このあたりに住む子どもたちから〝大貫さんの竹やぶ〟と呼ばれる雑木林のまえにきた。ぼくやフクショーはいつもこの林を迂回する道をまわらずに、突っ切るやぶ道を通っていた。本当は私有地なので勝手に入っちゃいけないのだけど、近道だし見つかっても大貫のじいさんもなにも言わないので、子どもはよくこの道を使った。
ただ下草が気ままに繁茂して慣れてないと歩きづらく、女の子はあまり足を踏み入れたがらない。
このときも最初は無意識に足を踏み出そうとして、美和をつれていることを思い出し、足を引っこめた。
「あれ、いつもその道を通っているんでしょ。わたしならぜんぜん平気。面白そうじゃない。そっち、行こうよ」
美和が言うので、再びやぶ道に足を向けた。
雑木林はふだんからひっそりとして、夕闇が迫るこの時間帯はさらに淋しさを増す。
民家から離れているので生活音は届かない。かわりに風の音、葉ずれの音、鳥の鳴き声や羽ばたく音がひそむようにまじり合って、別の世界に入りこんだ気分になる。
しばらく黙って歩いた。ふたりの落ち葉を踏む音が背景にとけこみ出したころ、
「サッシが今日残れなかったのって、たぶん晩ごはんを作るからなんだよ。ねぇ、意外でしょ?」
後ろから美和が声をかけた。秘密を打ち明けるようで、さっきクラスの女子について話題にしたときとは違うトーン。水道の蛇口から流れ出す水と、谷川の川底を洗う清流ぐらいの差がある。
「そうなんだ。それはちょっと意外かな」
たしかにあのサッシが家で料理をしていることは意外だったけれど、ぼくには美和がサッシのいないところで彼女の話をしたことのほうが意外だった。それもかなりプライベートな事情を。もちろん面白半分で話しているふうではない。
「サッシのお母さんはね、何年かまえに亡くなってるんだ。お父さんは仕事で海外に行くことが多いからあまり家にはいないの」
「え、それじゃぁサッシはだれと暮らしているの?」
「おばさんと。それに弟と妹がいる。それでね、いつもはそのおばさんがごはんを作るんだけど、おばさんがたまに仕事で遅くなる日があって、そのときはサッシが買い物して晩ごはんも作ってるみたいなんだ」
それなら今日は急遽〝おばさんが遅くなる日〟になったってわけか。ふつうに「帰って晩ごはんを作らないといけないから」と言わず「家の用事ができた」と言い直すところがいかにもサッシらしい。
「あの子、学校ではあんな感じでほとんど素顔を見せないし、とっつきにくい子だと思われてるけど――まぁたしかにそういう面もあって、でもちゃんと話すと気さくなとこもあるんだよ。家に遊びに行くと、弟や妹のめんどうみがよくて、すっごくいい子だしさ」
美和はサッシの家に行ったことがあるんだ。イメージだとサッシは自分の家に友だちを呼んだりしないタイプだと思っていたけど。美和が例外なのかな。
「美和はどうやってサッシと仲よくなったの?」
これはまえまえから気になって訊きたかったことだ。ふつうにサッシのクラスメイトとしてすごしていても彼女は絶対そんな隙を見せそうにないから。
「わたしの中ではまだ仲良しってとこまでいってないけどね。でもほかの子にくらべたら心ひらいてくれてるんだろうな。モリハルは四組にいるわたしの弟の洋介知ってる?」
「うん」
「その洋介が五年生のときサッシと同じクラスだったの。去年の二学期、洋介がクラスの仲間数人と遊んでいるとき、その場にいないある男子――仮にAくんとしておくね。そのAくんのことを洋介が話の流れでつい悪いように言ってしまったんだ。洋介の性格からして悪口じゃなくて悪気もなかったと思うよ。でも後日その場に居合わせた子がAくんにそのことをしゃべっちゃった。そのしゃべった子も半分ジョーダンのつもりだったんじゃないかな。でもAくんにすれば、自分のいないところで自分の悪口を言われたと思って当然気を悪くするじゃない。話の前後まで聞かされたわけでもないし」
聞いていて美和がいったいなんの話を始めたのかよくわからなかった。
「と、ここまではしかたないとして洋介にとっての不運は、そのAくんというのがクラスでも猿山のボス猿的存在だったってこと。後日、Aくんは洋介を殴ったあげくクラスの男子全員でシカトするようにたきつけた。要するにイジメよね」
「えっ……」
足をとめて美和をふり返った。話があらぬほうへ向いたから。
ぼくは五年のとき、洋介やサッシのいたクラスの生徒を思い浮かべた。その中からAくんだと思われる生徒が浮かび上がる。
「たしかに軽口だったといえ本人のいないところで悪口ととられることを言った洋介が悪いんだけど、それにしたって全員で無視することはないよ。洋介だって殴られるまえに謝ったって言ってたし。とにかく最初の一週間くらい、洋介が話しかけてもどの男子も相手にしなかったの。でもまだ無視されるだけならマシだけど、ある朝登校すると黒板にでっかい文字で洋介を罵るひどい言葉が書かれてたんだ」
その内容を美和が伏せたことからその不快さがしれる。クラスの男子全員の無視だってそうとう陰湿だと思うけど、そんな場所に自分を中傷する言葉が書かれていたらぼくならどうするだろう。美和はぼくのそんな思いをくんだのか、
「そう、洋介はその場に固まって動けなくなってしまった」と告げた。
「それで……」
続く言葉が出ない。
「そのときひとりの女子が教室のまえに出ていったの。それがサッシ」